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第五章 四カ国紛争の混迷(385~360 BC) 第一節 哲人王への模索 (385~370 BC)

 ヘッラス域内関係緊張の再来 (385~80 BC)

 パールサ大帝国から八七年の「アンタルキダースの和約」の遵守の監視を委任されていたスパルター士国は、その後もしばしばヘッラス半島中東部ボイオーティア地方の小市国に介入します。ボイオーティア地方の中心であるテヘェベー士国は、これに激しく抗議していましたが、八二年、スパルター士国の将軍プホイブダースの部隊は、独走して勝手にテヘェベー士国へ侵攻し、その中心のアクロポリス「カドメイア」を占拠。スパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(六二歳)もこれを追認し、テヘェベー士国に、親スパルター派のアルキヒアースとレオンティダースの傀儡政府を樹立してしまいます。この暴挙に、ヘッラス諸国において、ふたたびスパルター士国に対する反感が高まっていきました。

 アクロポリスは、都市城塞の本丸とも言うべき高台であり、各都市の中心にありました。
 神話によれば、テヘェベー市は、プホエニーカ王国王子カドモスによって創設されたことになっており、それゆえ、テヘェベー市のアクロポリスは「カドメイア」と呼ばれました。

 この傀儡政府は、若き名門政治家ペロピダース(c410~364 BC 約二二歳)まで追放してしまいます。もっとも、その無二の親友であった青年哲学者エパメイノーンダス(c418~362 BC 約三〇歳)などは、まだピュータハゴラースの研究をしていただけだったので、無害無益として放置されました。

 このころ、イーソクラテースは、学校での教育のかたわら、八〇年の第百オリュムピア祭のために、十年がかりで代表作となる『総民祭(パネーギュリコス)演説』(c380 BC)を執筆していました。ここにおいて、彼は、[ヘッラス人とは、アテヘェネー市の〈教養(パイデイアー)〉にあずかる者のことである]と高らかに宣言し、[このように、アテヘェネー市は、大地の農耕、そして、人間の教養を、全ヘッラスに惜しみなく与えてきた]と展開した上で、[スパルター士国とも協力して、アテヘェネー市を中心に全ヘッラスを統一し、宿敵パールサ大帝国とこそ対抗すべきである]と説得します。

 この文書演説では、[言論(ロゴス)は、微細なことでも壮大に、旧弊なことでも新鮮に論じることができる]と自負され、実際、対句、並節、脚韻などの技巧が駆使された壮麗なものとなっています。しかし、そのパールサ大帝国に対する軽蔑罵倒は、あまりに品の無いものであり、その[侵略掠奪で植民都市を建設し、ヘッラスの人口過剰を解決しよう]という計画構想は、あまりに虫の良いものでした。そして、彼は言います、「遠征は、平和のための戦争であり、祝祭競技である」と。

 イーソクラテースは、パールサ大帝国に抵抗する東地中海のキュプロス島サラミース市将国将主エウァゴラースとも親しく、つねに反パールサ派でした。
 このイーソクラテースの『総民祭演説』の棄民遠征策は、後に大王アレクサンドロス三世によって、そのまま実行されることになります。

 イタリア半島南部での留学を終え、アテヘェネー市でのアカデーメイア学園の入門を断られ、小アジア半島西岸南部の故郷クニドス市に帰っていたエウドクソス(約二八歳)は、友人たちから資金援助を受け、また、エジプト王国王ネクタネボス一世(?~c381~63 BC)宛てのスパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(六四歳)の紹介状も得て、エジプトに渡りました。そして、彼は、エジプトの神官たちから先進的なオリエントの天文学、とくに実際の幾何学的な天体観測の方法を学んでいきます。

 クニドス市は、ワインの名産地であり、以前から、イタリア半島南部ターラント湾東北岸のタラース市や、エジプトのナウクラティス市などと深い貿易関係にありました。

 中期プラトーンの理念論:『プハイドーン』 (c380 BC)

 このころ、プラトーンは、中編『プハイドーン』(c380 BC)において、『ソークラテースの弁明』『クリトーン』に続く処刑直前のソークラテースを描きます。しかし、これは、実録風であった前二作以上に、プラトーン自身の独創的な思想を権威ある師ソークラテースに語らせ広めるというプラトーンの恣意的な面が強くなっており、このためか、『酒宴』と似て、さきにソークラテースの処刑に立ち合った最年小の弟子プハイドーンの思い出語り、という間接的で複雑な場面設定を採っています。

 ここにおけるソークラテースの話の相手の中心は、かつてオルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団のクロトーン市士国のプヒロラーオスに学んだことのある弟子のケベースとシムミアースです。しかしながら、ここでは、死刑を目前とするソークラテースの方が、むしろ彼らに、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団風の独自の教説を語り出します。

 すなわち、ソークラテースは、[哲学とは死の練習である、なぜなら、哲学は、霊魂を浄化し肉体から解放することだからであり、肉体の死は、むしろ哲学にとっても好ましい]と言い切ります。これに対し、ケベースが[肉体の死で霊魂も消えてしまうのではないか]と問うと、ソークラテースは[変化は一般に反対のものから発生する]と確認し、[生と死とは反対であるから、生から死があるように、死から生もある]と推察し、これによって[霊魂は、生と死を輪廻する]というオルプヘウス教の《霊魂輪廻説》を論証します。

 そして、さらに、ソークラテースは、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団風に、[肉体という牢獄は、霊魂がみずからの欲望によってよりきつく束縛されていってしまうような、狡猾な仕組になっている]という「肉体牢獄のわな」を説明し、[このわなから逃れるには、肉体の感覚に騙されず、霊魂の哲学(知識への恋愛)を重んじなければならない]と展開します。なぜなら、[事物は、生滅変化するが、〈理念(イデアー)〉は、不生不滅で不変同一である]ことからわかるように、[地上界の事物は、影のような虚妄にすぎず、天上界の〈理念(イデアー)〉こそ実在である]のであり、[知識とは、永遠不変の純粋な事物の〈理念(イデアー)〉と関係して、霊魂が永遠不変を取り戻すことである]のであって、[知識によって永遠不変に浄化された霊魂だけが、永遠不変の神々に仲間入りする]と考えられるからです。

 「イデアー」は、「見る(わかる)(エイドー(イドー))」の派生語で、「見られた(わかった)もの」のことであり、姿、さらには、本質という意味です。〈理念(イデアー)〉は、言わばそれぞれの諸物の理想的設計図のようなものです。一つの設計図に基づいて、複数の同製品ができているように、たとえば、スズメには、〈スズメそのもの〉が天上界にあり、これを範型として、さまざまなスズメがスズメとなる、とされます。しかし、もちろん、実際に存在するものは、完全に理想どおりには実現しないので、それぞれに微妙な相違や欠点があります。それゆえ、どのスズメも、〈スズメそのもの〉ではありません。
 〈理念(イデアー)〉は、さらに「善い」などの形容詞についても想定されることになります。しかし、〈理念(イデアー)〉の奇妙さは、そもそもヘッラス語の特異な文法による思考の混乱とも考えられます。というのは、ヘッラス語では、文法的には名詞も形容詞も区別されず、そのうえ、英語などとも同じく「である」と「がある」も区別できません。たとえば、「カラスは黒い」は、そこに実際にカラスがいなくても、「カラス、黒さある」になります。これでは、まるで、もともと別に純粋な〈黒さ〉なるものが存在し、それがカラスにも分有されているだけであるかのようです。

 また、[事物は〈理念(イデアー)〉を分有し、〈理念(イデアー)〉は事物に臨在する]とされ、さらに、[理解とは、生前の知識の回想(アナムネーシス)である]とする初期『メノーン』以来の独創的な《回想説》によって、[人間の霊魂は、生前は天上界にあり、かつてそこにおいてさまざまな〈理念(イデアー)〉をよく知っていたのであって、人間は、できそこないの諸物そのものを認識するのではなく、諸物から、その本来の〈理念(イデアー)〉を認識する]とされます。

