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研究者を悩ませる管理書類の山はなぜ生じるか

研究者は論文を書くのが本質的な仕事のはずなのに不合理にも管理書類作業の山に埋もれているという記事をたまたまお見かけしまして。

この状況が続いていけば、やがて「科学者になれるのは、管理書類の山を作るのは得意だけれども科学知を生み出すのは苦手な人だらけ」という結果を招くだろう。目的と手段は見事なほどに転倒して科学の進歩は止まってしまう。こうした状況に陥ってもなお管理書類生産促進型科学行政人は「管理書類万歳!」と叫ぶだろうか。


まあ、みんな大好きブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の定番の内容ですね。グレーバーの『ブルシット・ジョブ』本編でもまさしく学内での雑用書類の激増は触れられていましたし。


さて、この記事の著者さんはこうした不合理な管理書類作業が激増することを「経営の失敗」に見ているようですが、江草はそうは思いません。

もちろん、こうした不合理な書類の山には江草も辟易する方なので、この事態そのものには同様に否定的なのですが、その原因が何にあるかの見立てが違うということです。

ここでゼロから説明してもいいのですが、さすがに江草も毎日note更新しているのもあって、すでに同様の説明をしている記事が過去にありますので、それを参照しながらできるだけ手短に済ませましょう。過去の資産は活用しないともったいないですからね。


で、なんで研究者に書類仕事が増えるのか。

その理由は社会の平等志向、そして研究界の人的閉鎖性にあると江草は考えています。


平等志向というのは人と人の間に身分の上下を想定してはいけません。だから、誰かが優遇されている時には「俺様は偉いからだ」では済まず、何かしらのその優遇に値する証明をする必要があります。かくかくしかじかの正当な理由によって私にはこのお金をもらう権利があると主張しないといけないわけですね。

つまり、平等を志向すると、そうした説明を各所にする必要が出てきます。こうした説明が大変な量になり窮屈になることは、ちょうど昨日のホウレンソウの話と同様です。

平等な社会の中で自身が優遇されようとするなら、それ相応の説明を各所にしないといけなくなる。それが要するに書類の山です。

経営が上手いとか下手とかいうレベルではなく、社会文化的に自然発生的に生じる現象というレベルなわけです。


でも、果たして研究者は優遇されているのか。

多分、当の研究者たちはそうは思ってないとは思うのですが、社会からするとやはり優遇的な立場にあるとみなされてると考えるべきでしょう。

現状の管理書類の山のことを忘れて、ピュアに研究者が思い描く理想状態を考えるならば「好きな研究をしていたら給料がもらえる」という状況ですよね。

しかも、記事の著者も言うとおり「最初から成果が出るかわからないから研究なんだ」とするならば、(理想状態では)成果の有無も問うてはならないと期待していることになります。

めちゃくちゃその気持ちは分かりますし、江草もそうであって欲しいなと夢には思う反面、それは研究者以外の方からすると「好きなことだけして成果の有無も問われずにお金がもらえるなんて、大層なご身分ですこと」となることは必至でしょう。

研究者以外の人々が、そんな好きなことだけしてお金がもらえたり、成果が問われなくてもいいなんてことがない世の中にあって、研究者だけがそうしたいわば「不労所得」的な収入が確保されているならば、優遇的立場と言わざるを得ません。


そして、先ほども述べてるように平等志向の世の中ですから、この優遇不遇の格差による怨嗟を「学者は偉いから」と上位身分的に片付けることができなくなっています。

その結果、生まれるのが「私が偉いんではなくってこの研究内容に社会的価値があるからお金をもらってるんですよ」と証明するための書類の山と、あるいは「私の身分が高いからとかそう言うわけではなくって私にはこうした学歴や業績があって高い研究能力があるからなんですよ」と証明するための書類の山(卒業証書も書類です)です。

特に後者はいわゆる能力主義(業績主義)的かつエリート主義的な発想であって、この理屈を研究者自身が自身の立場の補強に用いていることで、冒頭の記事でも批判されており多くの研究者が毛嫌いしている「選択と集中」を自ら助長しているところがあります。

なぜなら、この理屈はまさに「他の人々と違って能力がある私たちにお金を選択と集中してください」と言ってるロジックだからです。自分たち以外の人たちを差し置いて自分たちに選択と集中をしろと言っておいて、自分たちの中で選択と集中が行われるのは嫌だというのはそれはワガママなんではないかということになります。

なお、このあたりの論考はこのnoteで長々と書いてます。

それで、研究界が誰にでも門戸が開かれているなら、まだ分かるのですが、現実には大学入学時点で選抜してますし(奇しくもちょうど今大学入試の共通テストやってますね)、研究者ポストも限られています。

誰もが研究者になって「好きな研究をしていたらお金がもらえる」という立場になれるなんてことはない。研究界は現実として外部から人を入れることに閉鎖的なんですね。

となると、やはり、平等志向の世の中にあっては「私たちを仲間に入れようともしないのに、なぜあなたたち研究者だけが優遇されるんですか」という目が向けられます。

よって、優遇される理由を証明するための書類の山に追われ、結局は研究者の理想状態とは程遠い雑用だらけで研究に集中できない環境に変質してしまうということになります。

こうした状況を「経営の失敗」と語るのは、まあそういう側面もないとは思いませんけれど、ちょっとレイヤー的にはズレてるんじゃないかなと思うわけです。もっと大きな社会文化の構造的な問題というのが江草の感覚です。


でもって、じゃあどうすればいいのんという話も一応軽くしておきます。

まあこういうのは難題だからこそ、繰り返し出てくる問題なのであって、そんなわかりやすく一発解決という方法がないのが当然なのですが、それでも仮の案として。


まず、わかりやすいのは、これらの問題は平等志向から来てるんだから、平等志向をやめようという発想ですね。研究者の俺たちは偉いんだから周りの奴らはつべこべ言わず金を出せという考え方です。

まあ、理論上は成り立つんですけれど、ちょっとね。割と大学なんかはリベラルに平等志向をビジョンとして打ち出してることも多いので、結構な態度転換になります。そもそも江草的には嫌なので採用したくないですが、こうした立場に立つ人が出てくることはあり得るかと思います。


で、平等志向も保ったまま問題を緩和するとしたら。

考えられるのは、ベーシックインカムと、研究界をオープンにすることでしょう。

研究者にばかり「好きなことしてお金がもらえる」という優遇措置があるからあれやこれやの書類で正当性を証明しないといけなくなるわけで、この「好きなことしてお金がもらえる」が万人に行き渡るなら、正当性を証明する必要がなくなります(少なくとも緩和はされます)。

そして、その上で、学問への道もより緩和して、研究界をオープンにすべきです。

今は入試やらなんやらで、そもそも学問の道に進みたいと考えてる人をハナから定員で弾いているわけで、そうした「入りたかったのに入れなかった人たち」に対する説明責任という意味での書類の山でもありますから、オープンになればこの説明責任も緩和されると期待されます。(現実的に入れる人員に限界があるとしても「くじ引き」を採用するという案があります)

この「定員主義」批判については、江草の推し本である『DARK HORSE』が熱く語っておられますので、興味がある方はぜひ参照ください。

アーカイブですが過去に感想記事も書いてます。


まあ、これらの方策も実現までのハードルが高すぎてヤバいのは明らかなのですが、理論上思いつく案としてはこうなるかなと。


というわけで、研究者を悩ませる管理書類の山に対する江草的な認識を語ってみました。

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