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なぜあのエリートはバカなのか?_受験勉強の弊害

"Sollte es möglich sein! Dieser alte Heilige hat in seinem Walde noch Nichts davon gehört, dass Gott todt ist!"
_こんなことがありえるだろうか!この年老いた聖人は森の中にいて、まだ聞いていないのだ、神は死んだということを!

ツァラトゥストラかく語りき

 疫病や注射に関するこの3年間の騒動を経て、偏差値エリートや高学歴者がいかにバカなのかということが多くの人の目に明らかとなった(気づかないやつらも多いけど)。私も受験勉強を経て東大を出ているが、幸いなことにふつうの東大卒が就いているような立場にいなかったからこそ、小役人主義的な愚かな意思決定を下したり、他人に強制したりということをしなくて済んだけれども、もしも自分自身が同じ立場に立たされていたらどうなっていたかという、内心忸怩たる思いもある。

 私は過去の記事でも受験勉強なんかやめてしまったらいいと書いているが、勉強や学習一般を否定しているわけではもちろんない。学習において受験勉強的なテクニックや技術が役に立つこともあるし、現実の思考や意思決定には受験勉強的な発想が邪魔になるという場合もある。今回は私の考える受験勉強の弊害について記すので、それを避けながら学習すれば、バカな高学歴者とは違った自分なりの真の学びや思考ができるのではないかということで読んでもらいたい。

弊害その1:自身でしっかり納得しない知識や命題の鵜呑み

 最初は「自身でしっかり納得しない知識や命題の鵜呑み」ということだ。おそらくはこれが以下に記すその他の弊害にもつながり、もっとも有害なものだ。

 学習において丸暗記するということは確かに重要である。語学でいえばアルファベットや漢字、単語を暗記していなければ話にならないし、化学なら元素周期表とか、各分野において当然頭にたたき込んでおくべき知識の集合というものが存在する。

 ただ、闇雲に・頭ごなしに暗記すればよいというものでもない。なぜ暗記するのかといえば、暗記することによって知識同士のうちに存在する関連性を体得するためだ。元素周期表の例がわかりやすいが、元素の並びを丸覚えしておけば、陽子の数とそれに伴う各元素の性質の関連性が自然に理解され、化学的な現象に関する理解が促進される。暗記の目的はそのようなより深い本質の理解の補助のためであり、自分がよりよく納得するための通過点である。英単語や熟語・例文なども、山のように覚えることによって、その言語がどのように構成されているのかということが自然に分かってくる。

 それを、「丸暗記」という部分だけ強制され、意味も分からずにただ覚えるという段階に留まっている例が非常に多い。知識や命題をとりあえず覚えたら、続いてなぜそうなっているのか、よりよいものはないのか、他の可能性はないのかなど、その暗記を踏まえた次の段階に進まなければならない。それにはなぜものごとがそうであるのかについて自分なりに腑に落ちる納得がなければならない。自分で納得していない知識は結局自分の血肉にならない。納得がいかなければ、納得いくまで調べたり、他人に聞いたり、議論したりしなければダメだ。中途半端に利口ぶって、本当は腑に落ちていないのに理解して納得したふりをしていると、次第に思考力は落ちてくる。世の中の通念に対する疑問も持てなくなり、新たな道を切り開いていく力も衰える。

 これは自戒も込めてきちんと書いておく。基本的に近代以降の学校教育は兵卒を作るためのものであって、言葉による指令を理解し実行できても、その指令に対する疑問は持たないような人間を量産するように出来ている。その制度理念に合致・適応するものが東大だの京大だのに入れるようになっているので、高学歴者ほどすぐ利口ぶり、自身で納得がいかなくても知った風な態度を取る。私自身も未だにそういう利口ぶる態度に対する自己嫌悪に苛まれている。これはもう持病みたいなものだ。

弊害その2:外的な指標に対する依拠

 受験勉強で忙しくしていると、数多くある大学の個々の特色をしっかり把握することなどできない。そこで用いられるのが偏差値で、どれも似たような大学ならば、せめて偏差値の高いほうがよいという話になってくる。こういう思考過程を通じて、現実に存在する多種多様な事実を無視し、外的に与えられたなんらかの指標に依拠する、という態度が涵養される。

 就職活動に際しても「就職偏差値」とかやっているのがその愚かさの最たるものだろう。雑誌も就職先人気ランキングを掲載したりする。まったく性質の違う、そもそも比較対象になり得ないものを、ある指標によって序列化できるという誤った考えを、若い時分から人々に植え付けるものが受験勉強であると言っても過言ではない。

 たとえば仏教のある宗派について学ぶ学部と、理論物理学を研究する学部とでは、そもそも比較の対象にならないだろう(物理学を究極まで推し進めると仏教になるとかはあるかもしれないが)。それを、こちらは偏差値がいくら、あちらはいくらとすることによって、あたかも優劣を明確に付けることができるかのような錯覚を生じさせる。それはあらゆるモノの価値が価格によって表象され比較可能であるとする近代資本主義の論理を内面化することにもつながる。それは引いてはそのもの自体を見ずに、一般に何らかの外的な指標に依拠する姿勢を生み出すことにもなる。

弊害その3:正解や採点者がいるという誤った観念

 現代は混沌とした世の中なので、多くの人が将来不安を抱え、ネット上で情報発信したり指南したりしているインフルエンサーに質問を投げかけている。そういう質問の中で、一番気になるのが「何をしておけばいいのか」という形の問いかけをする人が結構多いということだ。何も自分が納得するようなことを納得するようにやればいいということに尽きるのだが、やはりノルマや与えられる課題があるかのような錯覚を持っている人が多いことの反映であるように思われる。こうした感覚を植え付けられる場の最たるものが受験勉強である。

 もちろん言い方として、自分が納得するために「これだけやっておけば大丈夫だろう」という感想が出てくるということはある。しかし、それは自分で考えて納得するためのものであって、外から与えられるものではない。課題や覚えるべき知識、考えるべき内容を外から与えられるように馴致させられてはならない。

 現実の世の中には正解も採点者もいないのであって、自分で納得いくまで考えたり行動したりするほかない。自分の考えや行動が正しいのかどうか、という判断の基準までも最終的には自分で納得できなければならないのである。そういう自分なりの判断基準のないのが、学歴エリートのバカさの表れだ。

おわりに

 ただ単に「学歴エリートは使えない」とか「バカだ」というのは簡単だと思う。しかし、その使えなさ、バカさというものはどういうものなのかを客観化し、他人が学歴エリートバカであればこれに対処し自分が学歴エリートバカであればその治療に努めることの助けにすることが現実的には必要だ。そればかりでなくいろいろものを考える際の参考にしていただければ幸いである。

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