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第三章 ヘッラス東西戦争(c440~c405 BC) 第四節 アテヘェネー陥落 (415~05 BC)

 シチリア島遠征 (415 BC)

 シチリア島は、二四年の「全シチリア島同盟」によってヘッラス東西戦争との不干渉を確立していましたが、東岸南部のシュラークーサー民国の拡大に対するシチリア島内部の対立まで解決していたわけではありません。そして、実際、シチリア島西部のデェロス島同盟側のセゲスタ市民国は、東からシュラークーサー民国に圧迫され、一六年、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国に救援を求めます。平和派ニーキアースは反対しましたが、戦争派アルキヒビアデース(三四歳)の強気の主張により、勇猛アルキヒビアデース・慎重ニーキアース・温和ラーマコホスの三将軍による大遠征軍が送られることになります。

 先述のように、「市民政」の貫徹しているデェロス島同盟=アテヘェネー民帝国では、戦争はカネで行うものでした。この大遠征軍が可能であったのも、セゲスタ市民国が商工業国として担保となる大量の貨幣を保有していたからにほかなりません。そして、アテヘェネー市もまた、このように儲かるシチリア島商圏全体の奪取を狙って、投資として、みずからの国庫からも支出しました。しかし、これでは、セゲスタ市民国は、泥棒を防ごうとして強盗を呼び込んだようなものです。カネをかけなければ戦争は勝てませんが、カネをかけても状況を改善できるとはかぎりません。

 アテヘェネー市では、家門や聖域や街角には昔から「ヘルメェス石柱」が立てられていましたが、一五年、シチリア大遠征軍の出発直前に、これらがあちこちで破壊されるという奇妙な事件が起りました。美青年将軍アルキヒビアデース(三五歳)は、このころ「エレウシースの秘儀」を愚弄していたこともあって、過激政治家クリティアース(約四五歳)や名門遊人アンドキデース(c440~390 BC 約二五歳)らとともに、その犯人の一味と疑われます。

 「ヘルメェス石柱」とは、上部に頭、正面に男茎の彫られた石の四角柱で、もともとは全体そのものが男茎の形であったと思われます。旅行神ヘルメェスは、もともとヘッラス神話の神より古く、まさに石(ヘルマ)の神であり、《オリエント文化》の地母神に対応する男性神のひとつです。アテヘェネー市では、顔面に魔よけの効果があると考えられたのか、境界石としてとくに多く使われ、その後、ローマ市などでも多く用いられました。
 「エレウシースの秘儀」については、《アルカハイック文化》のところで記したように、その詳細は不明です。しかし、このように「エレウシースの秘儀」を愚弄したことで、「ヘルメェス石柱」の破壊事件の犯人と疑われるということは、「エレウシースの秘儀」と「ヘルメェス石柱」とが深く関係していたことをうかがわせます。それゆえ、先述のように、「エレウシースの秘儀」は、《オルプヘウス教》によって昇華され抽象化されていますが、その核心は、あいかわらずオリエントに普遍的な地母神の豊饒祈願的性交祭であったと思われます。

 とりあえず、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍、数万名を乗せた数百隻の艦船は、そのまま出発しました。しかし、捜査が進むにつれ、やはり美青年将軍アルキヒビアデースの嫌疑は高まり、シチリア島に着いたばかりの大遠征軍に、彼の召喚状が届きます。けれども、美青年将軍アルキヒビアデースは、イタリア南部の実験理想都市トフーリオス市民国で護送の船から脱走し、なんとそのまま宿敵スパルター士国に亡命してしまいました。

 先述のように、古代ヘッラス時代の主力戦闘艦である三段櫂船は、漕手を船倉いっぱいに詰め込んで高速で動き回るものであり、船内に生活施設はなく、長距離巡航には帆を使ったものの、補給や休息のため、毎日、どこかの港に上がる必要がありました。つまり、遠征でも、つねに沿岸を行かなければなりません。
 名門遊人アンドキデースは、その後、追放され、祖国復帰などの自己弁護を行います。この弁護が名文であったため、彼は、後に「アッティカ十大演説家」の一人に数えられることになりますが、彼自身は、何をしたわけでもないつまらない人物です。
 なお、 「アッティカ十大演説家」は、後にアレクサンドリアの学者たちが選んだ前四世紀前後のアッティカ方言のアテヘェネー民国の十人の演説家です。それは、すなわち、①弁論代筆家アンティプホーン(c480~11 BC)、②名門自己弁護人アンドキデース(c440~390 BC)、③弁論代筆家リュシアース(459~380 BC)、④政治評論家イーソクラテース(436~338 BC)、⑤弁論代筆家イーサイオス(4C前半 BC)、⑥文化演説家リュクゥルゴス(c390~324 BC)、⑦政治告発家ヒュペレイデース(390~322 BC)、⑧政治演説家アイスキヒネース(c390~? BC)、⑨政治演説家デーモステヘネース(384~322 BC)、⑩弁論代筆家デイナルコホス(4C後半 BC)の十人でした。

