見出し画像

第五章 四カ国紛争の混迷(385~360 BC) 第二節 テヘェベーの閃光 (370~362 BC)

 テヘェベー民国のペロプス半島・テヘッサリア地方遠征 (370~68 BC)

 強力なテヘェベー民国軍を指揮してペロプス半島に侵入した哲人将軍エパメイノーンダス(約四八歳)は、精鋭青年装甲歩兵三百人の「神聖部隊」を率いるペロピダース(約三九歳)とともに、次々と同半島内の反スパルター諸都市を解放し、それらの軍隊を同盟軍に参加させつつ、さらに進撃していきます。

 このような事態に、数年前までスパルター士国を攻略していたアテヘェネー民国のイープヒクラテース(約四五歳)が、傭兵将軍としてスパルター士国側に任用され、防衛に尽力しましたが、敗退の連続です。そして、七〇年、テヘェベー民国軍は、ペロプス半島西南部の穀倉地帯であるメッセーニア地方をスパルター士国の支配から解放。六九年、ついにはスパルター士国の本拠地である同半島東南部ラコーニア地方にまで到達します。

 スパルター士国はすでに大半の兵士を喪失し、建国以来六百年も武勇を誇った本国が戦場となってしまう恐怖で、老人や子女ばかりの市内は大混乱となりました。スパルターのエウリュプホーン王家老王アゲーシラーオス(七五歳)は、強硬に籠城を命じますが、監督官の有力政治家アンタルキダースからして、我先に自分の家族を疎開させてしまいます。そして、この間にもテヘェベー民国軍はスパルター市中を荒し回り、やがてスパルター士国内でも反乱や革命の計略が動き出します。ついには、老王アゲーシラーオスが賠償金を支払ってテヘェベー民国軍に引き取ってもらうよう願い出ざるをえませんでした。

 スパルター士国は、もともとまるごと傭兵部隊のような国家であり、他国への遠征は得意としていましたが、その首都スパルター市には、防衛のための城壁もありませんでした。

 もっとも、テヘェベー軍は、すでにどのみち早々に帰国するつもりでした。というのも、本国の北のテヘッサリア地方を支配するプヘレー市将国で前年の七〇年に将主イアソーンが暗殺されてしまい、代わって登場した暴君将主アレクサンドロス(c410~即位369~58 BC 約四一歳)が、さらに急激に周辺諸国へと勢力を拡大していたからです。

 そこで、テヘェベー軍の哲学将軍エパメイノーンダス(約四九歳)がペロプス半島の始末を自分ひとりで行うこととし、「神聖部隊」を率いるペロピダース(約四〇歳)を本国に帰して、テヘッサリア地方に向かわせます。こうして、ペロピダースは、先にテヘッサリアの中心のラーリーサー市を占領し、プヘレー市将国将主アレクサンドロスとの講和を調整しますが、決裂してしまいます。

 「医聖」と呼ばれるコース島の老ヒッポクラテース(九十歳)は、このころ、このラーリーサー市で死去しています。テヘェベー民国とプヘレー市将国の同市争奪戦で命を落としたのかもしれません。

 このころ、さらに北のマケドニア王国でも内紛が起こっていました。六九年に王アミュンタース三世(c415~即位393~69 BC 約四四歳)が死去、長子アレクサンドロス二世(c387~即位69~68 BC 約一八歳)が即位しましたが、姉婿プトレマイオス(?~365 BC)も王位を主張。ここにおいて、ちょうどテヘッサリアのラーリーサー市に来ていたテヘェベー民国のペロピダース(約四一歳)が双方から調整役を要請されます。そこで、彼は、第三王弟プヒリッポス二世(383~即位59~36 BC 一四歳)ほか三十人の「僚友」を人質として預ることで事を収め、テヘェベー民国の威信が、ますますエーゲ海全体に拡がりました。

 マケドニア王国は、前五世紀末のアルケヘラーオス一世時代に、ヘッラス東西戦争からの亡命アテヘェネー知識人によって一時的に繁栄しますが、その後は王族や豪族の内紛が続き、西のイッリュリアの攻撃を受け、ふたたび野性のクマやライオンが跋扈する蛮族の地に戻ってしまっていました。それでも、アミュンタース三世王妃エウリュディケーは、アレクサンドロス二世、ペルディッカース三世、プヒリッポス二世と、三人の王子を抱え、子供を教え育てるには、まず母親が教養を積み高めねばならぬ、と、おおいに研鑽し、王子たちを教育しました。
 このころ、北方では、「防衛者」という名の攻撃的な三人のアレクサンドロスが、相次いで歴史の舞台に登場してきます。すなわち、最初が、プヘレー市将国将主アレクサンドロス、ついで、マケドニア王国王アレクサンドロス二世、そして最後に、その弟プヒリッポス二世の息子アレクサンドロス三世、後の大王です。
 人質となったマケドニアの少年プヒリッポスは、テヘェベー民国において哲人将軍エパメイノーンダスから直々に兵法を学んだ、とされますが、実際に彼の面倒をみたのは将軍パンメネースで、遠征続きのエパメイノーンダスが直接に彼に教える機会は多くはなかったでしょう。そもそも、すでに装甲歩兵のみによるヘッラス式兵法の時代は終わりつつありました。