 ただし、それゆえ、[日蝕と同じく、事物は、直接に感覚で観察するより間接に言論で考察するほうが、よりその〈理念(イデアー)〉に接近できる]とされ、[〈理念(イデアー)〉を間接に言論で考察する方法]として、《対論術(ディアレクティケー)》が利用されることになります。すなわち、それは、[低級の通俗的な仮説から出発しながら、高次の一般的な規定へと上昇し、最高の絶対的な原理へと遡及する]という〈思索(エピステーメー)〉の方法であるとされます。

 たとえば、風景の絵を見るとき、我々は、その絵の絵の具ではなく、そこに描かれている風景、ないし、芸術家が描こうとした風景を見ます。それゆえ、多少、色がくすんでいようと、絵の具が剥れていようと、たいした問題ではありません。音楽でも、多少、録音が悪くても、よい作品には、他のものに代えがたい魅力があるものです。
 ここでは、《対論術(ディアレクティケー)》が、実際の論争的な技術から思索の哲学的な方法に昇華されています。しかし、後の『プハイドロス』(c370 BC)で、これにさらに別の定義が与えられることになります。

 そして、最後に、プラトーンは、ソークラテースに、オルプヘウス教的な地下の冥界タルタロスの地理と裁判について語らせ、粛々と刑に臨む姿を描きます。オリエント宗教では、死者の世界として、現実とは別に地下の〈冥界〉を立てる《二世界説》が一般的であり、オルプヘウス教でも、〈冥界タルタロス〉があるとされ、善良な死者の霊魂ための幸福の楽園「エリュシオン」も、この中にあるとされていました。

 ところが、プラトーンは、ここにおいて、神々と理念(イデアー)と純粋霊魂とを同一の永遠不変のものと考えたために、[哲学によって浄化された純粋霊魂は、死後の裁判の後に、地下の〈冥界タルタロス〉からも解放され、神々と同様の〈天上界(天国)〉に居住する]としなければならなくなってしまいます。それゆえ、これは、《三世界説》、正確に言えば、[不完全で流転する〈地上界〉〈地底界〉と、それらとは別の完全で永遠の〈天上界〉からなる《複合二世界説》]ということになります。

 [善良な人間の霊魂が、神々の〈天国〉の高みに昇る]などという不遜な発想は、おそらくプラトーンのこの箇所が歴史的に最初でしょう。この魂=神というプラトーンの思想の影響は、人と神とを絶対的に峻別したはずの後の《キリスト教》などにも入り込み、〈天国〉が神々の世界ではなく、善良な死者のためのものになってしまい、静かだった地下の冥界も、邪悪な死者を責めさいなむ〈地獄〉なってしまいます。このように、プラトーンは、理念と純粋霊魂の〈天上界〉を理論に組み入れるに至って、この後、思弁的な《天文神学》を必要とすることになります。

 ボイオーティア同盟と第二海上同盟 (379~77 BC)

 アテヘェネー民国は、あいかわらず強力な海戦攻撃力を誇っていましたが、スパルター士国のボイオーティア奪取に対し、北部・西部の国境周辺に、次々と「アッティカ要塞」を建て、陸戦防衛力も増していきます。そして、ここには、パールサ風の弱弓や投槍を使う足軽歩兵が常駐し、シチリア風の強力な腹弓も配備されました。

 七九年、アテヘェネー市に亡命していた名門政治家ペロピダース(約三一歳)らは、国内に残留していたエパメイノーンダス(約三九歳)らと呼応し、親スパルター派の傀儡独裁者のアルキヒアースとレオンティダースを殺害して、「カドメイア」を占拠していたスパルター士国軍も追放し、市民政を確立します。このため、翌七八年、スパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(六六歳)は、みずからボイオーティアに侵入しますが、前年にエジプトから帰国した将軍カハブリアース(約四二歳)が指揮するテヘェベー・アテヘェネー連合軍に撃退され、そのうえ、傷病で危篤になってしまいます。

 以後、ペロピダースやエパメイノーンダスが中心となったテヘェベー民国は、さらに国力を充実させ、周辺諸国と「ボイオーティア同盟」を結成し、彼らが「ボイオーティア主導者(ボイオータルケヘース)」となって、スパルター士国の再襲に備えます。もっとも、これは、事実上は、テヘェベー民国によるボイオーティア周辺都市の帝国的合併吸収であり、周辺都市には反発も少なくありませんでした。

 禁欲清教的なピュータハゴラース政治教団の影響を受けているエパメイノーンダスは、大変に高潔な人柄で、多くの人々の人望を集めていました。彼は、自分がテヘェベー民国の将軍に選ばれるに当たって、「わたしを選ぶと、あなた方は多くの苦難をともにしなければならないのをわかっているのですか」と、人々に警告を与え、覚悟を求めました。このように、国民に快よりも善を与えようとするエパメイノーンダスのような人物こそ、プラトーンが〈哲人王〉として理想としたものだったのでしょう。
 「ボイオーティア主導者」は、不定数(一~七名)で一年任期であり、政治も軍事も指揮しました。

 「ボイオーティア同盟」が成立すると、アテヘェネー民国とテヘェベー民国との関係は急速に悪化してしまいます。そこで、テヘェベー民国の名門政治家ペロピダース(約三二歳)は、一計を案じ、スパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオスと対立するスプホドリアースをけしかけ、アテヘェネー民国のペイライエウス軍港を攻めさせます。これによって、ペロピダースの計略どおり、アテヘェネー民国は、テヘェベー民国とともにスパルター士国を共通の敵とすることで友好を取り戻しました。

 アテヘェネー民国は、七七年、反スパルター派の政治家カッリストラトス(約四三歳)、そして、将軍カハブリアース(約四三歳)を中心に、旧デェロス島同盟の失敗をふまえつつ、各国の自立を尊重し、パールサ大帝国にも考慮した「第二海上同盟」を、テヘェベー民国ほか七〇ヵ国も参加させて組織します。

 また、パールサ大帝国も、同七七年頃、アテヘェネー民国との友好を考えてか、親アテヘェネー派である小アジア半島南部沿岸キュプロス島サラミース市将国将主エウァゴラースを容認し、むしろその宿敵であるリュディア州総督ティーリバゾス(約五三歳)を解任、新たに東南部カリア州にマウソーロス(?~就任c377~53 BC)を赴任させます。

 このマウソーロスは、たしかに親小アジア半島西岸ヘッラス人諸都市派であったものの、反アテヘェネー・反プフリュギア派であり、やがてパールサ大帝国からも離反していくことになります。

 ところで、このころ、アテヘェネー市のアクロポリスの東北の広場(アゴラ)に隣接するテヘーセイオン(テヘーセウス神殿(もとはヘープハイストス神殿))の傍らに、小さな初等学校がありました。しかし、その教師は、他の初等学校と同様に、自由市民ではなく奴隷(被雇用人)であり、首かせ足かせをされながら、毎日、自由市民の子供たちに文法や算術の基礎を教えていました。そして、この奴隷教師の息子である少年アイスキヒネース(c390~15 BC 約一三歳)もまた、毎日、教室の掃除などをして、父親の仕事を懸命に手伝っていました。

 一方、このすぐ近くには、五三人もの奴隷を所有して、刀剣工場などを経営している富豪デーモステヘネースも住んでいました。しかし、彼は、七七年、突然に死去。その莫大な遺産は、まだ幼い虚弱な同名の息子デーモステヘネース(384~322 BC 七歳)が相続しました。

 ヘープハイストスは、技術神であり、今でもテヘーセイオンの北側のヘープハイストス(イフェストゥ)通りは、鍛治屋や細工師が数多く住んでいます。少年デーモステヘネースもまた、ここに生れ、アイスキヒネースの父親の奴隷教師が教える初等学校で、文法や算術の基礎をならったことでしょう。
 しかし、奴隷の父を持つアイスキヒネースと金持の父を失ったデーモステヘネースとは、二人とも後に「アッティカ十大演説家」に数えられるような名政治演説家となり、生涯に渡って運命的なライヴァルとなっていきます。なお、デーモステヘネースとアリストテレースは、同年生れです。

