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えつおの日記てきな。

2020年。4月1日。

春から働く関係で熊本に引っ越して来て、5DKなんて大きすぎる家にたった独りで住み始めて、
社会人になるってなんか予想以上に怖いなぁと思った。

夜になって外からなんか物音が聞こえるな、怖いなとか
手のひらくらいのめちゃくちゃでかいクモが出て来て怖いなとか
そういうのも怖いけど、漠然と「俺大丈夫かな」っていう不安。
社会人になったという意識はあんまりないのに、
何かをするたびに「こんなことをして大丈夫か?」という疑問が出てくる。
今までは学生だったからしゃーないっていう安全圏にいたような気がする。

というその気持ちもあくまで気のせいで、
そもそも大学に入ってから、成人してからは一端の社会の一部なのだからお前が意識する以前に義務も権利も与えたぜって世界はいうんだろうな。

初出勤を終えた。
自分でもびっくりするぐらいすぐ終わった。
生徒はコロナの影響で授業がまだ始まってないらしい。
僕は何をしていいのか、何はしてはいけないのかわからない。
漠然とこんなことがしてみたい、

あんなことがしてみたい、がもやもやと膨らんでは消えて行く。
これをしたらいいじゃん、はすぐにめんどくさいに変わる。
自分が自分に甘いことはわかっていたけれど、社会人になったんだからもっとしっかりしなきゃとは思うんだけどね。

そういえば昨日、友達と話してて
悩んでる人に対する相談で「これしたらいいんじゃない?」っていうと一緒じゃない感がやばいって思った。
だからやりたいと表明されたときは「じゃあこれ次来るときまでに見せてよー」くらいな感じまでセットでやるべきなんだと。
何をするかに焦点が当たりがちだが、いつするのかについて焦点が当たることはあんまりないような気がする。

そして今日を振り返って思ったのは「一緒に在る」という状態とは何なのか?という疑問。
よく「答えは一緒に作るもの」という表現を耳にしていたからか、一緒に?と良くわからなくなって来た。
一緒とは何か。それは「伴走」という言葉も同じようなことが言える・
どこまでなのか。どのくらいまでなのか。
答えは一緒に作れるのか、役割分担のようなものが存在するのか、そもそも一緒に走れる部分とそうでない部分が存在しないか。
どんなことを意識しているのか。

なんとなくだけど、彼らと一緒に入れるのは僕じゃなくて僕から発せられた「ことば」なんじゃないか。

いつだったか忘れたけど、先輩が言っていた話で
「人は問いを投げられると答えを出そうとする。そしてそれは答えが出るまで頭に残り続ける」
なるほど。
結局彼ら彼女らと一緒にいるなんてのは僕の驕りで、僕の発した問いや問われそうなことばが頭の中で生き続けるしかない。
それはつまり、僕ではなく、ことばが残ってるということ。
修正はもちろん効くわけない。

って考えたら何もいえなくなりそうなので、
自分自身も気をつけつつ、振り返ることでいい方向に進んでいけたらいいなと思った。


教育関係者なのにこんな投稿で非常に恥ずかしいけど、
これからもっと勉強していきます。

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