 このようなテヘェベーの覇権に、これを牽制すべく、残るスパルター士国・アテヘェネー民国・シュラークーサー将国が協力体制を採ります。同六九年にコリントホス地峡でエパメイノーンダス(約四九歳)が指揮するテヘェベー=ボイオーティア同盟軍がスパルター軍残党と衝突した際には、反テヘェベー派の政治家カッリストラトス(約五一歳)の主張によって、アテヘェネー民国は、スパルター側で参戦しました。この戦闘においては、アカデーメイア学園の優秀な立体幾何学者テヘアイテートス(約四五歳)も従軍しましたが、赤痢で戦病死してしまいます。

 アテヘェネー民国政治家カッリストラトスは、対外強硬派であり、かつては反スパルター派でしたが、いまや反テヘェベー派の中心として、スパルター士国支援を主張しました。

 かつて九四年にスパルター側に従軍して祖国アテヘェネーを攻撃して追放されていた引退傭兵軍人クセノプホーン(約六一歳)は、このころ、家族とともにこのコリントホス市士国に居住していましたが、このアテヘェネーとスパルターの協調を機会に、ようやく追放を解除されます。そして、彼は、スパルター士国において立派な軍人教育を受けた息子のディオドロスとグリュロスを、アテヘェネー軍スパルター支援隊に送ります。

 クセノプホーン自身は、この後、コリントホス市で文筆活動に励みます。すなわち、彼は、かつてのスキュッルース荘園での生活を思い出しつつ、ソークラテースを主人公とする対論篇として、荘園経営を主題とした『経営者(オイコノミクス)』などを執筆し、また、アケメネス朝パールサ大帝国始祖クールシュ二世の伝説をもとにパールサの尚武の精神を賛美した教育論『クールシュの教育』を構想します。しかし、彼の思想はあまりに凡庸で、かえって常識的な道徳の教科書として伝えられることになり、その哲学的無能を侮られることとなります。

 アテヘェネー市の老文章演説家イーソクラテース(六七歳)も、シチリア島東岸南部シュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世(約六二歳)に書簡(c368 BC)を送って、ヘッラス・ペロプス両半島にまで急激に拡大してしまったテヘェベー民国を牽制するために協力するよう要請します。そして、六八年、シュラークーサー将国から援軍が到着すると、スパルター士国のエウリュプホーン王家王子アルキヒダーモス三世(c400~即位360~c38 BC 約三二歳)が、老王アゲーシラーオスに代わってこれを指揮し、テヘェベーの侵攻で喪失したペロプス半島中央部アルカディア地方の支配を回復していきます。

 ディオニューシオス一世から送られた援軍には、彼の工場で発明された装甲も打ち抜くほど強力な「腹弓」が含まれていました。これはやがて掛金やてこも付けられて、「弩弓」になっていきます。これらは、たんに強力であるばかりでなく、水平に安定して弓を構えるので、一般兵士でも命中精度が著しく向上しました。もっとも、連射はまだできません。

 このテヘェベーの覇権問題とは別に、六九年にコリントホス市士国が戦場となって衰弱したことを機会に、六八年頃、ペロプス半島東部の伝統国家アルゴス士国は、イオーニア海貿易利権の中心である同市士国の吸収を企てます。これに対し、コリントホス市士国は、勇猛な軍人ティーモプハネースを長として、傭兵を集めて抵抗を試みます。ところが、彼は、この傭兵軍を使って戦時体制と称してコリントホス市に独裁的な将主政を施き、むしろ国内の反対者たちを次々と処刑していってしまいます。

 アルゴス士国は、「コリントホス地峡戦争」中の九三年にも、いちどコリントホス市士国を吸収していますが、その後、ヘッラス内政治に介入するパールサ大帝国の分割統治政策により、八七年の「アンタルキダースの和約」で、この吸収は解消させられてしまっていました。

 混乱に混乱を重ねるこの事態に、いままで兄を助けてきた弟のティーモレオーン(c390~c35 BC 約二二歳)が、やむなく兄ティーモプハネースを殺しました。市民は、ティーモレオーンを親族より市民を重んじる高潔な人物と口では評しましたが、親族はもちろん市民も、彼を兄殺しの大罪人として避け、また、彼自身も深く悔いて、一時は自殺も考えましたが、友人たちの強い説得で、独り田舎に隠れて住むようになります。