 シチリア島での大敗北 (414~13 BC)

 デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍を迎えたシチリア島東岸南部のシュラークーサー民国は、将軍ヘルモクラテース(約五〇歳)が中心となって戦うも劣勢で、ペロプス半島同盟に救援を求めます。ちょうどそのころ、スパルター士国では、亡命した美青年将軍アルキヒビアデースがアテヘェネー市の弱点を暴露して、作戦に協力していました。そして、これに従って、ペロプス半島同盟は、シュラークーサー民国に救援軍を送るとともに、アテヘェネー市本国への攻略軍を組みます。

 スパルター士国に亡命するや、美青年将軍アルキヒビアデースは、スパルター風に、髪を切り、冷水で身を清め、大麦パンと黒粥を食べ、信用を得ます。ソークラテース同門の弟子アリステヒッポスと同じく、彼にとって、格好や食物など、どうでもよいことだったのでしょう。このように、アルキヒビアデースは、どの地方でもその風習に倣いましたが、自己中心的な本性は一生変わりません。

 この救援軍によってシチリア島情勢は一変し、一四年、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍は、将軍ラーマコホスも死んで、ニーキアース一人で指揮しなければならず、一三年、ペロプス半島同盟救援軍に包囲され、物資補給も遮断されてしまいます。

 一方、ペロプス半島同盟攻略軍は、亡命美青年将軍アルキヒビアデースの作戦どおり、同一三年、アテヘェネー市本国の東北二十キロ、高台デケレイアに砦を築いて、その交通を断ち、また、ここからなんども波状に撃って出て、アテヘェネー市の周辺を荒し回りました。

 シチリア島の苦境を知って、アテヘェネー市は、本国も危機的な状況の中、どうにかデーモステヘネースを将軍とする増援軍を送りますが、このように戦況不利となれば、デェロス島同盟諸都市は、あまり貢納も出さず、あまり召集にも応じません。アテヘェネー市内の奴隷も、多くが逃げ出す始末でした。

 しかし、このころ、スパルター士国では、亡命美青年将軍アルキヒビアデースが、王アーギス二世(c450~即位c27~398 BC 約三七歳)の留守中に、王妃ティーマイアーにレオーテュキダースを孕ませてしまいます。そのうえ、彼は、誰はばかることなく、「やがて自分の子が王になる」と自慢して歩きました。

 同一三年、将軍デーモステヘネースを将軍とする増援軍を得たシチリア島のデェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍は、全軍を挙げて最後の決戦に臨みますが、港湾を封鎖され、兵士は陸路を逃亡するも、やがて包囲され、ついには、将軍ニーキアースと将軍デーモステヘネースは処刑、生き残った捕虜は苛酷な砕石場労働所へ送致、つまり、文字どおりの全滅でした。このため、イタリア半島南部やシチリア島の親アテヘェネー派の人々も、数多くアテヘェネー市本国へ避難します。その中には、武器製作所経営者の老名士ケプハロス(約七二歳)の二人の息子の兄ポレマルコホス(約四七歳)と弟リュシアース(四六歳)もいました。

 大遠征軍の兵士の多くは、実は、戦死ではなく労死です。重量の大きい装甲歩兵が、戦闘体制のまま陸路を逃亡することなど不可能でした。しかし、この全滅の中でもわずかに助かった兵士たちがいました。当時、なぜかシチリア島では、派手な演出で有名な流行の舞唱劇作家エウリーピデースの作品がまだその名前しか伝えられておらず、人々は争ってその物語を知りたがっていました。それゆえ、捕虜がその作品を一節でも憶えていれば、歓んで迎えられ、縄を解かれたそうです。

 デェロス島同盟の崩壊 (413~12 BC)

 シチリア島大遠征軍があまりに無残に全滅したために、アテヘェネー市は、その敗北を同年の秋まで知らず、外国の旅人から伝え聞いても信じないほどでした。しかし、この事実が広まるや、アテヘェネー市に支配され搾取されていたエーゲ海のデェロス島同盟諸都市は、亡命美青年将軍アルキヒビアデース(三七歳)の画策もあって、もはや露骨にアテヘェネー市から離反するようになます。また、ちょうどこのころ、蛮族の地と思われていた北方のマケドニア王国に、国王アルケヘラーオス一世(?~即位c413~399 BC)が登場し、首都を奥地のアイゲー(現エデッサ)市から下流のペッラー市に移転してヘッラス文化を吸収、騎兵・装甲歩兵を整備、急速に国力を増強して台頭していきます。

