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重力を振り切れない : 音楽画集「幻燈」についての感想

音楽画集「幻燈」 音楽:ヨルシカ 絵:加藤 隆
の感想になります。

画集は加藤隆氏が描いた絵で構成されており、スマートフォンやタブレットのカメラを画集の絵にかざすことで読み込み、専用の音楽再生ページへ接続する仕様を組み込んでいます。
それぞれの作品毎に設定された一つのテーマを、音楽と絵の2側面から描いた「聴ける画集」となります。
画集は全25曲を収録。
CDでの発売はありません。またダウンロード・サブスクリプションサービスでは全ての楽曲を聴くことはできません。

https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/gentou/

と、以上が「幻燈」の概要である。

音楽の聞き方というのは、時代を経る度に手軽になってきた。

生演奏からレコードへ。
レコードからカセットテープへ。
カセットテープからCDへ。
CDから携帯端末へ。

今や携帯端末の1タップで音楽を手軽に得られる時代。
中でもサブスクリプションは膨大な量の曲を自由に聴くことができるときた!
特大サービスが過ぎる。やらないわけがないだろ、と思う。

サブスクリプションによって、多くの人の音楽を聴くことに対する障壁が取り払われた今、音楽はどうなるか。

音楽を聴くことは"目的"から"飾り"になってきていると思う。

飽和しているラブソングが結果的に愛情の価値を下げているように、
サブスクリプションで飽和した音楽は、音楽自身の価値を下げているんじゃないだろうか。

音楽が生活、移動、場を彩るBGMとしての活躍が増えた一方、作品として音楽だけに集中する機会は激減しているこの現状がその答えじゃないのか。
音楽のオリジナリティがメロディーじゃなく、歌詞、MV、声に表れ始めたのがその答えじゃないのか!

自論はここまでにするとして。
音楽画集「幻燈」
音楽の在り方と、便利になる事について人々が考えられる良い作品だと思う。
それの引き金が絵であるのが良い。
レコードに原点回帰するだけじゃあつまらない。
音楽に対する手間と、オリジナリティの追求により発生する矛盾が何より皮肉的だ。


ここからは曲に関する話をします。

本音楽画集に収録されている、「老人と海」という曲が僕はかなりお気に入りだ。
題の通り、ヘミングウェイの老人と海のオマージュで、歌詞にはこんなものがある。

僕の想像力という重力の向こうへ
まだ遠くへ まだ遠くへ
海の方へ

ライオンが戯れるアフリカの砂浜は
海のずっと向こうにある

「老人と海」-ヨルシカ

想像力が重力である、というのは本当に盲点だった、「その通りだ!」と思った。
想像力はよく"自由の翼"みたいなものとして取り扱われるけど、人間に想像できる限界が想像力だ。力の及ばなさがこの言葉だ、と。そんなメッセージが込められていると思う。

また、ヘミングウェイの老人と海では、「ライオン」は老人の「若い頃の強さ」を例えたものだけれど(僕はそう解釈している)、この歌詞では、そのライオンが戯れているアフリカの砂浜は海のずっと向こう、到底届かない場所にあると言っている。
これは即ち、ライオンというのが人間の限界を超えた無限の想像力の比喩で、
海のずっと向こう、届かない場所にあるものだから、その無限の想像力を手に入れられないことを憂いている。
そんな歌詞だと思う。

ヘミングウェイが描く獲得と喪失になぞらえられていて、本作の中でも群を抜いて好きな表現である。

この想像力という重力を振り切れるだけの、第二宇宙速度的な力を私たちは持ち合わせていない。
どうやっても、この重力を振り切れないのだ。

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