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大正時代・植民地政策

大正デモクラシーとはどういった時代を言いますか?

大正デモクラシーとは、日本の大正時代(1912年〜1926年)に起こった民主化・自由化の動きを指します。この時代の特徴は以下の通りです。

  1. 政党政治の発展:護憲運動などを経て、政党内閣の時代が到来しました。

  2. 普通選挙の実施:1925年に普通選挙法が成立し、一定の年齢に達した男性に選挙権が与えられました。

  3. 社会主義・共産主義思想の台頭:大正時代には社会主義・共産主義思想が広まり、労働運動が活発化しました。

  4. 社会運動の活発化:女性解放運動、部落解放運動、農民運動など、様々な社会運動が起こりました。

  5. 文化の開放性:大正時代は、西洋文化の影響を受けた開放的な雰囲気の中で、文学、美術、音楽などの分野で新しい表現が生まれました。

しかし、1920年代後半になると、政党政治の行き詰まりや経済的な困難から、次第に軍部の影響力が強まっていきました。結果的に、大正デモクラシーは長く続かず、1930年代の軍国主義の台頭へとつながっていきました。

大正時代が比較的短い理由は何でしょうか?

大正時代が比較的短かった理由としては、以下のようなことが考えられます。

  1. 天皇の在位期間 大正天皇は在位期間が短く、1912年の即位から1926年の崩御までの14年間でした。これが大正時代の期間を規定しています。

  2. 第一次世界大戦の影響 日本は第一次世界大戦で戦勝国となり、好景気を謳歌しましたが、戦後は不況に見舞われました。この経済的変動が大正デモクラシーの盛衰に影響しました。

  3. 関東大震災の発生 1923年に発生した関東大震災は、日本の社会・経済に大打撃を与え、大正デモクラシーの勢いを削ぐ一因となりました。

  4. 昭和時代への急速な移行 1920年代後半から、軍部の台頭や国家主義の高揚など、昭和時代の特徴が次第に明確になってきました。大正天皇の崩御を機に、時代が大きく転換したと捉えられています。

  5. 明治時代との対比 明治時代が1868年から1912年までの44年間であったのに対し、大正時代は14年間と期間が短く、明治時代と昭和時代の間の過渡期的な時代と位置づけられることが多いです。

以上のように、天皇の在位期間、世界情勢、自然災害、社会変動などの複合的な要因により、大正時代は比較的短い期間に留まったと言えます。

大正ロマンとも言いますが、どういった特徴がありましたか?

大正ロマンは、大正時代の文化的・社会的雰囲気を表す言葉で、以下のような特徴がありました。

  1. モダンな文化の興隆 欧米の文化的影響を受け、カフェ、ダンスホール、百貨店などが登場し、都市を中心にモダンな生活スタイルが広がりました。

  2. 自由な芸術表現 文学、美術、音楽などの分野で、個性的で前衛的な表現が追求されました。例えば、芥川龍之介、志賀直哉、横光利一らの新感覚派文学などがあります。

  3. ファッションの革新 女性の間でショートヘアや断髪が流行し、和服から洋服へのファッションの移行が進みました。モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)と呼ばれる新しい若者像が登場しました。

  4. 大衆文化の隆盛 ラジオ放送の開始、レコード産業の発展、活動写真(映画)の普及など、大衆文化が花開きました。

  5. 知的交流の活発化 哲学、文芸、政治など様々な分野で、サロンや喫茶店を拠点とした知識人の交流が盛んになりました。

  6. 都市の発展 関東大震災後の東京の再建や、地下鉄の開通など、都市インフラの整備が進み、都市文化が発展しました。

大正ロマンは、西洋文化の影響を受けつつ、日本独自の解釈で咀嚼した、開放的で創造的な文化現象でした。しかし、その華やかさの背後には、社会の不安定さや、伝統との衝突など、近代化の光と影の両面がありました。

大正時代の文化や風俗は、大都会から地方へ滲透していましたか?

