Twitterが使えなくて

昨日は、Twitterができなかった一日だった。これを機に、もしもTwitterがこのまま本当になくなってしまったら・・・と考えた。

私たちは近年の出来事の原因を「SNSの発達」を使って器用に説明してきた。例えば、生理のアクティビズム。生理が隠されたものではなく、日常の出来事として語ることができるようになったのは、間違いなくTwitterのおかげだ。Twitterで日常についてを発信し、生理のリアルを語り、生理の経験がある人たちの間で共感を呼び、ムーブメントが起きた。最近のアクティビズムのほとんどがそうだ。Twitter上でのデモもあったり、現実のデモもTwitterで呼びかけられたりする。私たちがどれだけTwitterによって社会を動かしてきたのかが実感できた。

一方でもしTwitterがなくなってしまったらどうなるのか。端的に言うと「小さな声を拾うこと」が困難になるだろう。Twitterで流れてくる言葉はアルゴリズムによって制御されているものの、現実で耳にする言葉よりも、広範囲で、そして現実では聞くことのできない声を拾うことができる。現実では言うことのできない限りなく小さな不満でも言うこともできる。

そして、Twitterがなければ、私たちは共感をし、出会うこともできないのだ。心の中の小さな不満や不安をつぶやくことで、私たちはそれにいいねやリツイート機能で共感を示す。それが承認欲求と結びつくことが問題視されてはいるものの、共感を得て、小さな声を大きくすることができるのは、Twitterのいいところであり現実では可視化できなかったもの(共感)が数値化されるのだ。

知らぬ間に私たちはアセンブリすることができていたのだ。そこに身体性は存在しないが、実際に集会をするよりも包括的な・非排除的な集会をすることができたのだ。その場に集まることができない身体状態であっても、オンライン上では集合できる。それは、これまでの「集会」のあり方を超次元的に解体することであり、集会の革命だったのだ。

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