 大金持ちから一文無しに転落して人間嫌いになった乞食市民ティーモーンがいつものように草の根をかじっていると、草の根の下から大量の金貨が出てきました。そこにちょうどアルキヒビアデースが通り掛かったので、彼は、アテヘェネー市を滅ぼすように頼んで、その金貨のほとんどを与えました。この金貨の残りで、乞食市民ティーモーンは、酒食を求め、唯一の友人の乞食毒舌家アペーマントスと、ささやかな酒宴を催します。しかし、アペーマントスが、「ああ、宴会は楽しいなぁ」と言うと、人間嫌いのティーモーンは、「あんたもいなけりゃね」と言いました。

 デェロス島同盟からの諸都市の離反に、ペロプス半島同盟も支援し、パールサ大帝国も介入しました。しかし、ペロプス半島同盟は、もとよりそれほど資金がありません。そこで、一二年、ペロプス半島同盟は、小アジア半島西岸のヘッラス人諸都市の支配を認める代わりに、パールサ大帝国から資金を受ける条約を結びます。これによってペロプス半島同盟は海軍も増強し、アテヘェネー市からイオーニア海はもちろん、エーゲ海をも奪おうと図ります。そして、ここに、シュラークーサー民国の将軍ヘルモクラテース(約五三歳)も、返礼のため、軍艦二〇隻を指揮して協力することになりました。

 「ヘッラス東西戦争」は、もともと、新興の大軍事経済文化大国アテヘェネー市とその支配拡大に抵抗する伝統の中規模地方独立都市国家連合という性格を持っています。それゆえ、デェロス島同盟に対抗するペロプス半島同盟の加盟諸都市の多くは、コリントホス市士国やシュラークーサー民国を除いて、経済的にはあまり裕福ではなく、デェロス島同盟のように貢納や召集を課することができるようなものではありません。このため、カネでしか戦争をしない小アジア半島西岸の旧デェロス島同盟諸都市国家の軍隊を取り込むには、小アジア半島西岸側のヘッラス諸都市を見捨てて売り渡し、パールサ大帝国から資金調達をするしか、ほかに方法がなかったのです。

 このような事態の急変と世論の逆風に、アテヘェネー市ではさまざまな市民扇動家たちが登場し、政治は混迷するばかりでした。また、このころ、黒海入口マルマラ海南岸東部のカルケヘードーン市民国出身のトホラシュマコホス(c400 BC)は、法廷弁論家として、正義を否定し利害を肯定する激しく革新的な演説を得意として、大いに活躍します。そして、彼は、当時の《演説術》のベストセラー『偉大なる技巧(メガレー=テクネー)』を執筆しました。一方、保守的なアリストプハネース(約三九歳)は、『リュシストラテー(女の平和)』(411 BC)で、[賢明な女たちが夜のお勤めを拒絶して、いつまでも戦争を続行する男たちを屈伏させ、平和を回復する]という風刺物語を描きましたが、しょせんは劇の中のことにすぎず、事態はさらに悪い方向へ突き進んでいきます。

 「法廷弁論家」は、弁護士のようなものです。当時、アテヘェネー市には、政治名門市民である「保守政治家」、奴隷制製作所を経営する工業成金市民である政治・裁判好き素人の「市民扇動家」、私的訴訟の法廷弁護を専門とする「法廷弁論家」、訴訟当事者の法廷演説の下書を作成する「弁論代筆家」、そして、名門市民や成金市民の子弟に高等教育を行う外国人の「智恵教師」や「演説術教師」、市民一般に初等教育を行う貧乏市民や専業奴隷の「文法教師」や「算術教師」、さらには、各種の「占術師」などがいましたが、これらは、それぞれ独立の職業です。しかし、アテヘェネー市では、政敵批判が裁判弾劾で行われることも多く、このため、「法廷弁論家」や「弁論代筆家」が政治に関わることも多くありました。

 亡命将軍アルキヒビアデースの暗躍 (412~09 BC)