 紀元一〇〇年頃の伝記作家プルータルコホスは、ここでティーモレオーンと比して、イタリア半島南部カラブリア半島東南岸ロクリス市のアリステイデースを挙げています。アリステイデースは、「独裁者の花嫁となった娘を見るくらいなら、殺されて死体となった娘を見る方がまだましだ」と言ったために、暴君将主ディオニューシオス一世に娘を殺されてしまいましたが、それでも決然と「娘に思いは残るが、言葉に悔いはない」と言った人物です。そして、プルータルコホスは、[哲学から確固たる力を得ないかぎり、判断はその時々の世間の賞賛や非難に動揺してしまう、人間は、行動の正しさとともに、理性の正しさがなければ、名誉も恥辱となる]と言います。

 プラトーン《理念論》の行き詰り (c368~c67 BC)

 プラトーンは、中期の『プハイドーン』などで《理念(イデアー)論》を構想しましたが、しかし、ソークラテース本人が重点をおいていたのは、あくまで〈知識〉です。それゆえ、ソークラテース思想の継承を自任するプラトーンは、すでに『市民性』などでも試みたように、〈知識〉は〈理念〉に基づくことを説明する必要があります。しかし、『メノーン』のように、[霊魂は天上界の〈理念〉を回想する]という神話的説明では、それなら、何からどのようにして地上界で〈理念〉を回想できるのか、まだ謎が残っています。

 これは、なかなかの難問(アポリア)です。まず、[同一不変の〈理念〉(もしくは、その回想のきっかけ)が、どのようにして複数の変化する地上界の事物の上に成り立っているのか]が、第一の難問となります。また、たとえそこからうまく〈理念〉を回想できたとしても、[回想された〈理念〉が、どのようにして〈知識〉として保持されるのか]ということもまた、もうひとつの難問です。

 おりしもアカデーメイア学園の優秀な立体幾何学者テヘアイテートスを失い、プラトーン(五九歳)は、彼を回想して、『テヘアイテートス』(c368 BC)を執筆します。それは[いましがた頻死で戻ったテヘアイテートスを迎えに行ってきたエウクレイデースが、書物にしていたかつてのソークラテースとテヘアイテートスの議論を奴隷に読み上げさせる]という複雑な劇中劇として始まります。

 ここにおいて、まずソークラテースが[〈知識〉そのものとは何か]と問い、これにテヘアイテートスは、まず[〈知識〉は〈感覚〉である]と答えます。これに対し、ソークラテースは、プロータゴラースの《人間尺度説》やヘーラクレイトスの《万物流転説》を引いて、その矛盾を論じ、[同一不変の〈知識〉は、〈感覚〉を通じて得られるだけであって、個人ごとの変化する〈感覚〉そのものではない]とします。

 そこで、テヘアイテートスは、次に[〈知識〉は〈信念〉である]と答えます。しかし、これに対しても、ソークラテースは、[〈信念〉は、つねに事実であり、真偽がない]という議論を長々と述べ、[〈信念〉は〈知識〉ではない]と論じます。

 さらに、テヘアイテートスは、[〈知識〉は〈言論〉である]と答えます。けれども、ソークラテースは、〈言論〉を、①信念の表現、②物事の要素、③物事の特徴に分け、いずれも〈言論〉は〈知識〉が伴っている場合にのみ〈知識〉であり、けっして〈知識〉そのものではない、ということで、唐突に終わってしまいます。

 〈知識〉は、〈言論〉、すなわち、口先の説明ではなく、実践の能力です。そして、実践の〈能力〉がある場合には、なぜか〈言論〉で説明することも可能です。しかし、〈能力〉などというものがどのような形で人間に内在しているのか、となると、大変に難しい問題です。たとえば、自動車の運転の知識(能力)ということを考えてみても、じつはかなり複雑で高度なものであることがわかるでしょう。
 この『テヘアイテートス』のテーマは、たいへんに興味深いものですが、残念ながらこの中編はプラトーンの中でも、『市民性』とは別の意味で、ひどい駄作です。議論の論理展開が粗雑であるだけでなく、劇中劇のまま終わって、最初の状況設定は忘れられてしまっています。もっとも、このようなぶった切れの作品も、プラトーンには少なくないのですが。
 おそらく、『テヘアイテートス』と『パルメニデース』は、プラトーン自身としても、全体的構図が無いまま書き始めた、後の『智恵教師』『政治家』『哲学者』の三部作を構想するための試作にすぎなかったのでしょう。にもかかわらず、どんな駄作であっても、あのプラトンが書いたというだけで、その構成は意図されたものだ、なとというコジツケの紙屑論文をでっちあげる連中がいます。しかし、それは、森や岩の影に人の顔を見つける心霊写真評論家と同じくらいバカげたことです。

 プラトーンはまた、『パルメニデース』(c367 BC)も執筆します。これは、アテヘェネーを訪れた老パルメニデースに、若きソークラテースが自説の《理念(イデアー)論》を問うという、これまでのプラトーンの作品とは一風変わったものです。したがって、ここでは、むしろ、若きソークラテースのほうが、老パルメニデースに議論を吟味されることになります。