 天文計算学と占星学革命 (c378 BC)

 星や雲や風を見る《天文学》は、砂漠や大海で方位を知る方法として、また、耕作などの季節を知る方法として、古来、広く利用されてきました。そして、皇帝や国王は、専門常勤の天文官を設置して、日夜、天空の観測に従事させ、時間と時代を支配し、季節と歴史を管理しようとしました。とくに、エジプトでは、ナイル河の氾濫を利用して耕作を行っていたため、避難と播種の時期を判断する《天文学》は、国家存立の根幹であり、季節の宣言は、国王の最大の仕事でした。それゆえ、彼らは、得意の測量方法でもって、天空を細かく観測し、季節を詳しく判断していたのです。そして、伝承によれば、彼らの最古の暦は、すでに前四二四一年には作成されていました。

 《天文学》は、あくまできわめて現実的かつ日常的な観測によるものであり、特殊な天変の解釈を問題とする《占星術》ではありません。
 長年の観測の結果、すでにさまざまな太陽や月、惑星などの周期も、経験的に解明されていました。オリエントでも中国でも見られる《六十進法》は、もともとは数量的な単位ではなく、時間的な単位であり、木星周期一二年と土星周期三〇年から割り出されたものでしょう。また、このような観測知識から、[日蝕は、新月が太陽に重なって起きる]など、その仕組もよく知られており、その予測も、計算で可能でした。たとえば、すでにヘッラスのミーレートス市将国の賢人自然学者タハレェス(三九歳)も、前五八五年の日蝕を予測し、的中させています。
 《天文学》に限らず、《物理化学》など、科学に関して、我々は、世界的中世において、恐ろしいほど退化してしまいました。つまり、古代にあった知識や技術のほとんどを喪失してしまったのです。わずかにイスラーム圏に伝え残されていたものによって、どうにか現代の先端科学まで復興しましたが、それでも、さまざまな伝説が事実ならば、残念ながら、まだ古代の科学の全体を復興したわけではありません。
 その大きな障害は、現代の我々が、古代の科学を、伝説として頭ごなしに否定してしまうことです。しかし、それは、むしろ我々の無知愚妹未熟を示すものにすぎないのかもしれません。たとえば、古代では常識であった地動説が、近世初期には、火あぶりにするほどの大罪でした。また、つい数十年前まで、「開けゴマ」の一言で重い石の扉が開くわけがない、と考えていましたが、現在、音声パスワードで反応する自動ドアなど、べつになんの不思議もありません。《錬金術》もさんざんにバカにされてきましたが、常温核融合だの常温核分裂だのが可能になれば、原子番号も放射性物質も知らない中世人が伝えたとおり、金と核の陽子数が近い水銀や鉛を、放射性の「賢者の石」に接触させるだけで金に変えることもできるでしょう。

 また、多くの文化において、人々は、[天空の異変は、自然や社会の異変の予兆である]と信じていました。しかし、天空の異変をなんらかの予兆として解釈するには、その天変を意味づけて読み解く特別の神秘的能力が必要です。それゆえ、ここに星を使って占う《占星術》が生まれ、民間に、また、皇帝や国王の顧問として、怪しげな占星術師たちが現れ、天空の異変に基づく予言を行うようになります。

 「もともと《天文学》と《占星術》は、同一のものであった」などと書いてある本が少なくありませんが、これは、近代ヨーロッパ中心の歴史観に基づく誤解です。方位や季節を知る方法としての《天文学》は、占うまでもなく、もとよりけっして《占星術》ではありません。《天文学》と《占星術》とが一体になるのは、神話的な《占星学》が復興し、脱落するヨーロッパ=ルネッサンスのかなり特殊な一時的状況にすぎません。
 古代、星も雲も風も、同じ天空の問題として区別はなく、《天文学》に寄生している占いとしての《占星術》は、星ばかりでなく、雲や風も用いました。また、宮廷において、観測をするだけの天文官よりも、特別な神秘的能力を持つ占星術師の方が上位にありました。というのも、前者は、事実を記録するだけの書記の一種にすぎませんが、後者は、皇帝や国王の重要な助言者だったからです。

 そして、都市文明と神話体系が充分に確立した前一〇〇〇年頃になってようやく、オリエントのイラク平野南部のカルディア人バビロニア王国などにおいて、個別の天変を特別な神秘的能力によって解釈する《占星術》は、天変一般を解釈するための理論である《占星学》へと発展していきます。とはいえ、これは、たんに、天空の星々に既成の神々をかってに当てはめ、それぞれの神々の性格と関係によって星々の位置の意味を読み解こうとするものであり、《天文学》と言うより、しょせんは《神話学》の応用にすぎません。

 中国においては、《天文学》や《占星術》に高い関心があったわりに、《占星学》は、その成立後、《占星術》から独立して、急速に形式化してしまいます。すなわち、ここに「九星気学」や「四柱推命」が成立するのですが、これらは、十単位と十二単位の周期(年、日、時)に「星」を機械的に割り振るものであり、実際の天文学とは細やかな対応関係を失ってしまいます。

 前五二五年にエジプトはパールサ大帝国に征服されてしまいますが、ここにおいて、エジプト風の精密な《天文学》とメソポタミア風の深遠な《占星学》が合体し、前五世紀後半頃になると、画期的な《予想占星学》が成立してきます。すなわち、これまでのメソポタミアの《占星学》は、すでに起こってしまった天変を、せいぜい自然や社会の異変より前に解釈するにすぎなかったのですが、エジプトの《天文計算法》を利用することによって、起こるだろう天変そのものも、事前に予測できるようになったのであり、それゆえ、起こるだろう自然や社会の異変も、かなり事前から予想できるようになったのです。

 そして、エジプトに留学して神官に師事した小アジア半島西岸南部クニドス市出身のエウドクソス(約三〇歳)は、七八年頃、このような《予想占星学》の鍵となるエジプト風の《天文計算法》をヘッラス世界に持ち帰ったのです。

 そればかりではありません。エウドクソスは、かつてのイタリア半島南部への留学の際に学んだピュータハゴラース政治教団的な発想で、[大地が球体である]と考えました。また、ピュータハゴラース政治教団は、オルプヘウス教としての太陽神アポッローン信仰から、思弁的に太陽中心の《地動説》を信奉していたのに対し、エウドクソスは、独自に、実際の観測の幾何学を取り入れやすい《天動説》を精巧な形で復活させました。すなわち、彼は、[〈地球〉の周囲を、二七層の透明な同心の〈天球〉が、さまざまな速度で回転しており、その〈天球〉上のそれぞれに雲や星がある]と考えました。

 というのも、このような大地と天空を球体とする《天動説》においてこそ、観測された星々の位置を、時刻・方位・角速度で確定して、その周期と軌道を正確に記録し算出することができるからです。そして、彼は、その同心球のそれぞれの回転方角と周期を観測し計算し、また、恒星天球上の四四の星座をヘッラス風に確定し記述しました。そして、彼は、これらの知見を『天空現象(プハイノメナー)』(c375 BC)として発表しました。

 残念ながら、この『星空』は、現存しておらず、他書の引用によって知られるにすぎません。
 太陽や月の軌道や周期については、オリエントでもかなり正確に知られていましたが、これは長期の完全な記録から経験的に導出したものです。これに対して、エウドクソスは、短期間の観測における天球上の角速度から軌道や周期を理論的に算出しています。
 しかし、このような方法によってのみ、超長期の彗星などの軌道や周期も算定することができ、また、短期中期の惑星などであっても、このような方法によってこそ、容易にその位置関係の変化を予測することができました。そして、エウドクソスの軌道と周期の測定計算結果は、今日的に見てもかなり正確なものでした。