 亡命将軍アルキヒビアデース(三八歳)は、デェロス島同盟諸都市の離反を助長するために暗躍していましたが、一二年、ペロプス半島同盟もまた、彼の行動に疑いを深め、死刑の命令を発します。しかし、彼は、ちょうど小アジア半島西岸にいたので、そのままパールサ大帝国小アジア地方西部リュディア州総督(フシャトラパー、サトラペス)ティッサプヘルネース(c450~就任13~退任08~再任01~395 BC 約三八歳)の下に亡命していってしまいました。

 亡命将軍アルキヒビアデースは、こんどはふたたびアテヘェネー市で復権することを考え、総督ティッサプヘルネースに対して、[どちらも支援せず、デェロス島同盟とペロプス半島同盟とが長期戦となって両方とも消耗した方が、パールサ大帝国にとって得策である]と説いて、ペロプス半島同盟の増長とパールサ大帝国の介入を防いでおき、その間に、アテヘェネー市の人々に対して、[混迷する「市民政」を廃止し、パールサ大帝国と協調して、事態を打開しよう]と呼びかけます。

 アルキヒビアデースは、王アーギス二世のアテヘェネー遠征中に王妃ティーマイアーを孕ましてしまうなど、あいかわらずの乱行だったので、死刑の命令が出されたことになっていますが、ペロプス半島同盟は、パールサ大帝国の本格介入を恐れ、彼を始末することでアテヘェネー市と講和しようとしたのかもしれません。
 ティッサプヘルネースは、これ以前、第二王子クールシュの教育官を務めていました。

 定見のない市民扇動家たちによって混迷するばかりの「市民政」に批判的となっていた富裕市民派の人々は、この自己中心的な亡命将軍アルキヒビアデース(三九歳)の策略に幻惑され、「市民政」を擁護する市民扇動家たちを次々と暗殺していきます。そして、一一年、富裕市民派の人々は、弁論代筆家アンティプホーン(c480~11 BC 約六九歳)や保守政治家テーラメネース(約四四歳)らを中心として、アテヘェネー民帝国に、貴族軍人らによる「四百人評議会」を設置しました。

 テーラメネースは、保守政治家ですが、ヘッラス半島突先のケーオス島出身の外国人であり、また、いつも二股がけの曖昧な態度をとっていたので、「高下駄野郎」と罵られていました。一方、アンティプホーンは、職業として他人の法廷弁論を代筆した最初の人物で、裁判が日常的であった政治家たちのコンサルタントのようなものでもあったのでしょう。彼は、後に「アッティカ十大演説家」の一人に数えられます。なお、この時代、同名異人が何人もいます。
 市民全員による分権自治の「市民政」に対して、政治を一部市民に限定するものを「寡頭政」と言います。それは、「公共政」の一種として、政治権力を一部の人々に集権一任するものであり、スパルター士国などの伝統的な「貴士政」とは区別しされます。
 このとき、テーラメネースは、没落して人間嫌いになった乞食市民ティーモーンに、政界復帰して「四百人評議会」に参加し、危機のアテヘェネー市を救済するように要請しました。しかし、ティーモーンは、その要請を受けるどころか、むしろ不実忘恩の虚栄国家アテヘェネー市を呪って断りました。

 しかし、これはやがて、テーラメネースの意図に反して、政府反対者を抹殺する恐怖政治に変質してしまい、この間もペロプス半島同盟軍が、増強された海軍によって、ヘッラス半島東岸のエウボイア島、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市などを奪取し、アテヘェネー市の穀物輸入路を遮断してしまいます。このため、アテヘェネー民国海軍の基地の小アジア半島西岸南部サモス島の人々は、亡命将軍アルキヒビアデースを擁立して、無能残虐な「四百人評議会」を打倒しようとします。

 ところが、アテヘェネー市の「四百人評議会」は、わずか四ヶ月で自滅的に倒壊してしまい、その中心であった弁論代筆家アンティプホーンは、弁明するも処刑、代わってテーラメネースを中心とする兵役市民による「五千人民会」が権力を掌握します。そこで、小アジア半島西岸南部サモス島基地のアテヘェネー海軍に擁立された亡命将軍アルキヒビアデース(三九歳)は、方針を変え、とりあえず黒海入口マルマラ海のペロプス半島同盟海軍の追撃に向かいました。

 亡命将軍アルキヒビアデースが指揮するアテヘェネー海軍は、一〇年、マルマラ海南岸中部の「キュジコス市西沖海戦」で、ペロプス半島海軍を撃破。これにより、艦船を喪失したシュラークーサー民国将軍ヘルモクラテース(約五五歳)は、祖国から追放されてしまいます。そして、ペロプス半島海軍がさらに奥に逃げたため、亡命将軍アルキヒビアデースは、これを追って、パールサ大帝国プフリュギア州総督プハルナバゾス(c440~世襲?~退任408~再任01~c370 BC 約三〇歳)とも戦闘を始め、プフリュギア州マルマラ海南岸をも掠奪、制圧していってしまいます。

