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春から大学生になる人たちへ




 毎年多くの若者が大学に入学して新生活をスタートする。そして難関校に合格した親ほど気が大きくなって、子のために贅沢な新築の賃貸マンションなどを借りる。後で仕送りが十分にできなくなって、その高額家賃に苦しむことも知らずにである。どうしてそこで最低の部屋からスタートさせないのかとオレは思うのだ。




 オレが大学生の頃は、最低の生活の選択肢がいろいろあった。京都大学の場合はなんといっても「吉田寮」「熊野寮」という恐ろしい場所が選べるのである。オレが学生だった頃は寮費も月100円程度と格安で、貧乏学生にとってはありがたい存在だったが今は月額3000円ほどになってるらしい。30倍とはあまりにもぼったくりである。この世にそれほど値上がりしているものが他にあるだろうか。せめて月500円くらいに抑えるべきだとオレは思うのである。






 京都大学の場合、寮生活者にはさまざまな動員や謎の勧誘があり、よほど意志が強くないとまともな学生生活は送れなかった。あれから40年以上経過した今も、吉田寮は崩壊寸前で生き残っている。少なくとも余計なストレスを抱え込むという意味では、この春から京都大学に入学する若者にはあまり勧めたくないのである。





 最低限の家賃として当時は「間借り」というのも存在した。これは戸建て住宅の一部屋を借りて、縁側から出入りするようなものである。夏目漱石の「こころ」に出てくるような和室で襖で仕切られているのである。もちろん風呂もなく、トイレは母屋のトイレを使わせてもらい、食事はすべて外食で家賃は月額7000円くらいだった。







 どうしても風呂付の部屋がいいという若者たちは、京都のチベットと呼ばれる岩倉という地域に居住していた。そこはなんと家賃1万円くらいで共同風呂付の物件が選べるのである。岩倉は洛中と違って田舎なので銭湯が存在せず、それで賃貸物件の方で風呂を用意する必要があったからである。岩倉は洛中よりも5~10度気温が低く、冬は雪に閉ざされることも多かった。だから学生たちは「京都のチベット」と呼んでいたのである。そのチベットから自転車で30分程度かけて貧乏学生たちは京都大学に通っていた。原付を手に入れれば通学は楽になったが、冬は路面が凍結するため自然と大学に来なくなる若者も多かったのである。





普通の学生たちの多くは一条寺や修学院、北白川といった大学の北東に位置する地域に居住していた。適度に家賃が安く、適度に便利だったからである。その序列を書くとこのようになる。


田中・北白川 > 一条寺 > 修学院 >>> 岩倉

 バイトの収入が安定していたおかげで、オレは田中樋の口町で家賃3万円のアパートに住めていた。周囲との比較で言えば超ブルジョワ学生だったのである。部屋には窓用のクーラーもつけていた。



 人間は一度快適な生活をすれば二度と後戻りできない。だからオレは新入生たちに言いたいのである。「あまりいい部屋に住むな!」と。一度快適な部屋に住んだらもう元には戻れないのである。




 30年以上という築古の安価な物件がまだまだ大都市には多数残っている。大阪や京都ではそういう物件はどんどん価格破壊が進み、礼金敷金ゼロというゼロゼロ物件となっていたり、フリーレント(最初の一か月家賃タダ)とかがついていたりするのである。東京の事情はよく知らないが、少なくとも供給過剰な地域では必ず価格破壊が起きるのだ。




 風呂無しアパートに比べればユニットバスでも全く生活には問題ないのである。それでも十分に快適に生きていける。近所にコンビニやスーパーがあれば大きな冷蔵庫などいらない。欲しいときに買いに行けばいいのである。




 
 「こんな狭くて汚い部屋に彼氏彼女は連れ込めない」と嘆く人もいるかも知れない。そんなことは全く心配ない。世間にはもっと狭い車内とかでいちゃつくやつらもいるのである。全然平気なのである。必要なのは「場所」ではなく「愛」である。愛があればどんな場所でも二人は幸福になれる。そんなことをオレは思うのである。


 
 4年間暮らした京都のボロアパートは、部屋が少し傾斜していた。ボールを置くと自然と隅の方に転がっていった。直下型地震が来ればオレの部屋は崩れ落ちていたかも知れない。


 もうその場所にはそのボロアパートは残っていない。



 そのアパートは「三紅荘」という名前だった・・・・

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。