見出し画像

ものごとは、起源へと回帰していく

 先日ツイッターで、「船舶投資型クラウドファンディング」なるものを見かけた。

 タンカーや商船など、貿易に関する船舶に投資できるという触れ込みで、投資案件としてどうなのかという点については何も言わないが、私はこれを見て「一周回って元に戻った」感を非常に覚えた。

 ご存じの通り、資本主義や株式会社の仕組みは、中世・大航海時代のヨーロッパで、貿易船への出資者を広く募り、個々人が自分のリスク許容度に応じた負担ができるようにしつつ大資本を集められるように発展してきた(ということになっている)。これが基本となって、不動産の流動化に発展したり、最近は絵画やら芸術作品やらの所有権を小口化して販売するみたいなスキームに転用されていっているわけだが、船舶を原資産としてそれを行うというのは一周回って最初にやっていたことに回帰したのでは?ということだ。近代資本主義は一段落して同じところに戻ってきた、というわけだ。

 その他の場面でも、中央銀行システムやマネタリズム、不換紙幣に基づくペトロダラー制、国民国家、官僚システム、その他もろもろの近現代の政治経済システムを特徴づける枠組みがすべて行き詰まっている。おそらくは近代以前、下手すると古代とかの、人間社会が本来あったような姿に戻っていく。インターネットも、志や趣味の同じ人たちが情報を共有するだけの場になって、交流や仕事は物理的に近くにいる人たちだけで行われるようになっていき、もともとの論文共有のためのツールみたいに回帰していくだろう。人間のアイデンティティも、外的に与えられる肩書きや地位によるのではなく、本人がまさにそれであるところの人でしかない、というような感じになっていく。

 社会や経済の変化は、一般の民衆にはまったく意識されない。しかし、これから不況が本格化し、恐慌がやってくると、会社が潰れたり失職したりして、職業や地位など外的に与えられたアイデンティティが崩壊し、それに伴ってアタマをリセットしなおすタイミングで、経済社会の変化を認識するようになるのだろう。一般大衆が分かるようになるのは本当の最終段階だ。これが真のグレートリセットかもしれない。

 じゃあどうすればいいのかということも最終的には、自分で考えて思ったとおりにやって、それに応じた結果がもたらされるということ以上のものにはならない。この世界の成立基盤に設定されている、自分が可能だということの範囲の中でしか自分の人生は動かない。それに対する善し悪しも優劣もない。そもそもそれでしかありえないものに対して、他と比較してどうこうということはありえない。世俗のモノサシに合わせることに汲々として、己を失った人には辛いかもしれないが、己が強ければ恐れることなどなにもないのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?