 まず前半において、ソークラテースが《理念論》を述べると、老パルメニデースは、[〈理念〉が、事物に分有されるとすれば、複数であり、唯一ではない]と批判します。ソークラテースは、[〈理念〉は、複数の事物に共通の述語が表現しているものである]と説明しますが、老パルメニデースは、[「より大きい」などの述語の場合、どのように複数の事物に共通するのか]と質問します。そこで、ソークラテースは、[〈理念〉は、事物の中ではなく、思念の中にある]と展開しますが、老パルメニデースは、[思念は、思念の中にはないものを対象とする]と論駁します。そこで、ソークラテースが、[〈理念〉は、原型であり、他の事物は、その模写である]と主張すると、老パルメニデースは、[似ているものは、どちらがどちらの原型とも知れず、さらなる原型があるかもしれない]、[そもそも、我々の世界には模写の事物しかなく、この世界に無い〈理念〉は不可知である]と挑発します。

 しかし、じつは、老パルメニデースもまた、〈理念(イデアー)〉の存在を認めており、[若きソークラテースがうまく答えられないのは、〈理念〉がないからではなく、ソークラテースに予備学としての《論理学》が足りないからだ]として、後半、その演習を行います。そこでは、まず[[〈一なるもの〉が在る]と前提すれば、どのような帰結になるか]が論じられます。すると、老パルメニデースは、その〈在る一なるもの〉は、何とも言えないことも、また、何とも言えることもともに証明し、以下、〈その〈在る一なるもの〉ではないもの〉について、そして、[〈一なるもの〉が無い]と前提した場合のその〈無い一なるもの〉について、また、〈その〈無い一なるもの〉ではないもの〉について、同じく何とも言えないことも、また、何とも言えることも、ともに証明し、これまた唐突に終わります。

 この《論理学》は、たしかにパルメニデース=エレアー学派の《帰謬論(パラドクサ)》を踏まえたものでしょう。しかし、それは、かなり奇妙な《論理学》です。そこには、ヘッラス語の独特の文法などによるさまざまな概念の混乱(もしくは故意のすりかえ)が見られます。
 にもかかわらず、この著作は難解深遠と誤解され、中世初期の《新プラトン主義》の神秘思想において、後半の演習の部分が[〈一なるもの〉=〈善の理念(イデアー)〉=唯一神]とされ、その後のキリスト教神学に大きな影響を及ぼし、あたかも聖典のごとく特別に尊重されることになりました。中世中期には、まともな《論理学》も整備されていきましたが、パルメニデース=エレアー派=プラトーンに発する《エセ論理学》は、神秘思想とともに生き残り、ドイツ近世観念主義のヘーゲルに至って大々的に再構成され頂点にいたります。
 パルメニデース=エレアー学派からヘーゲルまで、理念的な《エセ論理学》が非常に困難な問題を抱えたのは、それが混乱のままに無限集合を扱ったことによるところが大きい。《現代数学》では、階層や濃度などの補助概念を整備することによって、さまざまな無限集合について考察することができるようになっています。それゆえ、もしきちんと《論理学》を学ぼうと思うなら、《エセ論理学》をいつまでも有難がっているような哲学系の連中からではなく、まともな数学系の連中から、《数学基礎論》として学んだ方がよいでしょう。もっとも、《エセ論理学》にしても《数学基礎論》にしても、どのみち、我々の日常の論理学とは掛け離れていて、ふつうには何の役にも立ちません。というのも、我々の社会や発想を構成している論理は、理念的ではなく力動的であり、また、階層的ではなく平盤的だからです。
 この作品は、前半において、プラトーンの《理念(イデアー)論》に対して提起された批判を一応紹介していながら、後半において、[《理念(イデアー)論》がわからないのは、《論理学》ができないからだ]という理非もない論理で一蹴してしまいます。これは、インチキ宗教家が[きみが大学に合格できないのは、千人の信者を勧誘できないからだ]と言うのと同じ論法です。もっとも、[こんなひどい《エセ論理学》が理解できるくらいならば、ムチャクチャな《理念論》だって理解できる]というならば、「おまえがロシア皇帝なら、おれはアメリカ大統領だ」というのと同じく、論理学的に真(正しい)です。

 ペロピダースの危機と活躍 (368~67 BC)

 テヘェベー民国のペロピダース(約四八歳)は、六八年、プヘレー市将国将主アレクサンドロスとの紛争解決のため、ふたたびテヘッサリア地方を訪れますが、北のマケドニア王国で、王族プトレマイオスが、先のペロピダースの調停を破り、義弟王アレクサンドロス二世(約一九歳)を殺し、第二義弟ペルディッカース三世(c385~即位68~59 BC 約一七歳)を立て、みずからは摂政となってしまいます。そこで、ペロピダースは、急遽、テヘッサリアで傭兵を集め、マケドニアに向かいました。