 複雑な星々の動きを軌道と周期で普遍的に説明してしまおうというのは、まさしくヘッラスの《アルカハイック文化》的発想です。エウドクソス自身は、神秘主義的なメソポタミア風の《占星学》を嫌っていましたが、しかし、彼の考案したこの独自の《天文計算法》は、《予想占星術》を無限の過去と未来に拡張できるようにする革命的な手法でした。それゆえ、彼は、小アジア半島西岸南部ハリカルナッソス市のリュディア州総督マウソーロスの宮廷など、各地に招聘され、大いに活躍しました。

 先述のように、《占星術》そのものは、数学的な法則よりも神話的な説明に終始しています。たとえば、オーリーオーン座は、サソリ座から逃げ、サソリ座はオーリーオーン座を追う、とされます。

 スパルター敗退とイーソクラテース一派 (376~72 BC)

 七六年、テヘェベー民国は、あくまでスパルター側に付いているボイオーティア地方西北のオルコホメノス市を攻略します。ここにおいて、ペロピダース(約三四歳)が指揮する精鋭青年装甲歩兵三百人の「神聖部隊」は、同市近郊のテギュレー村でスパルター士国軍二大隊千数百人と激突。密集して中央突破し、まず指揮官を殺傷、それから残兵を掃討して、敵の援軍が到着する前に短時間で圧勝してしまいました。こんな小隊に敗れて、それまで無敵を誇っていたスパルター士国軍は、威信を失い、自信も萎えてしまいます。

 「神聖部隊」は、同性愛の屈強な美青年だけから構成され、その部隊内の思慕関係と競争意識によって、およそ怯るむことも乱れることもなかったと言われています。そもそも男色は、伝説の男色王ラーイオス以来、テヘェベー市の長年の伝統でした。
 テギュレー村でスパルター士国の大軍と衝突して、「神聖部隊」の若い兵士の一人が「敵中に落ちた」と言うと、ペロピダースは、「的が矢に当たってきたのだ」と言いました。
 どんな大軍でも、実際に戦闘するのは、前線と射撃部隊だけであり、それも、中央突破されてしまうと、射撃部隊も、反対側の味方に当たるので、動けなくなってしまいます。そのうえ、指揮官をやられてしまうと、大軍はかえって始末の悪いものです。

 一方、アテヘェネー民国でも、将軍カハブリアース(約四五歳)が「第二海上同盟」を指揮して活躍し、シチリア島沿岸まで遠征して、西のイオーニア海の覇権をも確立しました。また、海軍軍人コノーンの息子でイーソクラテース学校の有能な弟子の一人である軍人ティーモテヘオス(c410~354 BC 約三四歳)が、同じ七六年頃、ペロプス半島を周航遠征し、スパルター士国の半島支配を撹乱します。これには、師イーソクラテース(約五九歳)も同行して多くの都市を歴訪し、作戦に協力しました。この間に、イーソクラテースのもう一人の有能な弟子レオーダマース(c410~? BC 約三四歳)も、雄弁な政治家としてアテヘェネー市で活躍するようになり、「第二海上同盟」の中心にいる富裕将軍カハブリアースとも互角に論争するようになります。

 将軍カハブリアースは、「第二海上同盟」を指揮して軍人として成功し、アテヘェネー民国から免税特権などを付与され、資産を形成し、贅沢に生活していました。

 ところで、ヘッラス半島北部テヘッサリア東部にプヘレー市将国があり、将主イアソーン(c420~370 BC)がいました。ここは、テヘッサリアの農産物輸出拠点であり、また、ヘッラスと北エーゲ海を結ぶ陸海路の要衝でもあり、豊富な資金を調達することができました。くわえて、テヘッサリアは、軍用馬の名産地でもありました。そして、イアソーンは、これらを背景に、七五年、西のプハルサロス市をも奪取して、テヘッサリア全体に覇権を主張しました。

 イーソクラテースは、このころ、智恵教師ピッピアースの娘で三人の子持の未亡人プラタネーとようやく結婚し、連子のアパレウスを後継者として育てます。また、イーソクラテース(約六一歳)は、キヒーオス島民国時代に知遇を得たらしい東地中海キュプロス島サラミース市将国将主エウァゴラースに頼まれたのか、その息子ニコクレェスに善政を勧める『ニコクレェスに』(c374 BC)、そして、『ニコクレェス』(374ー70 BC)という書簡演説を作りました。しかし、将主エウァゴラースは、七三年頃、延臣に暗殺されてしまいます。

 イーソクラテースの書簡演説は、書簡でありながら、もとより広く公開され、よく熟読されることを前提として、周到に執筆されています。つまり、それは、あくまで文章演説の一種であり、その書簡の相手だけでなく、より多くの人々を感化することが当初から目的となっています。

 努力と創意と厳格で知られる有能な軍人イープヒクラテース(約四二歳)は、パールサ大帝国エジプト鎮圧軍に派遣されていましたが、七三年、アテヘェネー市に帰国し、イーソクラテースの弟子の軍人ティーモテヘオスに代わってペロプス半島スパルター士国攻略の指揮を執ります。

 イーソクラテース(約六二歳)は、祖師ゴルギアースの『ヘレネー賛歌』がトロイア戦争を引き起こした美女ヘレネーの弁明にしかなっていないことを踏まえて、同じ題名の『ヘレネー賛歌』(c373 BC)を作ります。そして、その序論において、何も語れないとする「キュニコス学派」、無益な論争術に明け暮れる「メガラ学派」、勇気・知識・正義が絶対善として同一であるとする「アカデーメイア学派」、さらには、エレアー市のゼーノーンも、祖師ゴルギアースも、人生の貴重な時間の浪費と批判し、[厳密な〈思索(エピステーメー)〉より健全な〈信念(ドクサ)〉を]と主張し、[瑣末なことで他人に優るより、重大なことを自分で判ることの方が、はるかに意味がある]と展開して、アカデーメイア学園に対するイーソクラテース学校の優位を強調します。

 このイーソクラテースの『ヘレネー賛歌』(c373 BC)は、プラトーンの『酒宴(シュムポシオン)』(385 BC)におけるエロース賛歌に呼応するものでもあったのでしょう。

 レウクトラーの戦い (371~70 BC)

 あいつぐ敗退で威信を失ったスパルター士国に対し、七一年、ペロプス半島西北部のエェリス地方もまた反乱を起こします。このため、スパルター士国の世話で同地方オリュムピアー市西南のスキュッルース荘園にいた引退傭兵軍人クセノプホーン(約五九歳)は、家族とともに疎開し、その後、コリントホス地峡のコリントホス市士国に移住します。

 この混乱の中、ようやくスパルター市で「全ヘッラス平和会議」(371 BC)が開かれ、アテヘェネー民国政治家カッリストラトス(約四九歳)、テヘェベー民国哲学者エパメイノーンダス(約四七歳)などのほか、シチリア島シュラークーサー将国将主ディオニューシオス一世(約五九歳)、マケドニア王国王アミュンタース三世(?~即位393~69 BC)、さらには、パールサ大帝国使節なども参加しました。

 マケドニア王国王アミュンタース三世の侍医が、エーゲ海西北岸カルキディケー地方スタゲイロス市出身のニコマコホスであり、このニコマコホスの息子が、アリストテレース(当時一三歳)でした。

 この会議は、テヘェベー民国を盟主とする「ボイオーティア同盟」の解散を要求するものでしたが、テヘェベー民国代表のエパメイノーンダス(約四七歳)は、スパルター士国代表のエウリュプホーン家老王アゲーシラーオス(七三歳)と激しく論戦し、決裂。ついには、激怒した老王アゲーシラーオスが平和会議の席上でテヘェベー民国に対し宣戦布告するなどというとんでもない事態になってしまいます。

