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ウォーキング:焼津・小泉八雲ゆかりの地をめぐる。

「静岡県 歩きたくなる道25選 PART2」に掲載されている「焼津街中・小泉八雲ウォーク」を参考に,Webでも調べて焼津の街を歩いた。
まずは焼津駅前。足湯「焼津温泉」(見出し写真)の横に小泉八雲の碑がある。写真の左側。

碑に刻まれているのは次の文章。

焼津にて  小泉八雲
 焼津というこの古い漁師町は,日がカッとさすと,妙に中間色の面白さが出てくる町だ。この町が臨んでいる小さな入江,その入江に沿う白茶けた荒磯の色が,まるでトカゲのような色を帯びてくるから妙だ。町は,丸いゴロタ石を積み上げた異様な石垣で,荒い海から守られている。 ー 以下略

焼津にて 小泉八雲

小泉八雲と焼津の関係は,このあとの各スポットの説明板に書かれているので,逐次参照されたい。
駅前通りを抜けて,船玉通りへ進むと,村社青木神社がある。境内では幼稚園の子供が遊んでいた。大国主を祀っており,鳥居の左に大国主の石像がある。

先に進むと,通りの名前にもある船玉浦神社。その先はすぐ漁港だ。

祭神は大綿津見命。

江戸時代に和歌山県の音無川上流にある船霊神社から分祀されたといわれている。創立年月日は不祥だが旧焼津港の南端,明神鼻の一角にあるところから焼津港の鎮守神として「ふなだまさん」の愛称で漁民の信仰を集めてきた。

船玉神社由緒書き

Webの焼津観光案内にある地図ではその先に,小泉八雲ゆかりの地として秋月楼跡があるのだが,何もなかった。それらしき空き地だけ。
ここから,オーシャンロードと浜通りの2つの道が並行して南に進む。
オーシャンロードは広い車道。

少し南下してから,浜通り(小泉八雲通り)が並行する。

この入口の右にあるのが説明板。

カツオの水揚げ量が全国一位を誇る焼津漁港とサバの漁業基地として知られる小川漁港を結ぶように南北に走る約一・五Kmの街道と、この道路に沿って家並みが続く細長い集落を土地の人々は昔から「浜通り」と呼んでいる。
二つの漁港に挟まれた浜通りには漁師や船元、魚を販売・加工する"さかなや"が集中し、海とともに暮らしてきた焼津市民の古里といえる。
遠洋カツオ・マグロ漁とサバ漁の集散地として、また水産加工業の発祥の地として「水産都市焼津」の名声を全国に知らしめた原点がここにある。
新しい焼津漁港と堤防、オーシャン道路が整備されるまでは「浜通り」の東側は海岸に接し、昭和三十年代までは暴風雨による荒波が家々に襲いかかることがしばしばあった。そのため強風を避けるために住宅の屋根を低く傾斜を緩やかにしたり、高潮対策としての波除け堰や排水装置(土地の傾斜、排水小路)など工夫が凝らされ,その名残が今もそこかしこに見られる。

浜通り説明板

説明板のすぐ先に,「小泉八雲先生風詠之地」と書かれた石碑と,説明板がある。

説明板にはこう書かれている。他のスポットにも同じような説明板がある。

小泉八雲と焼津
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン:1850-1904)は明治23年4月、40歳の時日本に来ました。そして、明治30年(1897年)初めて焼津を訪れました。水泳の適地を探していた八雲は、焼津の海が気に入り、明治32年・33年・34年・35年・37年の夏のひとときを家族とともに山口乙吉宅(現在は明治村に移築)で過ごしました。
 八雲は乙吉を「乙吉さ~ま」と呼び、「神様のような仁です」とたたえ、乙吉は八雲を「先生さ~ま」と呼び、大変尊敬していました。
 焼津での八雲は、水泳が好きで当目や和田の海岸に泳ぎに行ったり浴衣に麦わら帽子、草履ばきといった姿でお寺や神社をたずねたりして過ごしていました。
 新川橋のたもとから城之腰・鰯ヶ島に至る海岸通りは「八雲通り」と愛称され、親しまれています。
 八雲が、焼津を題材とした作品には「焼津にて」「乙吉のだるま」「漂流」「海辺」等があります。

小泉八雲と焼津 説明板

ここから,浜通りを小泉八雲スポットを探しながら歩く。Webの観光協会が出している地図では位置が不明確で,探すのに苦労したものもある。
まずは光心寺跡。

今は護信寺・弁天宮(光心寺跡)となっている。

護信寺は浄士宗のお寺です。
昭和10年に市内小川に移転した光心寺の跡地です。約三百年前、元禄年間に海上安全、豊漁満足、災害除難を祈念して木膨りの座像・弁財天が合祀されました。
危険と隣り合わせの漁師とその妻、家族たちが折に触れて参拝し安全を祈願しました。
浜通りでは「北の弁天さん」「南の青峯さん」が漁民の信仰の中心的対象でした。