 ところが、テヘッサリア人傭兵は、簡単にマケドニア王国摂政プトレマイオスに買収されてしまいました。それでも、ペロピダースは、テヘェベー民国の威信をかけて交渉し、その息子と五十人の僚友を人質として押さえてテヘェベー市に送り、逆にテヘェベー市で預かっていた先王アレクサンドロス二世の弟プヒリッポス二世(一五歳)ほかの人質はマケドニア王国に帰しました。また、先王妃エウリュディケーは、やむなく摂政プトレマイオスと再婚し、息子の王ペルディッカース三世とプヒリッポス二世の安全を確保しようします。

 一方、テヘェベー市では、哲人将軍エパメイノーンダスがペロプス半島から帰還。しかし、すでに同半島中央部アルカディア地方がスパルター士国に奪還されていたため、市民たちは、征服が不徹底だった、と、彼を批判します。また、ペロピダースは、マケドニア紛争を再び収めた後、先に裏切ったテヘッサリア傭兵たちを懲らしめるべく、その家族や財産があるプハルサーロス市に向かいます。ところが、ここにプヘレー市将国将主アレクサンドロス(約四二歳)が来て、ペロピダースを捕え、自国に連れ去ってしまいました。テヘェベー民国は、その奪還を企図しますが失敗。結局、翌六七年、不評の哲人将軍エパメイノーンダス(約五一歳)を派遣。彼は人質ペロピダースの安全を最優先して持久戦に持ち込み、将主アレクサンドロスを根負けさせ、ようやくペロピダースを奪還しました。

 ところで、六七年、テヘェベー民国の覇権問題で、スパルター士国は政治家アンタルキダースを、アテヘェネー民国はティーマゴラースを、パールサ大帝国皇帝アルタクシャティラー二世(約六三歳)の下へ派遣していました。そこで、テヘェベー民国も、捕囚から救出されたばかりのペロピダース(約四三歳)を、ただちにパールサ大帝国首都スーサ市に送ります。ここにおいても、ヘッラス最大の強国スパルター士国を敗ってテヘェベー民国の覇権を築いたペロピダースの名声は高く、各国の使節の中でもっとも皇帝の信頼を得ることになりました。

 先の「エーゲ海戦争」において、テヘェベー市は、進撃してくるパールサ大帝国に対して早々に投降し、むしろアテヘェネー市やペロプス半島を攻撃する拠点を提供したのであり、パールサ側の覚えがめでたいのも当然でした。
 テヘェベー民国は、ヘッラスに覇権を築いたとはいえ、内陸国家であり、強力な海軍が欠けていました。それゆえ、海軍を誇るアテヘェネー民国を抑えるためには、強力な海軍を持つパールサ大帝国と結ぶことがどうしても必要でした。

 このパールサ外交に失敗したスパルター士国使節アンタルキダースは自殺餓死、アテヘェネー民国使節ティーマゴラースはパールサでの恥さらしなタカリのために死刑になりました。そして、スパルター士国とアテヘェネー民国は、パールサ大帝国と組んだ強力なテヘェベー民国を牽制すべく、同六七年頃、こんどは、親アテヘェネー派である小アジア半島中部プフリュギア州総督アリオバルザネース(約六三歳)の対パールサ反乱を逆に支援します。しかし、これに乗じて、反アテヘェネー派である同西南部カリア州総督マウソーロスも同様に、パールサ大帝国からの離反を強めていきます。

 中部プフリュギア州と西部リュディア州とは、総督が誰であってもいつも不和で、中部プフリュギア州が親アテヘェネー派であるために、西部リュディア州は反アテヘェネー派になりました。

 プラトーンの第二回シチリア島訪問 (367 BC)

 シチリア島東岸南部、シュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世(約六三歳)は、かねてから自分では武力より文才を誇って、しばしば人々にバカにされていましたが、『ヘクトルの身代金』という彼の作った山羊歌舞唱劇が、どうしたことか六七年早春のアテヘェネー市の「レーナイア祭」で入賞を果し、彼はたいへんに喜びます。そして、彼は、一大宴会を開いてこれを祝いましたが、この時の暴飲暴食で熱病にかかり、あっけなく死んでしまいました。

 そして、その息子のディオニューシオス二世(c395~即位367~追放44~? BC 約二八歳)がシュラークーサー将国将主の地位を継ぎました。ところが、亡父王ディオニューシオス一世が、なにかと疑り深く、廷臣たちの反乱を恐れて息子を閉じ込め、ほとんど教育を授け与えていなかったため、この新将主ディオニューシオス二世は、まったくの無知幼稚だったのです。