 このころ、スパルター士国のもうひとりのアギアース王家王クレオンブロトスは、ボイオーティア地方の西隣のプホーキス地方におり、ただちに、ボイオーティア地方のテヘェベー民国へ進撃。これに対し、テヘェベー民国軍を指揮する哲人将軍エパメイノーンダスは、ペロピダース(約三九歳)とともに、同七一年、平和会議決裂からわずか二十日後、アギアース王家王クレオンブロトスが指揮するスパルター士国軍をボイオーティア地方のプラタイアー市近くのレウクトラーで迎撃して、左翼に主力装甲歩兵の「神聖部隊」や騎兵を配置した斜陣戦術により圧勝します。この結果、スパルター士国は、国王の一方を失い、兵士もわずか千人ばかりとなってしまいました。

 ペロピダースの出陣に、その妻は泣いて無事を望みました。これに対し、ペロピダースは、「将軍の妻は、兵卒の無事だけを望むものだ」と言いました。
 装甲歩兵は、左手の腕に重い丸盾をつけており、密集隊型の右側が弱点となります。しかしまた、装甲歩兵は、密集隊型においてそれぞれが右隣の歩兵の丸盾の影へ入って、全体が右へ斜行する傾向がありました。そこで、哲人将軍エパメイノーンダスは、まず騎兵を敵軍の弱点の右翼の右側に突進させて撹乱、次いで主力の装甲歩兵を激突させ、敵軍全体を中央へ圧退させます。ここには、騎兵と装甲歩兵を連係運用する綜合作戦の萌芽が見られます。

 このスパルター士国の急激な衰退に、スパルター士国に支配されていたペロプス半島の各地で市民政を要求する反乱が勃発。哲人将軍エパメイノーンダスが指揮するテヘェベー民国軍も、これを支援して、ペロプス半島へ進軍します。

 この激動に、アテヘェネー市のイーソクラテース学校校長の政治評論家イーソクラテース(約六四歳)は、テヘェベー支配下のプラタイアー市民を演説者に仮想して『プラタイアー人』(371 BC)を執筆し、急速なテヘェベー民国の勢力拡大に対する懸念を表明しました。また、小アジア半島南岸のキュプロス島サラミース市将国の将主エウァゴラースが七三年頃に死去したため、イーソクラテース(約六五歳)は、その息子のニコクレェスの依頼で、同将主を賞賛する伝記『エウァゴラース』(370 BC)を発表しました。そして、これは、その後の伝記文学の模範とされることになります。

 プラトーンの《演説術》 『プハイドロス』 (c370 BC)

 イーソクラテース学校のライヴァルであるアカデーメイア学園では、七一年、同学園出身者の憂顔青年プホーキオーン(402~319 BC 三一歳)が将軍に選出されます。そして、彼は富裕将軍カハブリアースに引き立てられ、おおいに活躍するようになっていきます。

 プホーキオーンは、年齢的に言ってアカデーメイア学園創設(387 BC)初期からの入学者でしょう。彼は性格は温和なものの、およそ笑ったり泣いたりすることのない、いつも憂顔の堅物で、近づき難い人物でした。彼が憂顔であったのは、アテヘェネー市民の愚昧を熟知しつつ惜愛していたからです。彼は、アテヘェネー民国において、ペリクレェスのように学芸と政治と軍事にともに才能を持った最後の理想的ヘッラス自由市民でした。

 七〇年、アテヘェネー市出身の立体幾何学者テヘアイテートス(c414~369 BC 約四四歳)が、黒海南岸のヘーラクレアー市から帰国。これに続き、小アジア半島西岸南部クニドス市出身の天文計算学者エウドクソス(約三八歳)も、黒海入口マルマラ海南岸中部のキュジコス市からアテヘェネー市を再来。そして、彼らとその大勢の弟子たちも、プラトーン(五七歳)のアカデーメイア学園に参加することになりました。また、プラトーンの甥の若きスペウシッポス(c395~339 BC 約二五歳)も、さまざまな動植物を観察し、その類種の分類の研究を始めます。こうして、アカデーメイア学園は、かつてのイタリア南部のピュータハゴラース政治教団に代わって、ヘッラス随一の陣容を誇る理科系総合研究機関へと飛躍的に発展していきます。

 このころのアカデーメイア学園の学生には、マルマラ海南岸東部のカルケヘードーン市出身のクセノクラテース(c395~c314 BC 二五歳)、マルマラ海北岸ビューザンティオン市出身のレオーン(c395~?、二五歳)、野心家カッリッポス(c395~51 BC 約二五歳)、アタルネウス市出身の解放奴隷ヘルミアース(c395~41 BC 約二五歳)、ヒュペレイデース(390~322 BC 二〇歳)などがいました。
 天文計算学者エウドクソスは、高潔節制の人であり、人格的にも尊敬され、すでに弟子たちも多く参集していました。しかし、プラトーンは、エウドクソスの《天文計算学》の方法を厳密には把握しておらず、自分の構想している《天文神学》と同様に、純粋に思弁的に星々の軌道や周期を算出するものと誤解していました。もちろん、それは、実際に観測した星々の位置からその軌道や周期を解明して、そこからその後の位置や時期を計算するものであり、およそ思弁的なものではありません。
 しかし、プラトーンは、古代ヘッラスの典型的なオカルティストの一人であり、彼がオルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団的な《天文神学》を展開するためには、エウドクソスの《天文計算学》がどうしても不可欠でした。後に天文神学者ポシドニウス(c135~c50 BC)の理論によって《占星術》で重視されることになる「プラトーン年(春分点が二五九二〇年で黄道を逆に一周する)」も、プラトーンが発見したのではなく、エウドクソスが発見し、プラトーンが利用しただけでしょう。一方、エウドクソスは、かつてアカデーメイア学園の入門を断られたことを根に持ち、また、プラトーンのオカルト的傾向を嫌っており、やがて仲たがいしていくことになります。
 アカデーメイア学園の入口には、「幾何学を知らざる者、入るべからず」と書かれていました。テヘアイテートスの《立体幾何学》とは、平面図形ではなく、正多面体などの立体の点や線分を研究するものであり、彼はまた、無理数の研究なども行っています。エウドクソスも、《天文計算学》だけでなく、幾何学にも天才的な素養を持っており、黄金分割問題(全体と部分の比率を部分と残余部分の比率と等しくする)、立体求積問題(球や倍積立方体)、円錐曲線問題(円錐の断面の図形)など、幾何学的な分野でもさまざまな研究を行っています。ただし、彼の幾何学は、エジプト風に実用第一とするものであり、理論的解明以上に、実際的測定を重視しました。しかし、これは、ピュータハゴラース政治教団的に数学や哲学を霊魂の浄化の方法と考えるプラトーンとは、理念的に対立するものです。

 アカデーメイア学園の学長プラトーン本人も、イーソクラテースの『ヘレネー賛歌』(c373 BC)の序論のアカデーメイア学園の批判に対して、『プハイドロス』(c370 BC)を執筆し、逆にライヴァルのイーソクラテース学校を露骨に批判します。すなわち、これは、前四〇〇年頃の弁論代筆家リュシアースの恋愛論に感動したという青年プハイドロスに対し、ソークラテースが《演説術》について論じるというものです。そして、その会話の場所も、まさにイーソクラテース学校があるアテヘェネー市郊外南東の野原が設定されていました。

 プハイドロスは、『酒宴』(385 BC)などにも登場するアテヘェネー市の典型的な演説好き知識人です。
 この作品は、《演説術》を論じるだけあって、よく手が入れられており、読みやすく、遊びも多く、プラトーンの独自の思想もよく整理されていて、初めてプラトーン作品を読む人にもお勧めできます。実際、この作品は、アカデーメイア学園の宣伝も兼ねて、一般向けに書かれたものだったのでしょう。

 ここにおいて、プラトーンは、まず有名な演説術教師リュシアースの恋愛論をプハイドロスに読ませた後、ソークラテースに、言論と思慮とを区別させ、[リュシアースの演説は、しょせん言論の装飾にすぎない]と批判させて、代わって恋愛論を展開させます。