案内板

近くに小泉八雲滞在の家跡があるはずだがわからなかった。帰りにまた通るのでその時に調べることにして先へ。
浜通りから出て,西へ向かい,焼津神社へ。大きな神社だ。

境内は広く,摂社も多い。

焼津神社獅子木遣りという行事があり,その説明板があった。

焼津では、江戸時代から明治初期にかけて朝比奈川や大井川の奥から木を切りだし焼津港から江戸の深川へ木材を運んだ。このとき木遣り頭を歌って作業したが、これが焼津神社の祭礼(神幸式)に取り入れられ、神輿行列の先立ちをする獅子の運びに合わせてあでやかに歌われ、やがて祭礼にふさわしく、手古舞姿の少女達によって、清らかに歌い継がれてきた。

獅子木遣り説明板

小泉八雲ゆかりの地としては,次の説明板があった。

●焼津は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治30年(1897)に初めて訪れ「神様の里」と呼び、何処よりもこの地を愛し、明治37年(1904)に亡くなるまで6回の夏を過ごした町である。焼津の海が気に入った八雲は、毎日のように海で泳ぎ、波の荒い日は散歩に出かけた。
●焼津神社は八雲の散歩コースの一つで、8月12、13日に行われる例年の大祭は「荒祭」と呼ばれており、八雲は神輿の渡御などを大変楽しみにし、特に滞在先の浜通り山口乙吉の家の前で行われる大榊の争奪戦に興味をもったり、また町内で出す山車には進んで寄附をした。
●神社を訪れた様子が、妻(セツ)あての手紙に次のように書かれている。
 明治37年8月13日(発信)
 【原文】コンニチ・マツリ・アリマス・「ヤレヤレハヤト」オミコシ・サマ・ゴゴ・ニ・マチ・ニ・ヌイテ・トシマシャウ
 【訳】今日、祭りがあります。「ヤレヤレハヤト」と、御神輿様が、午後まちを通るでしょう。 
 明治37年8月15日(発信)
 【原文】サクバン・ウンド・シマシタ・ヤマトダケ・ノ・ミコト・二・タヅ子・シマシタ・ト・クロトンボウ・ヲ・ツカミマシタ
 【訳】昨晩、散歩をしました。日本武尊のお社を訪ねました。
そして、黒トンボをつかまえました。

焼津神社説明板

この文に出てくる「ヤマトタケルのお社」は焼津神社内にあるヤマトタケルのことだろう。

境内には焼津天満宮もあり,

この裏手には筆塚,梅園がある。

来た道を戻ってカフェへ。第一候補のルフトパウゼは開いていないようだったので,第2候補のLENYへ。


コーヒーは5種類。すべてブルーマウンテン。事前に調べてあったのでピーベリーを注文。(600円+税)さすがにうまいコーヒーだった。

後半。まずは光心寺。大きな寺だ。

小泉八雲ゆかりの地としての説明板には次のようにかかれている。

波打際に強烈な日光にギラギラ光りながら波に揉まれている物がありました。長サ約三尺、幅四、五寸くらい、先の尖った植物の葉らしい物でした。私はそれを取って丘へ引き摺り上げましたが、最初それを掴んだ時チクリと指を刺されました。「乙吉さん!これ何んだろう?水母みたいに刺すよ!」といって浜砂利の上へ投げ出しました。よく見ると葉の両端に沿って無数に厳が生えていました。最も後れて上って来た父はこれを一目見ると「オー、熱帯植物です。どうしてここに流れて参りましたでしょう。私、西印度懐います」と申して、さも懐しそうでした。乙吉さんは「これは新屋(町名)にある手前共の壇那寺から流れて来たんでしょうヨ。

これは、小泉八雲の長男一雄氏が記した『父「八雲」を憶う』の一節です。ここに出てくる植物は龍害蘭で、檀那寺は光心寺のことです。昭和十年に光心寺はこの地に移りましたが、龍舌蘭も移植され、現在も繁殖しています。また、セツ夫人に反対されたため、八雲が修復を断念しなくてはならなかった波除け地蔵も、ここに保存されています。

光心寺説明板

次は教念寺。

説明板には次のようにかかれている。

母(教念寺二十八代忍晃の妻)が嫁に来て間もなくの頃、裏の畑で仕事をしている処へ乙吉が垣越しに面を出して「おばさん、八雲先生が来たで、泉水(池)の鯉を見せてくりよや」といった。
「あゝえゝともサ」と返事すると、乙吉の方がむしろ背の高い、目の大きい外人さんが入って来てニコニコ笑って頭を下げた。そして池の鯉を見たり、本堂の屋根から上に枝をかせている大松を眺めて「大変いゝ景色」と何度もほめていた。母が渋茶を汲んで出すと喜んですする様に飲んだ。茶わんを持つ手も型にはまっていて、この外人さんはきっと偉い人にちがいないと思った。
                 (北山宏明著『小泉八雲と焼津』より)