 このため、かつて八七年にプラトーンから深い影響を受けた同国王族のディオーン(約四一歳)は、プラトーンその他の学説教養を、自分で若きディオニューシオス二世に教えます。すると、そのうちディオニューシオス二世は直接にプラトーンに学びたいと言いだし、彼を再びシチリア島へ招こうと、みずから手紙を出し、ディオーンや、タラース市士国将軍アルキュータース(六三歳)などのイタリア半島南部のピュータハゴラース政治教団の人々も、これをプラトーンに願いました。

 ディオーンは、ディオニューシオス一世の妻の弟であり、また、娘の婿です。したがって、ディオニューシオス二世の母側の叔父であり、異母妹の婿です。
 このころ、シュラークーサー将国は、イタリア半島南部も制圧していましたが、しかし、同地方諸市国は、完全に屈伏したわけではなく、政治の中心にあるピュータハゴラース政治教団の人々は、その高圧的な支配に、大いに反発していました。
 一方、シュラークーサー将国は、あいかわらずシチリア島西部がアフリカ北岸のプホエニーカ人カルト=アダシュト士国の脅威にさらされており、強力な暴君将主ディオニューシオス一世亡き後、イタリア半島南部との二面戦争は避ける必要がありました。それゆえ、ここでプラトーンを招くのは、八七年のときと同じく、むしろピュータハゴラース政治教団との和解交渉のためもありました。

 同じころ、前年に義兄プトレマイオスを摂政として即位したばかりの若きマケドニア王国王ペルディッカース三世(約一八歳)もまた、プラトーンに指導を求めました。これに対し、プラトーン(六〇歳)は、彼にエウボイア島北端オーレオス市の哲学者エウフライオスを推薦し、みずからは愚直な弟子クセノクラテース(約二八歳)とともに、ふたたびシチリア島東岸南部シュラークーサー将国に旅立ってしまいました。

 このため、同六七年、マケドニア王国王ペルディッカース三世本人の代わりに、その僚友である同王国侍医の息子アリストテレース(384~22 BC 一七歳)が、アテヘェネー市を訪問し、アカデーメイア学園に入門します。しかし、その学長プラトーンは留守なので、彼はおもに学長代理の人格高潔な天文計算学者エウドクソス(約四一歳)の指導を受けることになります。

 プラトーンが訪れたシュラークーサー将国の宮廷には、将主ディオニューシオス二世を傀儡にしておきたい奸臣たちも多くおり、彼らは、亡き父将主に追放されていた政治学者プヒリストス(約六三歳)を召還し、プラトーンと対抗させます。しかし、ディオニューシオス二世は、熱心にプラトーンに学び、また、その影響で、国中で哲学の議論や幾何学の研究が盛んになりました。当時は地面に図形を書いて幾何学を考えたので、シュラークーサー市は、市民たちが幾何学に励む土ほこりで、空も煙るほどであった、と言います。

 ディオーンは、アフリカ北岸カルト=アダシュト士国の脅威に対して、プラトーンを介してイタリア半島南部とのピュータハゴラース政治教団連合を図っており、奸臣たちはこれに反対していたのでしょう。

 ディオーンの追放 (366 BC)

 このため、シュラークーサー将国の奸臣たちは、[ディオーンが、ディオニューシオス二世の異母弟を擁立しようとしている]とか、[前四一五年に大軍で敗退したアテヘェネー民国が、こんどは一人の智恵学者でシチリア島を征服しようとしている]とか、将主ディオニューシオス二世(約二九歳)に吹き込んで、ディオーンやプラトーンの追い落としを図ります。

 叔父ディオーンは、ディオニューシオス二世の異母妹を嫁にしたので、ディオニューシオス二世の異母弟は、彼の義弟でもありました。

 そんなおり、ディオーンが宿敵カルト=アダシュト士国に書いた手紙が露見。それは[外交問題は、将主ディオニューシオス二世ではなく、かならず自分を通すように]というだけのものでしたが、無学な将主ディオニューシオス二世は、奸臣たちが連れてきた政治学者プヒリストスに言いくるめられ、[ディオーンが宿敵カルト=アダシュト士国と通じている]と信じて怒り狂い、ただちにディオーン(約四二歳)を国外へ追い払ってしまいます。

 けれども、ディオーンは人望高く、人々がこの暴挙に怒ったので、将主ディオニューシオス二世は、「ディオーンは旅行に出ただけだ」と言って、その家族にその膨大な財産を自由に国外に持ち出させました。くわえて、多くの人々が多くの物を送り届けたので、むしろディオーンの亡命生活は、たいへんに優雅なものとなりました。

 一方、プラトーンについては、将主ディオニューシオス二世は、その後も深く慕って指導を仰ぎ続けましたが、しだいに、プラトーンとディオーンの親しい関係を羨むようになり、また、自分の無学や暴挙をプラトーンが人々に話すことを恐れ、ついには、監視を付けて自分以外の誰にも会えないようにしてしまいます。そして、翌六六年、ふたたび宿敵カルト=アダシュト士国との戦争が勃発すると、やむなくプラトーン(六一歳)をアテヘェネー市に帰します。