 ところが、これは、失敗して中断され、唐突に、いつものようなピュータハゴラース政治教団風の「霊魂の馬車の神話」が展開されます。それによれば、[霊魂は、もともと神々の至福の天上界から転落したものであり、理性を御者とし、欲望と勇気とを馬とする有翼の馬車に乗っているが、馬の制御が困難で、天空に帰還できるまでには、何度も輪廻しなければならない]とされ、[ただし、哲学(知識への恋愛)において理念(イデアー)を観想することで、霊魂の翼は回復し、本来の天上界に帰還することができる]とされます。

 恋愛(エロース)については、すでに『酒宴(シュムポシオン)』(385 BC)でも主題とされており、ここでのソークラテースの話も同じ主題のヴァリエィションです。そして、《演説術》を主題とするこの作品でも、前半は、『酒宴』と同じく、リュシアースの原稿の演説、失敗したソークラテースの演説、霊魂の馬車の神話の演説と、対論より演説が中心になっています。

 後半に至って、前半の展開を振り返りつつ、問題の《演説術》を考え尋ねることになります。ここにおいて、[演説には、知識、とくに善の知識が不可欠である]とされます。というのも、[演説は、言論による霊魂の誘導である]からです。しかし、[誤った思慮は、優れた言論にならない]ということから、[善に基づく正しい言論のみが、善に近づく正しい思慮を導く]とされ、哲学的な《対論法(ディアレクティケー)》が提唱されます。しかし、これは、『プハイドーン』で説明されたものとやや違って、〈分析〉と〈綜合〉によるとされています。

 [言論と思慮は一致する]という発想こそ、イーソクラテース学校の文書演説作成による教育方法の理論的根拠であり、プラトーンは、この『プハイドロス』において、言論と思慮とを峻別することで、イーソクラテース学校の教育方法を根本的に否定しているわけです。プラトーンからすれば、初期長編『ゴルギアース』(c387 BC)以来、[いわゆる《演説術》は、耳さわりのよい快を追及しているだけである]であり、[本来の演説は、耳さわりが良かろうと、悪かろうと、人々を善くすることを語ることでなければならならず、したがって、善についての知識が必要である]ということになったです。

 くわえて、プラトーンは、[書かれた文章は、霊魂の言葉の影にすぎず、すでに知っている人に思い出させることしかできない]と、さらにイーソクラテース学校の文章演説作成による教育を批判し、最後には、[優秀なイーソクラテース君にも、ここでの議論の顛末を教えてやろう]などというイヤミで終わります。

 ここにおいて、かつてイーソクラテースが代表作『総民祭(パネーギュリコス)演説』(c380 BC)において[言論は、微細なことでも壮大に、旧弊なことでも新鮮に論じることができる]と誇ったのに対し、プラトーンは、[演説は、瑣末なことでも深刻に、陳腐なことでも奇抜に論じたがる]と皮肉っています。

 農業市民の没落と富裕市民の孤立 (c380~c70 BC)

 アテヘェネー民国において、市民権は、市民の両親からのみ継承される、言わば株主のような権利であり、国営産業の配当がありました。それゆえ、市民の中には、金持もいれば貧乏もおり、また、国外に居住する人々もいました。逆に、いかに財産を所有しても、いかに永年市内に居住していても、両親の一方でも市民でなかったならば、特別に民会で承認されないかぎり、市民ではなく、ただの住民(外国人居留者)でしかありません。

 しかし、「ヘッラス東西戦争」後の銀行による信用取引の普及で、通貨は急激に増大して価値を低減し、少数の私有奴隷を雇用して農場や工場を経営する一般市民は、しだいに没落していきます。このため、アテヘェネー民国は、国有奴隷によるラウレイオン銀山採掘などの国営事業を再開し、その収益を民会・法廷・演劇などへの出席手当として一般市民に配付しました。しかし、銀山の採掘が増大し、手当が配付されるほど、さらに通貨は増大し、その価値が低減したのです。こうして、中産階級は消滅し、しだいに自由市民の中で金持と貧乏の二つの階級が分離して対立するようになっていきます。

 プラトーンは、少数の奴隷を雇用して果樹園を経営しており、やがて没落していく貧乏自由市民の側にいました。一方、イーソクラテースは、大勢の外国人弟子から高額の学校教授料を徴収しており、やがて台頭していく金持自由市民の側にいました。この立場の相違は、しだいに明確化していくことになります。

 こんな中、都市国家とヘッラスの統一宗教としてのヘッラスの神々に対する信仰は、急速に衰退してしまい、一方で、集団的陶酔に浸る《ディオニューソス教》が、他方で、個人的救済を望む《オルプヘウス教》が、ますます興隆していきます。くわえて、貿易の発達とともに、オリエントからもさまざまな神々が輸入され、新たな信仰を獲得していきます。そして、もはやソークラテース裁判のころのように、これらを異教邪神として非難する人々もいなくなってしまいました。

 この個人主義の時代、芸術もまた、もはや公的なものではなく、私的なものに変質してしまいました。その中で最も発達したのが、大量に製作された個人的な墓碑浮彫(レリーフ)です。ここにおいては、死者と生者たちの別れの場面が題材となります。死者は、遠くを眺めて思いに浸っており、生者たちは、死者を見つめて名残を求めている形式が一般的ですが、それぞれの人間は、神々でも人間そのものでもなく、特定の実在する個人を描写するものであり、それゆえ、その個人の特徴を以って表現されます。そして、このような個人スポンサーのための商業芸術の量産によって、ヘッラス彫刻は、著しくその観察力と写実性を高め、歴史上の最高水準にまで達していきます。

 墓碑浮彫は、前四三〇年ころから登場し、三〇〇年ころまで盛んに製作されます。ルネッサンス芸術における著しい観察力と写実性の向上も、同様に、墓碑や肖像の量産によるところが大でした。

 舞唱劇は、あいかわらず多くの市民・住民に人気がありました。しかし、もはや歴史賛美的な山羊歌はもちろん、時事批判的な狂宴歌もすたれてしまい、ただ恋愛を主題とした風俗描写的な狂宴歌だけがはやります。ここにおいては、作者など誰でもよく、ただ人気俳優が登場さえすれば、観客は歓喜しました。

 そもそも、観劇も民会も法廷も、市民にとっては「公務」のひとつであり、貧乏自由市民はたんに出席手当めあてで歓迎しました。こんな連中が相手ですから、民会も法廷も、市民扇動家は、俳優さながらの厚顔無恥なハッタリで、ひたすら派手な演説をぶって聴衆を沸せたのであり、それは、「愚民政(オクフロクラティアー)」、さらには「劇場政(テヘアートクラティアー)」とも呼ばれました。

 やがて、市民扇動家は、数の多い貧乏自由市民たちを味方につけるべく、観劇や民会や法廷の出席手当を増大し、また、金持に対する関税や公共奉仕を増大しました。そして、貧乏自由市民たちも、このような再分配政策を支持し、誰もが贈賄などによって出席手当のある身分を買い取ろうとし、民会や法廷を、私利私欲で左右するようになっていってしまいます。

 そのうえ、このような法廷での貧乏自由市民の数の優位を利用して、金持に対する言いがかりのような裁判が大量に提訴されました。さらには、[指名された市民は、公共奉仕を支出するか、指名した市民と財産交換する]という「財産交換制(アンティドシス)」も濫用されるようになり、金持を標的として、指名が乱発されるようにもなっていきます。また、一方、金持自由市民は、民会にも法廷にも失望し、ますます個人主義に没入していきます。

 このような政治腐敗の傾向は、土建成り上がり実業政治家テヘミストクレェスなど、すでに前世紀から散見されていましたが、前四世紀になると、さらに露骨なものとなり、当然のこととなってしまいます。