 後のプラトーンの『市民性』(c370 BC)は、「四百人評議会」が倒壊してしまった一〇年頃、ペイライエウス軍港の在留外国人武器製作所経営者の富裕老名士ケプハロス(約七五歳)の家で、ソークラテースが、その息子の政治家ポレマルコホス(約五〇歳)、法廷弁論家トホラシュマコホス、プラトーンの兄のグラウコン・アデイマントスに理想国家を語るという形で展開します。

 ところで、〇九年、パールサ大帝国と関係の深いプホエニーカ人のカルト=アダシュト士国は、ペロプス半島同盟海軍の衰退、アテヘェネー民国海軍のエーゲ海北岸遠征を知ってか、突然に、千五百隻もの巨大遠征軍で、シチリア島を侵略します。一五年のアテヘェネー市=デェロス島同盟軍のシチリア島遠征の影響もないままに惰眠をむさぼっていたシチリア西部の諸市は、容易に次々と陥落してしまい、カルト=アダシュト士国は、シチリア島の中心である東岸南部のシュラークーサー民国へ進撃。ここに、追放されていた同国将軍ヘルモクラテース(約五六歳)が応戦のために帰国しますが、追放は解除されませんでした。

 亡命将軍アルキヒビアデースは、同〇九年、パールサ大帝国小アジア半島中部プフリュギア州総督プハルナバゾス(約三一歳)と講和し、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市も制圧して、黒海沿岸からのアテヘェネー市の穀物輸送路を回復します。

 このため、ペロプス半島同盟も、これを機会にアテヘェネー市に講和を提案します。また、〇八年、雄弁で知られた高齢の演説術智恵教師ゴルギアース(約七五歳)も、オリュムピア祭において久しぶりに政治家として演説を行い、[外敵パールサ大帝国の介入の脅威を前に、ヘッラス人同志は講和すべきである]と訴えました。このころ、富裕市民の楽器製造業者で法廷弁論家でもあったテオドロスの息子の若きイーソクラテース(436~338 BC 約二八歳)は、演説智恵教師ゴルギアースに入門し、その弟子の保守政治家テーラメネースに師事します。

 イーソクラテースは、系統的には、このように演説術智恵教師ゴルギアースの弟子ですが、しかし、師のようにいたずらに演説をもてあそぶことはよしとせず、精神的には、むしろアテヘェネー市の保守政治家のペリクレェス~テーラメネースの〈自由市民〉としての《教養(パイデイアー)》の理想の伝統を継承しています。また、彼は、人格教育者ソークラテースの倫理を重視する態度からも大きな影響を受けました。

 マケドニア宮廷の繁栄とソークラテース一門の興隆 (408~07 BC)

 〇八年、パールサ大帝国は、亡命将軍アルキヒビアデースが荒し回った小アジア半島西岸~北岸を支配下に取り戻すべく、同西部リュディア州総督ティッサプヘルネース(約四二歳)や同中部プフリュギア州総督プハルナバゾス(約三二歳)をその地位から下ろし、第二王子クールシュ(小キュロス、c423~就任08~01 BC 約一五歳)を、小アジア半島副帝国王として送ります。そして、彼は、同年にスパルター士国「提督(ナウアルコホス)」となったばかりのリューサンドロス(c445~395 BC 約三七歳)を積極的に支援しました。

 「ナウアルコホス(提督)」は、「ナウス(船)」の「アルコホス(主導者)」という意味です。

 アテヘェネー市の市民扇動家クレオプホーンは、亡命将軍アルキヒビアデースの小アジア半島西岸~北岸での活躍による勢力回復で図に乗ってしまったのか、ペロプス半島同盟からの講和の提案を拒絶してしまいます。ここに至って、老舞唱劇作家エウリーピデース(約七七歳)は、もはやこのアテヘェネー市に絶望し、近年とみに勢力を得た北方のマケドニア王国王アルケヘラーオスー世の招聘を受諾して、出国していってしまいました。

