見出し画像

高橋幸宏さんのこと。


僕は、今までに高橋幸宏さんに3回お目にかかったことがある。

お目にかかった、ったって僕はまったくの一般人だから、一方的に目撃したということなんですが。
3回とも僕が21歳のとき。大学2年生。1988年です。
1度目は、表参道のモリハナエビルの1階にあった、花水木という喫茶店で。心臓が止まるかと思いましたね。
2度目は六本木にあった、ターキッシュブルーというバーで。店内全体がターコイズ色の照明で染められていて、飲み物や食べ物の色がまったく判らない、というヘンテコな店だった。
3度目は西麻布にあった、TKビルっていう菊池武夫氏のビルの中の、レストランバーだった。なんというお店だったか、名前は覚えていない。

3度目だし思い切って話しかけてみようか、と思った。
3度目だし、って言ってもそれは僕だけのことで、幸宏さんにとっては、僕は初対面の、ただの見知らぬ青年でしかないんだけどね。
お酒の力もあったと思う。3度目にして、遭遇することになんとなく慣れてしまったような気持ちもあった。
演奏が途切れるのを待って——ジャズバンドのライブ演奏があるお店で、デイヴ・ブルーベックの曲を演っていた——意を決して幸宏さんのテーブルへ。

「それ、耀司さんのシャツだよね?」
僕を見るなり、幸宏さんがそう言った。
その時僕は、前身頃の裾に大きな赤い罌粟の花のプリントのある、ヨウジヤマモトの白いシャツを着てたんだった。
「いいね」と幸宏さん。
この先ボクの人生どうなっちゃうんだろう、ってくらいに高価なシャツだったけど、それを選んで買った自分を讃えたい。
ユキヒロに着てるモン褒められたんだゼ?そんなことってある?
そしてその日たまたまそれを着ていたという、天の配剤に深謝。
その頃の幸宏さんの一番新しいアルバムだった、『ラ・パンセ』と『イーゴ』を買って聴いた、みたいなことを伝えた。
「そう?クラくなかった?」
愉しんだことを伝えると、
「ならよかった。どうもありがとう」
その、どうもありがとう、の言い方が、幾度となくレコードやラジオで聞いた、軽くて柔らかくてやさしい幸宏さんの口調そのもので。いつまでも耳に残り、今でもありありと思い出せる。
細くてきれいな指で煙草を挟み、その手を頬に当ててほほえみながら、僕の緊張し切った、たどたどしい言葉を静かに聞いてくれた。
幸宏さんがどんな洋服を着ていたか、誰と一緒にいたか、などはまったく思い出せない。ただ、文字盤が白で真四角の腕時計をしていたのは覚えている。

しかし、僕があの当時、いかにチャラチャラ遊んでばっかりいたかが、丸わかりだな。でも、だから遭遇できたのだ、とも言える。
チャラさバンザイだ。



高橋幸宏という音楽家が、どんなバンドを組み、どんな曲を作って、どんな演奏をして、どんな歌を歌って、どんな人のプロデュースをしてきたかは、ここには書かない。もうすでに、幸宏さんと縁のあった、たくさんのミュージシャンやライターが書いているし、幸宏さんが残した夥しい数の曲を聴けば解ることだ。
ただ、レコード店で、イエロー・マジック・オーケストラのLPジャケットを初めて見た時の、なんだこれは……!?っていう強烈なインパクトのビジュアル——『ソリッド・ステイト・サバイバー』の、真っ赤な人民服を着た3人の男たちがマネキンと麻雀——は幸宏さんあってのことだろうし、『増殖』以降もレコードが出続けたのは、幸宏さんがいたからだ。幸宏さんの持つ柔らかさが、ぎくしゃくしがちだった細野さんと教授の緩衝材になっていたし、また接着剤にもなって2人を繋ぎ留めていたんだと思う。さもなければ、早々と分解していただろう。『BGM』も『テクノデリック』も、なかったかもしれないんだぜ。
むろん、僕がYMOにズブズブと嵌りこんでいったのは、幸宏さんがいたからだ。

僕がYMOに出会ったのは13歳の時。1980年だ。
僕と同世代の人たちが、10代前半でYMOに出会えたのは幸せだった、みたいな物言いをよくするけど、そんなの関係ないよね。まったく無意味な言い草です。
30代でも40代でも50代でも、出会えたのなら、それは幸せな出会いだ。



僕は当時、中学生の頃、はやく大人になりたかった。大人たちはすごく楽しそうだった。
大人は楽しそうだなあ、いいなあ。僕も早くあの人たちのようになるんだ。おもしろいぞ、きっと。

楽しそうな大人というのは、大好きなYMOの周りにたくさん集まっていた。
仲畑貴志、糸井重里、川崎徹なんかの広告屋さんたち、矢野顕子、忌野清志郎、立花ハジメ、中西俊夫などミュージシャン、高橋章子、萩原朔美、榎本了壱らビックリハウス一派、橋本治、村上龍、田中康夫、椎名誠、嵐山光三郎ら物書き、赤瀬川原平、南伸坊などガロ系の人たち、浅田彰や栗本慎一郎とかのニューアカの人たち、湯村輝彦、安西水丸、奥村靫正、ペーター佐藤らデザイナー、泉麻人、影山民夫、宇野亞喜良、などなどなどなど。こんなの挙げてたらキリがないな。
こういう、パルコ文化やセゾン文化の人たちに憧れた文系少年は、あの頃大勢いたはずだ。
最近、今の文系少年たちは、どんな人たちに憧れてるんだろうか、とふと思うことがある。果たしているんだろうか。そういう対象って。
また、そんな遥か遠くの人たちだけでなく、僕の父の周りにも楽しそうな大人がたくさんいた。