 また、自由市民の青年たちには、あいかわらず全員に兵役従軍の義務がありました。しかし、このころになると、腹弓や投石器・攻城台・破壁槌などの多様な強力新兵器が開発されて、急速に戦闘方法が複雑化し、もはや隊列を維持するだけの市民の装甲歩兵では対応できなくなり、代わって、これらの新兵器を駆使できる職業軍人や傭兵部隊が戦争の中心に台頭します。それゆえ、青年たちは、いちおうは装甲歩兵としての訓練を受けましたが、賄賂などさまざまな方法で、実際の従軍は逃れてしまいした。また、かつては多くの青年たちがみずから親しんだ体育にしても、次々とプロの体操選手が登場し、見せ物商売として模範演技を披露するだけになってしまいました。こうして、自由市民の青年たちは、ただ貿易や演説で個人的に活躍することだけを夢見たのであり、数多くの智恵教師たち、そして、イーソクラテース学校やアカデーメイア学園が彼らを導いたのです。

 もともとヘッラスにおいて装甲歩兵のみによる牧歌的な密着戦が成り立っていたことの方が異様でした。先述のように、弱弓や投槍を使う足軽歩兵がエーゲ海戦争において「発見」され、ヘッラス東西戦争においてゲリラ戦で活用されるに至って、一般市民による鈍重な装甲歩兵はもはや時代遅れとなっており、ましてやシチリア島でシュラークーサー将国がさまざまな強力新兵器を発明し普及させるに及んでは、未練の脆弱な一般市民の装甲歩兵など、戦場では足手纏いでしかありませんでした。

 中期プラトーンの政治理論:『市民性』 (c370 BC)

 プラトーンは、当時の「劇場政」を激しく嫌っていましたが、『プハイドロス』に見られるように、[知識人は、本気になれば、「劇場政」の《演説術》においても大衆人に優ることができる]と考えています。しかし、それは、霊魂の誘導であるがゆえに、誘導すべき霊魂の性質、すなわち、それぞれの〈市民性〉をまず研究しなければなりません。そして、実際、このころ、プラトーンは、長大な『市民性(ポリーテイアー、国家)』全十巻(c370 BC)を執筆していました。

 この著作は、『国家』と訳されることが普通ですが、しかし、「ポリーテイアー」は、「都市国家(ポリス)」ではなく、あくまで「都市国家市民(ポリーテース)」からの派生語であり、[市民性(シヴィリティ)]、すなわち、[都市国家の自由市民としての公的生活ないし権利義務]を意味する言葉です。それゆえ、後の『法制(ノモイ)』と違って、ここでは、全体としてあくまで〈市民(ポリーテース)〉としての〈正義〉が問題であり、けっして〈都市国家(ポリス)〉そのものが問題になっているわけではありません。
 ただ、[〈正義〉とは、〈市民(ポリーテース)〉が、自身を善化するだけでなく、市民以下の住民すべてをも善化することである]という観点から、〈哲人王〉が大きく議論されることになります。ラテン語訳や英語訳の『リパブリック』という題名もまた、このように〈哲人王〉へ集権一任する「公共政(レース=プーブリカ)」というプラトーンの主張の内容的側面から意訳されたものです。

 それは、前四一〇年頃、ペイライエウス軍港の在留外国人武器製作所経営者の富裕老名士ケプハロス(約七五歳)の家を主人公ソークラテースが訪れ、その息子の政治家ポレマルコホス(約五〇歳)、智恵教師トホラシュマコホス、プラトーンの兄のグラウコン・アデイマントスらと〈正義〉を主題に論じる、という形で進んでいきます。ところが、第一巻は、[〈正義〉についてなにも知らない]というソークラテースの告白で終り、第二巻に至っては、[〈正義〉は、個人で完結せず、市民の〈市民性〉においてこそ成立する]ということになってしまいます。

 富裕老名士ケプハロスは、弁論代筆家リュシアースの父でもあります。しかし、リュシアースは、この作品には直接は登場しません。
 この著作は、長い年月に渡って執筆されたと思われ、第一巻は、もとは『トホラシュマコホス』という独立の作品として構想されたようです。そればかりか、第二巻以降では、ソークラテースの対論の相手は、プラトーンの兄のグラウコン・アデイマントスに代わりますが、この二人、もとより描写にほとんど個性がなく、ただソークラテースの演説にあいづちを打っているだけです。このため、第二巻以降では、従来の対論篇のような強烈な見解の主張とソークラテースによる破壊という構図は崩れてしまっており、また、『弁明』や『酒宴』における人々を前にした即興の演説のような緊張感もなく、だらだらとソークラテースの一方的な講義が続くことになってしまいます。

 かくして、〈正義〉を成立させている市民の〈市民性〉が問題となり、第二巻後半および第三巻では、市民に〈市民性〉を付与する初等教育が解明されますが、第四巻に至って、彼独特の《三階級理論》、すなわち、[人間の霊魂の理性・勇気・欲望の三部分に対応して、〈市民性〉にも統治・軍事・生産の三階級の区別が存在する]と主張され、さらには、従来のアテヘェネー市の万能の〈自由市民〉の理念は否定され、国家の効率のための〈一人一技〉が肯定されます。

 ここにおいては、悪名高い「三金属人の神話」が述べられています。すなわち、[神々が人間を土から創造するとき、金や銀や銅を混合し、統治は黄金人に、軍事は白銀人に、生産は青銅人に委任したが、もともと混合なので、その含有する金属の比率によって、黄金人の両親から白銀人や青銅人が生れることも、また逆のこともあり、その素質を幼年に選別して、ふさわしく教育しなければならない]とされます。

 〈自由市民〉の理念の否定は、かならずしもプラトーンの積極的な主張ではなく、たんに当時の現実的な状況に即したものでしょう。というのも、このころ、貨幣信用経済の発達によって、中流の〈自由市民〉は、すでに金持商工業者と貧乏農民に分離し、軍事も新兵器による戦闘方法の変化によって、傭兵軍人に委任せざるをえなくなってしまっていたのです。そして、工業はもちろん農業も、荘園的な自給自足生活ではなく、工業的な商品作物生産となって、ワイン・オリーヴ油・ハチミツなど、それぞれに技術的に専門特化せざるをえなくなっていたのです。
 しかし、プラトーンの《三階級理論》の特徴は、すでに明確に分離してしまっていた金持商工業者と貧乏農民を〈生産階級〉としてあえて区別せず、これらとは別個に架空の〈統治階級〉を新規に創設していることです。当時の実際の政治は、むしろ成金金持商人が市民扇動家として権力を掌握しており、プラトーンは、彼らを支持し支配されるだけの没落貧乏農民の側にいました。それゆえ、彼は、この横割りの経済階級区分を、知識人と大衆人とで縦割りの文化階級区分に転換することを妄想していたのでしょう。
 なお、実際の経済階級間の力動的な関係と政体の変化については、第八巻で詳細に考察されています。しかし、プラトーンの《三階級理論》は、当時の時代背景からすれば、抽象的な国家内問題に留るものではなく、むしろ、ヘッラス世界の具体的な国家間問題とも関係していました。というのは、当時のヘッラス世界では、かつて[生産国家テヘェベー民国・軍事国家スパルター士国・統治国家アテヘェネー民国]という《三階級理論》の図式が国際的に成り立っていたからです。
 もっとも、最後のアテヘェネー民国は、実際は、もはや統治国家というより、すでに金融国家であり、それゆえ、第五巻以降の〈統治階級〉の理念は、その〈市民性〉を改造してアテヘェネー民国にヘッラス世界の覇権を回復するための具体的政策プログラムとも解釈することができるでしょう。

 第五巻から、〈統治階級〉の財産共有や男女平等、さらには家族解体が主張され、プラトーンの政治論の核心である〈哲人王〉の理想が展開されます。すなわち、〈哲人王〉とは、[知識の恋愛者かつ人民の教育者である王]であり、[厳格な生活によってみずから〈善〉を追及するとともに、人々をも〈善〉へ誘導する]とされます。