 老舞唱劇作家エウリーピデースが出国したのは、若い美人妻を主演男優ケピソプホーンに寝取られてしまったからとも言われています。演劇関係ではよくある話です。

 このころ、以前よりライヴァルとして激しく技量を競っていたアテヘェネーの画家ゼウクシスと画家パッルハシオスは、ついに市民たちの前で絵画試合をすることになります。ゼウクシスは、ここに自慢のブドウの絵を持ってきました。これは、たいへんに艶やかで水々しい作品であり、彼が壇上でこの絵を開くや、飛んでいた鳥たちも空から下りてきてその絵のブドウをついばもうとし、市民たちはみな拍手喝采。尊大な画家ゼウクシスは、もう勝ったつもりで、パッルハシオスに、早く幕を取って絵を見せろ、と迫ります。

 しかし、ゼウクシス以上に尊大な画家パッルハシオスは、ただ不敵に笑うばかり、怒ったゼウクシスは、力づくでパッルハシオスの絵の幕をはぎとろうとしました。ところが、その見るも柔らかなその幕の布は、なんとまさに絵で描かれていたのです。市民たちは、ただただ驚き、鳥が見まがえるゼウクシスの絵より、人も見まがえるパッルハシオスの絵に勝利を与えました。敗れた画家ゼウクシスは、やはりアテヘェネー市を去り、エウリーピデースと同じくマケドニア王国に行って、その宮廷で装飾画などを描きます。

 こうして、蛮族の地と思われていたマケドニア王国の王アルケヘラーオス一世の宮廷には、老舞唱劇作家エウリーピデース、光陰画家ゼウクシス、さらには、舞唱劇作家アガトホーン、音楽家ティーモテヘオスらが次々と招かれ、これらの亡命アテヘェネー文化人によって、なかなかの文化的繁栄を呈します。王アルケヘラーオス一世は、さらにアテヘェネー市の有名な人格教育者ソークラテース(六二歳)をも招こうとしましたが、これは体よく断られてしまいました。

 このころ、人間嫌いの乞食市民ティーモーンは、もう死んでしまっていました。彼は、アテヘェネー市東のハレー海岸に埋められましたが、墓碑には、「とっととツバ吐き、さっさととうせろ」とだけ書いてあったそうです。そして、その後の地崩れで、その墓にも人が近づけなくなりました。

 一方、アテヘェネー市では、市民扇動家クレオプホーンが、武装市民による「五千人民会」をも転覆して、元のような市民全員による「民会」を復活させます。その上で、過激政治家クリティアース(約五三歳)の提案によって、〇七年、ここに、亡命将軍アルキヒビアデース(四三歳)が、救世主のごとく堂々とアテヘェネー市に華々しく凱旋。喝采して歓迎する市民全員の民会によって、ただちに「戦争主導官」に選出されてしまいました。

 アルキヒビアデースがパールサ大帝国からアテヘェネー市の「市民政」を批判していたのは、彼が「寡頭政」を理想としていたからではなく、ただたんに寡頭派と住民派とを衝突させて両方を消耗させておき、そこに自分が救国の英雄として帰還して、叔父ペリクレェスのような事実上の「独裁政」を確立しようという思惑が最初からあったからでしょう。
 市民扇動家クレオプホーンや過激政治家クリティアースによる無茶な講和の拒否も、強引な民会の復活も、亡命中のアルキヒビアデースを劇的に復活させるための謀略が、彼らの間ですでに十分にできあがっていたことを疑わせます。そして、この謀略に、クリティアースやアルキヒビアデースの師ソークラテースが関与していなかったとも言い切れません。

 このような過激政治家クリティアースや戦争主導官アルキヒビアデースの活躍によって、その師である人格教育者ソークラテース(六二歳)の下にも、以前からの弟子である同年代の名門富裕市民クリトーン、カハイレプホーンとその弟のカハイレクラテェス、演説術智恵教師ゴルギアースに師事していたアンティステヘネース(約四八歳)、パルメニデースを研究していたエウクレイデース(約四三歳)などに加えて、各地からさらに多くの弟子たちが集りました。

 たとえば、アフリカ北岸東部(現リビア)キューレーネー市出身のアリステヒッポス(c435~355 BC 約二八歳)、テヘェベー市出身でありイタリア南部でピュータハゴラース政治教団のプヒロラーオスに学んでいたケベースとシムミアースなどが、ソークラテースの名声を聞いて習いに出てきました。

 このほか、旧友でもあり弟子でもある富裕なクリトーンの四人の息子のクリトブーロス・ヘルモゲネース・エピゲネース・クテシヒッポス、富豪の息子だったのに遺産を兄に取られて貧窮に苦しんだヘルモゲネース、アテヘェネー市のソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネース、単細胞な熱狂アポッロドーロス、そして、アルキヒビアデースの愛人の美人高級娼婦テオドテーなども、ソークラテースの弟子になりました。