 プラトーンの帰国後、亡命中のディオーンもアテヘェネー市のアカデーメイア学園に来て、スペウシッポス(約二九歳)やクセノクラテース(約二九歳)やカッリッポス(約二九歳)など、多くの人々と交際し、多くの知遇を得ます。とくに野心家カッリッポスとは親しくなり、ずっとその家に滞在しました。一方、彼を追放したシチリア島東岸南部のシュラークーサー将国将主ディオニューシオス二世(約二九歳)は、これを知って、ひどく羨み、ひどく恐れました。

 ディオニューシオス二世が恐れたのは、ディオーン一人ではなく、ディオーンと関係するイタリア半島南部諸市士国のピュータハゴラース政治教団の人々です。ディオーンによってこれらの人々が蜂起した場合、彼のシュラークーサー将国は、カルト=アダシュト士国との困難な二面戦争に陥ってしまうからです。なお、ディオーン本人が、ピュータハゴラース政治教団員だったかどうかは不明です。

 アイスキヒネースとデーモステヘネース (366~64 BC)

 ボイオーティア地方とアッティカ地方の国境の北岸の町、オーロープホスは、どちらの帰属ともはっきりしていませんでした。しかし、ボイオーティアのテヘェベー民国は、ペロプス半島やテヘッサリア・マケドニアに勢力を確保し、パールサの支持も獲得してヘッラス世界での覇権を拡大し、六六年、この町も占拠。ところが、アテヘェネー民国の政治家カッリストラトス(約五四歳)や富裕軍人カハブリアース(約五四歳)は、テヘェベー民国とスパルター士国の均衡外交のために、この侵略を容認してしまいます。

 これに対し、老政治評論家イーソクラテース(七〇歳)は、『アルキヒダーモス』(c366 BC)において、スパルター士国エウリュプホーン王家王子アルキヒダーモス三世を演説者に想定して、テヘェベー民国に対する抗戦を主張し、また、その弟子の雄弁な政治家レオーダマース(約四四歳)も、カッリストラトスとカハブリアースを弾劾します。しかし、政治家カッリストラトスは、雄弁によって政治家レオーダマースを堂々と論破し、この裁判に勝利しました。

 富裕刀剣工場経営者の遺子である若きデーモステヘネース(一八歳)は、人々の喝采を浴びるこのカッリストラトス(約五四歳)の姿を見て、政治家を志し、負けたレオーダマースの老師イーソクラテースではなく、別の有名な弁論代筆家イーサイオス(4C前半 BC)に入門します。とはいえ、このころイーソクラテース学校出身者も大いに活躍していました。たとえば、弟子の将軍ティーモテヘオス(約四五歳)は、小アジア半島西岸中部のサモス島を征服し、六五年、戦利品の一部を老師イーソクラテースに贈与します。ところで、このころ、奴隷教師の子アイスキヒネース(約二四歳)は、苦労の末、どうにかようやく小官吏の使い走りの仕事に就きました。

 若きデーモステヘネースが師事したイーサイオスは、ヘッラス半島東岸エウボイア島西岸中部カハルキス(現ハルキダ)市士国出身の在留外国人であり、高度な問題を明快に説明する弁論代筆家として有名で、後に「アッティカ十大演説家」の一人に数えられます。一説に、技巧を重んじる政治評論家イーソクラテースの弟子であるともされますが、むしろ、そのライヴァルであった平明を重んじる弁論代筆家リュシアースの系統に近いように思われます。

 同六五年、マケドニア王国において、王ペルディッカース三世(約二〇歳)は、彼を傀儡として操作しようとする義兄で義父の摂政プトレマイオスを殺害し、ようやく親政を開始します。ところが、その直後、マケドニア沿岸の重要港湾都市であるメトホネー市とピュドナー市を、イーソクラテース学校出身の将軍ティーモテヘオスが指揮するアテヘェネー軍に奪取されてしまいました。

 また、このころ、エーゲ海北岸のトホラーキア王国王コテュスは、ヘッラス半島東岸エウボイア島西北端オーレオス市士国出身の有能な傭兵軍人カハリデーモス(c395~c335 BC)を雇用するなど、戦力を強化しており、王本人がアテヘェネー市民権保持者であったにもかかわらず、同六五年、黒海入口ケルソス半島の要衝セストス市を攻略し、アテヘェネー民国と戦端を開いてしまいます。

 そこで、アテヘェネー民国は、軍人イープヒクラテース(約五〇歳)を北エーゲ海の要衝植民市アムプヒポリス市に派遣しますが、もとより彼は王コテュスの娘婿であり、現状を容認してしまいます。また、ここに、アテヘェネー民国に港湾を奪取されてしまったマケドニア王国から母后エウリュディケーが軍人イープヒクラテースを訪れ、マケドニア王国の保護を懇願しました。