大正時代の文化や風俗は、主に大都市を中心に展開し、地方への浸透は限定的だったと言えます。

  1. 都市と地方の格差 当時、東京や大阪などの大都市と地方との間には、経済的・文化的な格差がありました。モダンな生活スタイルや新しい文化は、主に都市部の人々に受け入れられていました。

  2. メディアの影響 ラジオ放送や活動写真(映画)などのメディアは、都市部から地方へ情報を伝える役割を果たしましたが、その影響力は徐々に浸透していく過程にありました。

  3. 交通・通信インフラの発展 鉄道網の拡大や通信インフラの整備により、都市と地方の結びつきは強まりつつありましたが、まだ十分とは言えない状況でした。

  4. 地方の伝統的生活様式 地方では、伝統的な生活様式や価値観が根強く残っており、都市の新しい文化を受け入れることに対して抵抗感があった地域も少なくありませんでした。

  5. 農村部の変化 一方で、農村部でも小作争議の激化や、都市への人口流出など、社会変動の影響は徐々に及んでいました。

総じて、大正時代の文化や風俗は、都市部を中心に展開し、地方への浸透は緩やかで不均一なものでした。都市と地方の格差は、その後の日本社会の課題の一つとなりました。しかし、メディアの発達や交通の発展により、次第に全国的な広がりを見せていくことになります。

大正時代の文化や風俗は、大都会から地方へ滲透していましたか?

大正時代の文化や風俗は、主に大都市を中心に展開し、地方への浸透は限定的だったと言えます。

都市と地方の格差: 当時、東京や大阪などの大都市と地方との間には、経済的・文化的な格差がありました。モダンな生活スタイルや新しい文化は、主に都市部の人々に受け入れられていました。

メディアの影響: ラジオ放送や活動写真(映画)などのメディアは、都市部から地方へ情報を伝える役割を果たしましたが、その影響力は徐々に浸透していく過程にありました。

交通・通信インフラの発展: 鉄道網の拡大や通信インフラの整備により、都市と地方の結びつきは強まりつつありましたが、まだ十分とは言えない状況でした。

地方の伝統的生活様式: 地方では、伝統的な生活様式や価値観が根強く残っており、都市の新しい文化を受け入れることに対して抵抗感があった地域も少なくありませんでした。

農村部の変化: 一方で、農村部でも小作争議の激化や、都市への人口流出など、社会変動の影響は徐々に及んでいました。

つまり、大正時代の文化や風俗は、都市部が中心で地方への広がりは限られていましたが、メディアや交通の発達により、次第に全国的な影響力を持つようになっていったと言えます。ただ、都市と地方の格差は大正時代以降も日本社会の課題であり続けました。

大正ロマンを代表する作家や芸術家、音楽家は誰でしょうか?

大正ロマンを代表する作家、芸術家、音楽家には以下のような人物がいます。

文学:

  1. 芥川龍之介 - 「羅生門」「蜘蛛の糸」などの短編小説で知られる。

  2. 志賀直哉 - 「小僧の神様」「和解」などの私小説で有名。

  3. 谷崎潤一郎 - 「痴人の愛」「刺青」などの耽美的な作品を発表。

  4. 川端康成 - 「伊豆の踊子」などを発表。のちにノーベル文学賞受賞。

美術:

  1. 藤島武二 - 「黒き猫」などの象徴主義的な絵画で知られる。

  2. 竹久夢二 - 「少女の絵」で有名。大正ロマンを代表するイラストレーター。

  3. 中村彝 - 「海の幸」などの印象派風の絵画を制作。

  4. 津田青楓 - 「麗子像」などの日本画で知られる。

音楽:

  1. 中山晋平 - 「港町十三番地」「影を慕いて」などの流行歌を作曲。

  2. 野口雨情 - 「七つの子」「夕焼小焼」などの童謡や唱歌の作詞で有名。

  3. 山田耕筰 - 「この道」「からたちの花」などの歌曲を作曲。

  4. 成田為三 - 「浜辺の歌」などを作曲。

これらの芸術家たちは、西洋の影響を受けつつも、日本独自の感性で大正ロマンを代表する作品を生み出しました。彼らの作品は、現代でも高く評価され、親しまれています。

当時、大学は日本国内及び植民地にどれくらいありましたか?

大正時代(1912年~1926年)には、日本国内と植民地を合わせて以下のような大学がありました。

日本国内:

  1. 帝国大学(現在の国立大学の前身):東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋の7大学

  2. 私立大学:慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、同志社大学、立教大学など

植民地:

  1. 朝鮮総督府傘下の京城帝国大学(現在のソウル大学校)

  2. 台湾総督府傘下の台北帝国大学(現在の国立台湾大学)

  3. 関東州(中国東北部の租借地)の大連工科大学

1918年に大学令が公布され、従来の制度が改められて大学の設置が容易になったことから、大正時代には私立大学の設立が相次ぎました。

また、日本の植民地であった朝鮮と台湾にも、日本の帝国大学に準じる形で大学が設置されました。

ただし、当時の大学の数は現在と比べるとかなり限られており、高等教育を受けられる人々は一部のエリート層に限定されていました。大学の設置数は、日本の近代化と教育の発展を反映していますが、同時に植民地支配の一端も表しています。

創立された順番で、並べ替えられますか?