 そして、追及されるべき〈善〉の理念(イデアー)の説明のために、まず第一に、「太陽の比喩」が語られます。すなわち、[見られる事物が太陽に照されていてこそ視覚が成り立つように、知られる事物が善の理念に照されていてこそ知識が成り立つ]とされます。また、これを補うべく、第二に、「線分の比喩」が語られます。すなわち、[[視覚:知識]=視覚における[存在:印象]=知識における[真理:仮説]の関係が成り立っている]というのです。

 第五巻以降は、あきらかに脱線です。当初の問題は〈正義〉であり、その〈正義〉を成立させているものとして、市民の〈市民性〉が問題となっていました。ところが、プラトーンは、《三階級理論》を主張するに至って、〈市民性〉は三つに分裂し、さらに個人ごとにばらばらに崩壊してしまいました。これでは、〈市民性〉によって〈正義〉を説明することは、もはや不可能です。このために、プラトーンは、〈正義〉そのものである〈統治階級〉とその中心の〈哲人王〉によって〈正義〉を成立させなければならなくなってしまったのです。
 しかし、〈統治階級〉も〈哲人王〉も、実在しないプラトーンの妄想にすぎません。それゆえ、ここにおいて、論調は、唐突に、「である」という事実分析から、「であるべきである」という当為主張に変化してしまいます。いずれにせよ、〈正義〉を〈正義〉の人々で説明しようとするのは、循環論的破綻と言わなければなりません。

 さらに、第七巻では、先の二つの比喩を踏まえて、第三の有名な「洞窟の比喩」が語られます。これによれば、この現世界の人間は、洞窟に捕えられた囚人のようなものである、とされます。この囚人は、かがり火によって洞窟の壁面に映る模型の影を見て、その影が何であるのか、あれこれ言い争っています。これに対し、哲学者は、これがしょせんは影、それも模型の影にすぎないことを知っているので、そんな影や模型にとらわれず、洞窟から地上へ逃げ、あくまでその模型の本物を求めます。

 しかし、地上は洞窟と違ってたいへんに明るいので、目がくらんでしまいます。そこで、哲学者は、まず太陽によって地面に映る本物の影を知り、そして、徐々に本物そのものを知ろうとします。ここにおいて、壁面の影が印象、模型が存在、かがり火が太陽、そして、地面の影が仮説、本物が理念、太陽が善に相当するのでしょう。

 プラトーンは、[理念(イデアー)に似ている事物ほど、その機能をよく果すことができる]と考えています。たとえば、ナイフは、その理念(イデアー)に似ているほど、よく切れ、よいナイフであるとされます。そして、このように、[事物をその理念(イデアー)に似させてよくするもの]こそ、〈善〉の理念(イデアー)です。しかし、これは、品質的な「良さ」と倫理的な「善さ」の混同です。

 しかし、プラトーンによれば、[哲学者が明るい地上から暗い洞窟に戻ると、かえって何も見えず、地上で見た本物のことを話しても、盲人のたわごとと笑われ、また、人々は、彼のように盲目になるのを恐れて洞窟から逃げようともしなくなる]と言っています。

 それでも、[統治階級は、哲学によって地上の本物を知った後、洞窟に戻り、政治によって人々を善に正さなければならない]とプラトーンは主張します。[すこし目が慣れさえすれば、哲学者は、本物を知っているのだから、洞窟の模型の影でも、人々よりよくわかる]と言うのです。すべての事物を照す地上の太陽に喩えられた〈善〉の理念(イデアー)は、〈哲人王〉を象徴するものでもあります。つまり、〈善〉の理念(イデアー)が、事物をそれぞれの理念(イデアー)に似させてよくするように、〈哲人王〉もまた、すべての人間をそれぞれの理念(イデアー)に似させて、よくしなければならないのです。

 バカなのに偉ぶる(バカだから偉ぶる?)人々に対する絶望的な印象は、いつの時代の知識人にもあるものです。しかし、プラトーンは、ドン=キホーテのごとく、[それでも、崇高な知識人は、王として愚昧な大衆人を教導しなければならない]と言います。
 ただし、プラトーンでは、先述のように、品質的な「良さ」と倫理的な「善さ」が混同されてしまっています。実際は、たとえば、良い兵士が善い人間であるとは限りません。善悪は、人間の人格そのものにかかわることであり、業績や職業だけでは決められません。
 〈哲人王〉は、せいぜい品質的に良い人々(良く働く専業奴隷)を作るだけで、とうてい倫理的に善い人々(善く行う社会市民)にするとは思えません。そのうえ、〈哲人王〉は、自分を含めて、[よく機能することが本人にとっても幸福なのだ]などと独善的に決め付けている以上、実際には、たんなる「技術の道具」として市民を奴隷にする暴君でしかないことでしょう。

 こうして、先の市民一般の初等教育とは別に、〈哲人王〉たるべき〈統治階級〉のための選民教育が論じられます。すなわち、[一八歳~二〇歳には、市民一般の初等教育と同じく《体育》《音楽》を学ぶが、ここから、健康・容姿・品格・活気・知能・性格などによって、黄金人として選ばれ、二〇歳~三〇歳では、哲学で必要な仮説知識の訓練のために高等教育として《算術》《幾何》《天文》を修め、そして、三〇歳~三五歳でようやく哲学として真理知識を思索する《対談術》を試みる]とされます。[しかし、この後、いったん現実社会に戻って、人々を管理する仕事で多様な経験を積み、五〇歳になったら、ふたたび哲学を探究して、順番に統治者としての仕事を実践し、さらには、次の〈統治階級〉を教育して、最後は「幸福の島」に隠居し、死後は神霊として人々に崇拝される]とされます。

 プラトーンの理論からすれば、哲人王は、知能と性格において哲学と教導がきちんとできるなら、容姿も品格もどうでもいいはずです。ところが、純正ホモおやじのプラトーン大先生は、男っぽさなど、ひどく即物的なことを学生選抜の第一条件としています。これでは、愛人にすることを夢見て、まず容貌でOL採用者を選ぶ人事部のオヤジと大差ありません。もっとも、彼によれば、教育は恋愛ですから、学生を選ぶのも、愛人を選ぶのも同じで当たり前なのかもしれません。
 この〈哲人王〉を養成する選民教育のプログラムが、アカデーメイア学園の理想でした。しかし、どこまで実現していたのかは定かではありません。
 プラトーンは、このような理想を早急に実現するために、とんでもない方法を考えていました。すなわち、国内のすべての十五歳以上の少年を現在の堕落した生活から引き離し、田舎で以上のような崇高なる思想を徹底して教え込もうというのです。ようするに、誘拐・隔離・洗脳です。まともな大人たちから拒絶され排除された劣等者は、未熟な少年たちを集めて逆閉鎖的な独裁の小王国を作りたがるものです。これは、現在の学校(とくに大学)の教師などにも、けっこう多いタイプのように思います。しかし、これは、思想とか何かという以前の社会適合の失敗ないし精神病的な気質と言うべきものでしょう。

 この後、第八巻・第九巻では、「貴士政」「寡頭政」「市民政」「将主政」などにおける〈市民性〉の特徴が考察され、[霊魂として下位の階級が上位に位置することによって、不正が発生する]と結論されます。また、[正義である者が、幸福である]と主張され、最後の第十巻では、駄目押しのごとく、オルプヘウス教的な死後の裁判の神話である「エルの物語」によってさらに〈正義〉が推奨され、そして、余韻も何もなく唐突に、この長編は完結します。

 この作品は、それぞれの部分については、興味深いアイディアがいくつも見られますが、対論としての緊張感がないだけでなく、長編としての全体構成も整っておらず、せいぜい習作以上のものではなかったのではないでしょうか。実際、後述するように、五七年頃に構想される神話的新三部作『ティーマイオス』『クリティアース』『ヘルモクラテース』においては、第五巻後半以降の〈哲人王〉の部分はまるまるなかったものとされ、修正されてしまいます。

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