 このような弟子たちのキャラクターを見ていると、『新約聖書』の使徒たちと似ています。『新訳聖書』を著述した教養ある人々は、古代ヘッラスのソークラテースにもたいへんに通熟していましたから、もしかすると、史料的に曖昧な使徒たちをソークラテースの弟子たちの性格を借用して記述したのかもしれません。
 しかしながら、また、このような集団のキャラクターとしては、孔子の弟子たちにも、ブッダの弟子たちにも、けっこう多くの共通性が見られます。すなわち、それは、聡明な世渡り上手とか、利発なひねくれ者とか、暗愚なバカ正直者とか、単純な熱狂信奉者とか、醜悪な無口の天才とか、裏切るまじめな男とか、清純な元娼婦美人とかです。
 もしかすると、個性は、じつは個人に固有で内在しているものなどではなく、集団の中で一定のキャラクターのいずれかを勝手に付与されてしまい、それを内面化していってしまうものなのかもしれません。もし本人が好まざるにもかかわらず、集団の中でユダのようなキャラクターを使命として割当てられてしまったならば、それを遂行すべきか否か、苦しむのも当然でしょう。

 ソークラテース自身もまた、すすんで有能な人材を集めようとしました。たとえば、美少年クセノプホーン(c430~c354 BC 約二三歳)は、路地で彼に人となる道を聞かれ、答えられず、弟子になりました。また、過激政治家クリティアースを母の従兄とする名門少年プラトーン(427~347 BC 二〇歳)は、以前にヘーラクレイトスの弟子のクラテュロスに就いて学んだこともあったものの、これまでずっと山羊歌舞唱劇作家志望でしたが、ディオニューソス劇場の前でやはり彼に呼び止められ、弟子になりました。

 プラトーンは、本名をアリストクレェスと言いますが、レスリングをやっていて、胸板が広い(プラテュス)ので、こう呼ばれました。しかし、彼の声は、その体格に似合わず、ひどく弱々しいものでした。

 さらに、小アジア半島西岸中部のキヒオス島出身の秀才少年エウテュデーモスは、古今東西の詩人や学者の書物を収集して勉強していましたが、ソークラテースは、これを聞くと、弟子たちとともに、行って彼を弟子に誘いました。くわえて、ソークラテースをライヴァル視している智恵教師アンティプホーンの息子のエピゲネースも、ソークラテースは弟子にしてしまいます。また、イーソクラテース(二九歳)は、あくまで演説術智恵教師ゴルギアース・保守政治家テーラメネースの弟子ですが、かつてゴルギアースの弟子でもあったアンティステヘネースを介してか、ソークラテースの影響も強く受けています。

 秀才青年エウテュデーモスは、《論争術》のエウテュデーモス兄弟とは同名別人です。
 弟子たちにおいて、野心家青年たちのグループと道徳家青年たちのグループは仲がよくありませんでした。プラトーンは、どちらかというと前者に属しますが、皆を嫌い、また、皆から嫌われていました。

 アテヘェネー市の敗北 (407~05 BC)

 ところが、同〇七年、過激政治家クリティアース(約五三歳)は突然に追放され、テヘッサリア地方に亡命してしまいます。一方、新たに戦争指導官となったアルキヒビアデース(四三歳)は、市東北の高台デケレイア砦にペロプス半島陸軍が駐留して襲撃しようとしているにもかかわらず、秋の「エレウシースの秘儀」の行列を、数多くの装甲歩兵で護衛して強行し、これに成功して、アテヘェネー市民たちの士気を一気に回復させます。

 過激政治家クリティアースも戦争主導官アルキヒビアデースも、ソークラテースの弟子であり、これまで協調関係にありました。それゆえ、クリティアースの追放は、両者の間に分裂が生じ、後者が前者を失脚させた内情を伺わせます。もっとも、シチリア島西南岸南部ゲラー市のグルマン詩人アルケヘストラトス(c400 BC)などは、はじめから「ヘッラスは、二人の「アルキヒビアデース」に耐えられまい」と言っていました。
 戦争主導官アルキヒビアデースがかつて亡命しなければならなかったのは、この「エレウシースの秘儀」を愚弄し、一五年の「ヘルメェス石柱破壊事件」の嫌疑をかけられたからでした。それゆえ、この嫌疑をはらすために、まず自分が率先して「エレウシースの秘儀」を実行することが必要だったのでしょう。

 〇六年早春、マケドニアに亡命していた老舞唱劇作家エウリーピデース(約七九歳)は、その異国で死去してしまいます。なんと、王アルケヘラーオスの宮廷で飼っていた猛犬に噛み殺されてしまったのです。この知らせに、春の「ディオニューソス大祭」では、老ソプホクレェス(約九〇歳)が喪章を付け、舞唱団は花冠も外しました。