はい、創立された順番に並べ替えてみましょう。

日本国内:

  1. 慶應義塾大学(1858年) - 最初は学校としての認可を受けていなかったが、のちに大学となる。

  2. 東京大学(1877年) - 最初の帝国大学として設立。

  3. 京都大学(1897年) - 2番目の帝国大学。

  4. 早稲田大学(1902年) - 東京専門学校を前身とする私立大学。

  5. 東北大学(1907年) - 3番目の帝国大学。

  6. 九州大学(1911年) - 4番目の帝国大学。

  7. 明治大学(1920年) - 明治法律学校を前身とする私立大学。

  8. 法政大学(1920年) - 和仏法律学校を前身とする私立大学。

  9. 中央大学(1920年) - 英吉利法律学校を前身とする私立大学。

  10. 日本大学(1920年) - 日本法律学校を前身とする私立大学。

  11. 北海道大学(1918年) - 5番目の帝国大学。

  12. 大阪大学(1919年) - 6番目の帝国大学。

  13. 名古屋大学(1920年) - 7番目の帝国大学。

  14. 同志社大学(1912年) - キリスト教主義の私立大学。

  15. 立教大学(1922年) - キリスト教主義の私立大学。

植民地:

  1. 京城帝国大学(1924年、朝鮮)

  2. 台北帝国大学(1928年、台湾) - 大正時代より少し後の設立。

  3. 大連工科大学(1923年、関東州)

この並び替えから、帝国大学が順次設立されたこと、1920年前後に私立大学の設立ラッシュがあったこと、そして植民地においても1920年代に大学が設けられたことがわかります。

植民地における大学設立は、もっと早いものと思っていました。

そうですね。植民地における大学の設立は、日本国内の大学と比べるとかなり遅れています。

台湾では、1928年に台北帝国大学が設立されるまで、大学レベルの教育機関はありませんでした。それ以前は、台北医学専門学校(1899年設立)や台北高等農林学校(1919年設立)などの専門学校が高等教育を担っていました。

朝鮮では、1924年に京城帝国大学が設立されるまで、大学はありませんでした。京城帝国大学の前身となる教育機関としては、1915年に設立された京城医学専門学校などがありました。

関東州では、1923年に大連工科大学が設立されました。これは、関東州の租借地であった大連の重要性を考慮して、比較的早い時期に設立されたと言えます。

植民地における大学設立が遅れた理由としては、日本の植民地支配の目的が、主に資源の収奪や軍事的な拠点の確保にあり、現地の人々への高等教育にはあまり重点が置かれなかったことが挙げられます。また、日本は植民地の人々を差別的に扱っていたため、高等教育の機会も限定的でした。

しかし、1920年代に入ると、国際的な批判や現地の民族運動の高まりを受けて、日本は植民地における大学設立を進めました。ただし、これらの大学でも、日本人学生が優遇され、現地の学生は差別的な扱いを受けることが多かったのが実情でした。

植民地においては、入植者が優先であったのでしょうか?

はい、その通りです。植民地の大学では、日本人学生が優遇され、現地の学生は差別的な扱いを受けることが一般的でした。

入学定員と入学者数: 京城帝国大学や台北帝国大学では、入学定員の大部分が日本人学生向けに割り当てられていました。例えば、京城帝国大学の場合、1924年の開学時には、日本人学生の定員が200名だったのに対し、朝鮮人学生の定員はわずか30名でした。

授業言語: 授業は主に日本語で行われ、現地の言語はほとんど使用されませんでした。このことは、現地の学生にとって大きな障壁となりました。

学部の設置: 京城帝国大学や台北帝国大学では、法文学部や医学部など、日本の帝国大学と同じ学部が設置されましたが、現地の文化や言語を学ぶ学部は設けられませんでした。

卒業後の進路: 日本人学生は、卒業後に官僚や企業の幹部として植民地支配を担う立場に就くことが多かったのに対し、現地の学生は差別的な扱いを受け、同じような地位に就くことは困難でした。