教念寺説明板

少し先に熊野神社。

ここから入って,参道が100mほど続いた先に拝殿・本殿がある。

小泉八雲ゆかりの地としての説明板には次のようにかかれている。

焼津での散歩を好んだ小泉八雲は、長男一雄や書生の奥村、滞在先の家主であった山口乙吉たちと、焼津神社から海蔵寺へと出る途中に、熊野神社に立ち寄りました。この時、乙吉と奥村が突然足が熱くなる不思議な体験をしたことを、一雄は回顧録『父「八雲」を憶う』の中で、以下のように記しています。
「遍照光明、遍照光明・・・」といいつつ先へ行く乙吉さんが、社殿の真後まで来たとき、突然「アツ、ツツツツ・・・!」と喚くと、つと先へ三、四間飛ぶが如く駆け出しましたが、何か落とし物にでも気づいたのかの如く急に、はたと立ち止まり後を振り向きざま「先生様、お早くッ!」と叫んでこっちへ手を差し延べました。父にも私にも何のことかさっぱり解りませんでした。(中略)しかしその次の瞬間、私の後で奥村さんがこれもまた「アツ、アツアツアツ!」と叫ぶや突然石崖の上へ飛び上りました。     (小泉一雄著『父「八雲」を憶う』より)
乙吉と奥村の不思議な体験が気になった八雲は、その後神社をあちこち調べましたが、何も発見できませんでした。

熊野神社説明板

いかにも小泉八雲らしい逸話である。
次は最後のスポットで海蔵寺。幼稚園が併設されていて,入口には鉄扉があった。
入るのはやめておいた。左の門柱には海蔵寺,右の門柱には小川地蔵尊と書かれている。

小泉八雲ゆかりの地としての説明板には次のようにかかれている。

 小泉八雲が焼津で取材した実話をもとに記した「漂流」(原題“Drifting”、『日本雑記』1901年所収)ゆかりのお寺。荒れ狂う海で、一枚の板子(船板)にしがみつき、命を拾ったこの物語の主人公天野甚助は、その板子を「小川のお地蔵さん」の名称で親しまれているここ海蔵寺に奉納しました。
 その後、「甚助の板子」と呼ばれ、長い間同寺に納められていた板子は、2007年(平成19)、ご住職のご好意により、焼津小泉八雲記念館に収蔵されました。
「爺さんが言うのに、わたしは二日二晩に、25里以上漂流したのだそうで、『おまえの板子を探して、拾い上げておいた。たぶん、それをいつか、金比羅さまに奉納したくなるだろう』と爺さんは申しました。わたしはお礼を述べましたが、それは、焼津の小川の地蔵さまに奉納したい、と答えました。わたしが、しょっちゅうお助けを祈ったのは、小川の地蔵さまでしたから。」
              (小泉八雲著/村松眞一訳「漂流」より)

海蔵寺説明板

これでスポット巡りは終わり。小川漁港へ行き,小川港魚河岸食堂で昼食をとる。

やいづフライ定食。かつおの生利、さば、いわし、黒はんぺん、なると、かつおのへそのフライ。

帰りは港沿いを歩き,親水広場や深層水ミュージアムを通って再び浜通りへ。わからなかった2ポイントを探す。
まず,小泉八雲滞在の家跡。ふつうの民家の玄関横に碑があるだけだった。

次に,波除け堰跡。ぬかやという店のところに説明板。

内容は

波除け堰跡と排水小路
昭和六十年代までの浜通りは東側が駿河湾に接していたため、暴風雨による荒波が堤防を越えて家々に襲いかかることがしばしばありました。
高潮・高波を避けるための波除け堰、東から押し寄せた高潮を海岸や西の堀川に逃がすための小路など、他地区には見られない独特の建築様式と様々な工夫が見られます。
この家の入口両側にある溝のついた石柱は堤防を越えた海水の浸入を防ぐ波除け堰の名残りです。写真のように波除け板をはめ込んで堰をつくり家に波が流入するのを防ぎました。

波除け堰説明板

これでスポット巡りは一通り終わった。焼津神社の西,文化会館のところに小泉八雲記念館があるが,そこには行かずに帰路についた。

本日の歩数 25369歩。

※説明板の文は,MacのOCRを使って写真のJPEG画像から読み取った。プレビューで画像を開き,文字の部分にカーソルを持ってくると,テキスト編集時の I の形に変わるので,ドラッグして範囲を選択する。これを ⌘+Cでコピーし,こちらで⌘Vとすると,テキストになって貼り付けられる。かなりの精度でテキストに変わる。