あの時恋焦がれていた人たちのようには、まったくなれなかったけど、僕は大人になった。
あの人たちみたいにはなれなかったけど、仲間にもなれなかったけど、つまらなくはない。
むしろ、おもしろい。中学生高校生時代より、遥かにおもしろい。
あの人たちが、あの頃の僕に見せてくれていたように、僕も努めて楽しく過ごすようにしている。
一体、大人が子供たちにしてやれることのうち、楽しそうに暮らしている様子を見せること以上に、大切なことってあるんでしょうか。
それが大人の、社会での役目ですよね。



それから30数年、ギューンと時は進んで。
2022年9月18日。
NHKホールで、『高橋幸宏デビュー50周年記念ライヴ』が開催された。僕も足を運んだ。
みなさんも知っての通り、回復ままならず、体調は思わしくなく、幸宏さんは不在だった。

これ、こう捉えるのはいかがなものか、とは思うけど。
今思うと、あのライブは、恐ろしく手間のかかった、恐ろしいほど豪華なメンバーによる、『高橋幸宏生前葬』だったんじゃないかと。
そんな気がしてならない。
ゆかりのあったミュージシャンが大挙して、入れ替わり立ち替わり、幸宏さんの曲を演奏して歌ったのだ。
あの日、ステージと客席を包み込んでいた、熱狂とは違う、不思議な祈りのような感覚。
幸宏さんどこかで聴いてるかな、幸宏さんに届けば良いな、どうか届きますように、という感覚。これは、ひとを偲ぶ思いそのものですよね。
これから先、高橋幸宏音楽葬、みたいなものが行われるのだとしても、あのライブはとても超えられないだろう。

でね。その50周年記念ライブ、1曲目が「スイミングスクールの美人教師」だったんですよ。演奏が始まった途端、ゾワーっと鳥肌が立って涙が溢れて止まんなくなっちゃったんですが、それと同時に、ああっ!しまった!って思ったんですよ。
この曲は、LP『音楽殺人』のB面の1曲目。EP『音楽殺人』のB面曲でもある。
『音楽殺人』のLPは、僕の人生で間違いなく一番数多く、繰り返し繰り返し聴いたレコード。きれいなクリアブルーのレコード盤が、磨りガラスみたいになっちゃうほど、擦り切れるまで聴いたレコードです。

また30数年、ギューンと時は戻って。
1988年。
西麻布のTKビルでの幸宏さんとの遭遇。その時に、なぜ僕はそのことを、大好きな『音楽殺人』への思いを伝えてみようとしなかったのか。
なんかねえ、あんまり古いレコードのことを持ち出すのが、とても失礼な気がしてしまったんだよね。だから、新しい『ラ・パンセ』と『イーゴ』のことを話した。さほど聴き込んでもなかったのに。それほど思い入れもなかったのに……!
1988年に1980年のレコードのこと話しても、全然失礼じゃなかったんですよね。だって2022年のライブに1980年の曲で幕開けしたくらいだからね。
まあ、50周年という節目のライブだから古い曲もじゃんじゃん演るよー!という面はあったろうけど。

第一、いくら古い作品でも、心血を注いで作ったレコードを好きだと言われて、嫌な気持ちになるミュージシャンはいないだろう。いま落ち着いて考えればそう解る。
伝えてみればよかったなあ。僕が一番思い入れのある、『音楽殺人』のこと。
幸宏さんはきっと、ほほえみながら静かに聞いてくれたんじゃないかと思うんだ。



憧れた人たちのようになれなかったけど、僕の人生まあまあだ、と先に書いた。
でも、それでもやっぱり、あの人みたいになりたいな、と思わないこともない。
その対象は、言うまでもなく、幸宏さんだ。
僕は高橋幸宏みたいになりたかった。いや、今でもなりたい。
さらに言えば、みたいに、じゃなく、高橋幸宏になりたい。
オイオイオイ。なに言ってんだ。ヤベェ奴みたいだ。
もちろん、僕はタカハシユキヒロではないので、高橋幸宏になれる訳はない。はい、当然です。当たり前ですね。
でも、でもさ、こういう感覚ってないですかね、心のどこかに。その人になってしまいたい、みたいなの。憧れるあまり。
ネ、ホラ。あるでしょ?……あるんじゃないのかなあ。



すべてにおいて憧れて、恋焦がれ、僕がなりたい大人、高橋幸宏がいなくなってしまった。

日本一の洒落男。
日本一トム・ブラウンの洋服が似合っていた男。
あまり湿っぽい、めそついた気持ちは、幸宏さんとのお別れには相応しくない。
よく晴れた休日の昼間に、幸宏さんのレコードをかけて、空なんか見上げて、そういえばもういないんだなあ、なんて思うくらいがちょうどいい気がするよ。

僕はなんとなく、またどこか夜の街で、静かににこやかにお酒を飲んでる幸宏さんに遭遇できるような気がしている。
そしたらもういっぺん話しかけてみようか。
思い切って話しかけた1988年のあの日からは、僕も多少は人生経験を積んだので、今度はさほどドギマギせずに話せると思う。
その時こそは、大好きな『音楽殺人』のことを伝えてみよう。また聞いてくれるかな。

ねえ、幸宏さん。ユキヒロさん。
いつかまたどこかで。お会いできるその時まで。



——了


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?