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50mmが好きなんだってば

 初めて買った単焦点はEF50mmf1.8。所謂撒き餌レンズ。たまたま量販店で売られていたのを買ったのだが、あまり使わなかった。印象としてはすごいボケが鋭い感じで、よく切れそうなどと考えていた。

 意識的に買ったのはシグマの85mm。まだARTシリーズを名乗る前のものだが、これでなんでも撮った。

 そこから単焦点にハマる。
 なかでも、特によく使ったのがEF50mmf1.2Lである。
 しっかりとした描写ではない。しかしコクのある写りをしている。切り詰めた露出と相性がいいと感じている。

 それからずっと50mmが好きだ。
 X100シリーズを使い続けてきたから35mmの使いやすさも分かるけれど、交換レンズ式のカメラは50mmを揃えたくなる。X100シリーズは見た目から入ったから、このカメラは35mmなんだから合わせるしかない。と思っていたのかもしれない。

 50mmの良さはあちこちで言い古されているけれど、広角的にも望遠的にも使えて、柔軟性が高いとか、たしかにその通りなんだけど、裏を返せば、どっちつかずの曖昧な焦点距離だとも言える。

 自分の場合、この焦点距離が良いと思うのは、絵画的に撮れるという点にあるとなんとなく考えている。

 スケッチをしたことある人、と聞いたらほぼ全員手を挙げることだろう。幼い頃の図画工作の時間に外に出て、学校の周辺をスケッチする。あの時間が好きだった。だって外に出られるし、別に運動が嫌いなわけではないけれど、日差しを浴びつつのんびりと対象に向かって筆を走らせるのはいい時間の過ごし方だった。絵の出来の方はさほどでもなかったけれど、今思うと、パースの付き方をなんとかきちんとスケッチできるように、とか、見たものと、脳内と、手の連携がうまく行かないことに躍起になって描いていたように思う。

 その時の絵のことを思い出すと、自分が描くものは50mmくらいの画角だったんじゃないか。それらの絵はもうないし、スケッチしていた場所の風景も変わってしまっているだろうから、確かめるすべもないけれど、記憶のなかの絵は、たぶん、50mm。そのくらいの広さだった。

 ところで、人の視野角をカメラのレンズに置き換えるとどのくらいか、という話がよくあるけれど、これ、結構へんな話だなと思ったりする。両手を横に広げてみると、けっこう180度とまではいかなくてもそれに近い範囲は視認できたりする。目玉は動かさない。それでも、なんとなく、そこに何かがあることは分かる。

 つまり人の視野は魚眼くらいはあるってことだ。歪まないけれど。

 でも、絵を描いているとき、自分の目は自然と見えているはずのものを見えなくして、見たいものを見ている。その時の画角は確かに50mmくらいだな、と思うのだ。
 ぼんやり見ているときが35mm もっと無意識的なら28mmくらい。これもよく分かる。意識的にすれば、魚眼なみの広さまで見えていることにも気づく。ほんとに人間の目は都合よくできている。

 じゃあ、その中で、なぜ自分は50mmがいいのか。

 自分の写真はよく平面的だよなと思うことがあって、もっと奥行きだとか、構図を考えて撮ればいいものを、それがなかなかできない。広角レンズを使ってもなかなかうまくいかない。それにそんなに広角の絵が好きではないことに気づいた。(つまり、広角で撮るのが下手なんですね。さらにつまり、写真そのものが下手くそだという……)できるだけ望遠側で、平面的に整理されたものを好む傾向があるようなのだ。

 ある種それは、子供の頃にスケッチしてきた画角や、デフォルメ感に似ている。主題があって、それ以外は見えなかったことにして、描く。繰り返しになるが、それがカメラに置き換えると50mmの画角だった、ということなのかもしれない。

 あるいはその見えなかったことにした主題以外の被写体が、きちんと見えないギリギリの距離感が50mmだった、ということも言えるかもしれない。
  絵を描く時、被写体の細部がなんとか分かって、かつ被写体の全体も見渡せる、その距離に紙を持って陣取ったその位置こそ、見えている主題以外を見えなかったことにして、整理できる距離、すなわち50mmだったのかなと思う。

 自分がなぜ50mmが好きなのか、それは、主題と余白のバランスが心地よいところで、かつ全体を見渡しつつ主題の細部にも注視できる距離感だからなのだ。
 と、書きながら気づくのだった。

 だから、長らくコンデジはともかくとして、Canon以外のマウントを増やすことだけは泥沼だからやめようとしてきた10数年のその我慢を投げ捨てて、フジフイルムのXマウントを手にしたとき、そしてライカを手にしたときも、真っ先に選んだのは50mmだった。それも開放バカなので、純正には目もくれず、あの神レンズと言われるXF35mmf1.4も無視して、f0.95のレンズに飛びつくことになるのだ。
 そしてライカを手にしても重くてでかい50mmf0.95の中華製レンズに真っ先に手を出し、軽量レンズとして、譲り受けたズミターの沈胴式に、無意識にレンズを沈胴させてあちゃーが嫌だから、と、再び小型のレンズなんかを物色してしまう。

 Canonのときは同焦点距離のレンズは2本要らない、で来ていたのが、ライカの場合、どうやら50mmだけで3本になりそうである。いや、それだけEF50mmf1.2Lの描写が好きだったのだろう。ライカを手にしてからは、レンズの描写も違って、まだこれという50mmに出会っていない。気に入った焦点距離で、様々な描写で遊ぶためにネットを徘徊するようになったら本当に沼だ。

 よくライカ使いの人が同じ焦点距離のレンズが増えてしまうということを述べられているが、こと、その現象は50mmに多いように思う。人によっては凡庸だと言われるこの焦点距離。だからこそさまざまな描写を楽しみたいのかもしれない。

 だから今回、またレンズを生やしてしまうことになるのだが、すでに他のレンズにも目移りしてしまっている。
 いつまで経っても写真が上手くならない典型だけれど、もうここまできたら、とりあえず50mmが好きなんだってば、と誤魔化して目が泳ぐしかもう、妻に言い訳が出来なさそうである。



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