 プヘレー市将国の暴君将主アレクサンドロス(約四五歳)は、あいかわらずヘッラス半島北部テヘッサリア地方を支配し、アテヘェネー民国を資金援助で懐柔して南下していきます。そこで、六四年、テヘェベー民国のボイオーティア主導者ペロピダース(約四六歳)は、傭兵部隊とともに進軍しますが、スコトフーッサ市北の犬頭山(キュノス=ケプハレー)で暴君将主アレクサンドロスの大軍に迎撃され、優勢ながらも戦死してしまいます。このため、テヘェベー民国は、ただちに追悼追撃軍を組織して進撃し、暴君将主アレクサンドロスを屈伏させます。

 富裕刀剣工場経営者の遺子であるデーモステヘネースは、亡父から莫大な遺産を相続しましたが、以前から後見人がこれを着服していました。それゆえ、六四年に成人になるとすぐ、彼は後見人に対して訴訟を起こします。彼は演説術教師イーサイオスに習った演説術を駆使しましたが、彼は虚弱で声量不足、弁論も難解不慣れで、聴衆に嘲笑され敗北してしまいます。

 以後、彼は、髪を半分だけ剃って、みずから人前に出られない姿となり、地下室に篭って弁論技巧を磨きます。また、彼は、口に小石をつめ、山を駆け登り、発声練習を重ねました。こうして、やがて日常の会話のひとつひとつにも韻律を整えることができるようになり、彼は弁論代筆家として名を成すようになっていきます。

 後にデーモステヘネースは「アッティカ十大演説家」の代表的人物となりますが、同じ裁判の原告・被告の双方の弁論を平気で代筆するような節操のないところもありました。

 一方、奴隷教師の子アイスキヒネース(約二六歳)は、何があったのか、ようやく見つけた小官吏の使い走りの仕事もクビになってしまい、やむなくこうるさい俳優の付人になって、その世話やその端役を務めます。とはいえ、彼の一番の仕事は、舞台の下の地べたにはいつくばり、観客から俳優に投げられたイチジクやブドウやオリーヴを拾い集めて歩くことでした。

 マンティネイアーの戦い (363~62 BC)

 かつてペロプス半島全土に勢力を誇ったスパルター士国も、もうガタガタでした。シュラークーサー将国の支援によって、どうにか本拠地の東南部ラコーニア地方と中央部アルカディア地方は回復しましたが、肥沃な穀倉地帯である西南部メッセーニア地方は、あいかわらずテヘェベー民国に占拠され、そこに新都メッセェネー市まで建設されてしまっていました。同士国エウリュプホーン王家老王アゲーシラーオスは、テヘェベー民国と徹底抗戦を掲げていましたが、勝算は立ちません。

 しかし、テヘェベー民国のヘッラス世界での覇権は、アテヘェネー民国やスパルター士国だけでなく、同民国が解放したペロプス半島の各国からも反発されるようになります。そして、六二年、ペロプス半島中部アルカディア地方のマンティネイアー市がテヘェベー民国に離反し、ここにテヘェベー民国の哲人将軍エパメイノーンダス(約五六歳)が進撃します。これに対し、スパルター士国は、エウリュプホーン王家老王アゲーシラーオス(八二歳)みずからがマンティネイアー市支援に出陣。ところが、テヘェベー軍エパメイノーンダスは、この隙にスパルター市本国を直撃して、王子アルキヒダーモス三世(約三八歳)がこれに応戦するも劣勢となり、老王アゲーシラーオスは、あわてて帰還。

 このスパルター民国の重大危機に、アテヘェネー民国も、スパルター支援隊を送ります。この中には、引退傭兵軍人クセノプホーンの二人の息子のディオドロスとグリュロスもいました。そして、数日後、ふたたびマンティネイアー市郊外で、哲人将軍エパメイノーンダスが指揮するテヘェベー民国遠征軍がスパルター士国軍と激突。その前線が壊滅したところに将軍エパメイノーンダスみずからが突進。ところが、ここで彼は槍の一撃を受け、ついに倒れます。

 この激戦でクセノプホーンの息子グリュロスも戦死しました。ちょうどこのとき、コリントホス市では、人々は祭礼の花冠をつけていました。そこに住んでいた引退傭兵軍人クセノプホーン(約六八歳)は、息子の死の知らせを受けると、ひとり静かに花冠を取りました。しかし、その後、それが奮闘の上での戦死と聞くと、彼は再び花冠を載せ直します。アテヘェネー市の老政治評論家イーソクラテース(七四歳)もまた、知人クセノプホーンの息子グリュロスの戦死に、その賛歌を書きました。

 テヘェベー民国は、すでに政治家ペロピダースも亡く、哲人将軍エパメイノーンダスも失って、急速に凋落してしまいます。また、ヘッラス本土の三大国、すなわち、テヘェベー民国・アテヘェネー民国・スパルター士国は、内政的にも一貫性を失い、各地に慢性的な紛争を抱えるようになってしまいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?