 同年初夏、市民の期待を一身に集めた戦争主導官アルキヒビアデースは、小アジア半島の提督リューサンドロス(約三八歳)のペロプス半島海軍を打破すべく、アテヘェネー市海軍とともに出撃します。

 ところが、資金不足のために一部が途中で停船、ここをペロプス半島同盟海軍に攻撃されて、大敗してしまいます。失望した民会は、ただちにアルキヒビアデースから「戦争主導官」の地位を剥奪してしまいます。アルキヒビアデースは、やむなく傭兵をかき集め、エーゲ海北岸トホラーキア地方に逃げ出します。また、このころ、シチリア島東岸南部のシュラークーサー民国では、追放を解除されない将軍ヘルモクラテース(約五八歳)が、娘婿ディオニューシオス一世(c430~367 BC 二三歳)とともに武力による政権奪取を企図しますが、失敗し戦死してしまいました。

 アテヘェネー市海軍は、代わって将軍コノーン(c444~392 BC 約三七歳)が指揮することになったものの、艦船は、すでに小アジア半北部沿岸レスボス島のミュティレーネー市において、ペロプス半島海軍に包囲されてしまっていました。このため、アテヘェネー市は、残る最後の力をふりしぼり、住民から寄付を集めて艦船を作り、奴隷まで兵士に集めて援軍を組みます。この援軍は、同〇六年、ミュティレーネー市の小アジア半島側対岸東南で、ペロプス半島海軍と「アルギヌーセー海戦」を行い、激戦の末、敵将を討って大勝を得ます。

 「アルギヌーセー海戦」では、ペロプス半島同盟海軍の提督は、リューサンドロスではなく、その政敵のカッリクラティダースでした。しかし、彼はこの戦闘で溺死してしまい、リューサンドロスは、アラコスの副官として海軍の実権を再び掌握します。

 ところが、アテヘェネー市海軍は、その後の暴風雨で沈没船を救えず、多く乗組員を失ってしまいました。市民扇動家クレオプホーンを中心とするアテヘェネー市住民たちは、前者の功績よりも後者の責任を追及し、大ペリクレェスの息子の小ペリクレェスほかの将軍たちに死刑を要求します。ちょうどこの日、評議会議長の当番を務めていたのは、人格教育者ソークラテース(六三歳)でした。彼はこの議案に強固に反対して阻止しましたが、翌日、別の議長が採決して、将軍六人は死刑になってしまいます。

 この間にも、〇五年、リューサンドロス(約四〇歳)が指揮するペロプス半島海軍は、アテヘェネー市の穀物補給路である黒海入口マルマラ海周辺を再び奪取し、残るアテヘェネー市海軍艦船のほとんども拿捕してしまいます。このため、アテヘェネー市は飢餓に陥り、狂気に取り付かれた住民たちは、無能な市民扇動家クレオプホーンを殺してしまいました。一方、劣勢の海軍将軍コノーン(約三九歳)は、エーゲ海東北岸ケルソス半島の「アイゴスポタモスの戦い」でも敗北、小アジア半島南岸のキュプロス島のサラミース市王国へ亡命していってしまいます。

 もはやアテヘェネー市には、将軍も、兵士も、艦船も、同盟も、食料も、ありません。アテヘェネー市の保守政治家テーラメネースは、やむなくペロプス半島同盟に講和を申し入れます。コリントホス市士国などは、アテヘェネー市の徹底破壊を主張しましたが、スパルター士国は、パールサ大帝国の脅威を重視し、彼らは、ペロプス半島同盟加盟とペイライエウス軍港の破壊を条件に、アテヘェネー市に講和を許しました。

 アテヘェネー市の住民たちは、待ちこがれていた平和の到来を喜び、歌い踊りながら自分たちの軍港を壊しました。また、戦後の大赦により、「ヘッラス東西戦争」の『歴史』をまとめていた名門プヒライオス家の元将軍歴史家トフーキューディデースも、アテヘェネー市に帰国しました。

 日本の敗戦も、なぜか嬉しかったという人が少なくありません。戦争末期には、敵国以上に、国内で当たり散らす人々の狂気の方が恐ろしいようです。背後から銃剣で突いて勝算なき前線に送るなどというのは、もはや戦争の体をなしていません。
 トフーキューディデースは、帰国後の前四〇〇年頃、死去しています。それゆえ、彼の『歴史』も、前四一一年までと、未完になりました。

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