このような差別的な教育政策は、日本の植民地支配を維持するための手段であり、現地の人々の不満を引き起こす原因ともなりました。植民地の大学は、日本の支配を正当化するための装置であり、現地の人々の教育や自立を真に目指したものではなかったと言えます。

しかし、欧米の植民地政策とはかなり異なる方針ではありましたね。

おっしゃる通りです。日本の植民地政策は、欧米諸国の植民地政策とはかなり異なる特徴を持っていました。

同化政策: 日本は、「同化政策」という名目で、植民地の人々に日本語の使用や日本式の教育を強制しました。これは、現地の文化や言語を抑圧し、日本人化を図る政策でした。一方、イギリスやフランスなどの欧米諸国は、「間接統治」の方針をとることが多く、現地の文化や言語を尊重する傾向がありました。

皇民化政策: 日本は、特に1930年代後半から、「皇民化政策」を推し進めました。これは、植民地の人々に天皇への忠誠を強制し、日本人として同化させることを目的とした過激な政策でした。欧米諸国の植民地政策には、このような極端な同化政策は見られません。

産業政策: 日本は、植民地を日本経済の補完的な役割を担わせるために、現地の産業を日本の経済的利益に従属させる政策をとりました。これに対し、欧米諸国は、植民地をより自立的な経済主体として育成する政策をとる場合もありました。

教育政策: 先述の通り、日本の植民地における教育政策は、日本人学生を優遇し、現地の学生を差別するものでした。これに対し、欧米諸国の中には、現地のエリート層の育成を目的とした教育政策をとる例もありました。

これらの違いは、日本が後発の帝国主義国であり、短期間で植民地支配を確立しようとしたことや、日本自身が単一民族国家であるという意識が強かったことなどが背景にあると考えられています。日本の植民地政策は、欧米諸国とは異なる特質を持っていたと言えます。

英国において、印僑が高い地位を得ることが出来た理由は何でしょうか?

英国において、インド人(印僑)が高い地位を得ることができた理由は、以下のようないくつかの要因が考えられます。

  1. 教育機会の提供: イギリスは、インドの一部のエリート層に英語教育を施し、彼らを植民地支配の現地での担い手として育成しました。これにより、英語能力とイギリスの文化や価値観を身につけたインド人エリートが生まれました。

  2. 官僚制度での登用: イギリスは、インド人をインド行政職(ICS:Indian Civil Service)に登用しました。これは、インド人エリートに高い地位を与え、彼らをイギリスの支配体制に組み込むための施策でした。

  3. 留学の機会: インド人エリートの中には、イギリスに留学し、高等教育を受ける者も多くいました。彼らは、イギリスで専門的な知識や技術を身につけ、帰国後に重要な役割を担いました。

  4. 文化的な交流: インド人エリートとイギリス人の間には、文化的な交流もありました。これにより、相互理解が深まり、インド人が英国社会で受け入れられやすくなった面もあります。

  5. 独立運動への関与: 20世紀に入ると、インド人エリートの中から、独立運動に関わる者も現れました。彼らは、イギリスで学んだ知識や経験を活かして、独立運動をリードする役割を果たしました。

これらの要因が組み合わさった結果、インド人エリートは、英国社会でも高い地位を得ることができたのです。ただし、これはあくまでもエリート層に限定された話であり、一般のインド人が英国社会で同様の地位を得ることは容易ではありませんでした。

また、英国のインド統治政策は、インドの多様性を尊重する間接統治の形態をとっていたため、現地のエリート層を取り込むことが重要な戦略となっていました。これが、インド人エリートが高い地位を得る背景になったとも言えます。

朝鮮人や台湾人で、当時の日本軍の幹部になったひとはどれくらいいましたか?

日本統治下の朝鮮と台湾では、軍の幹部にまで昇進した人物の数は非常に限られていました。

朝鮮人: 朝鮮人で日本軍の将校になった人物は、李範奭(イ・ボムソク)中将が最高位とされています。李は、日本の陸軍士官学校を卒業し、満州事変や日中戦争に参加しました。他に、少将になった朝鮮人は数名程度と推定されています。

台湾人: 台湾人では、日本軍の将校になった人物は確認されていません。最高位は、日本陸軍士官学校を卒業し、大尉になった楊清芬(ヤン・チンフォン)という人物です。

この背景には、以下のような理由があります:

  1. 差別的な政策: 日本軍は、朝鮮人や台湾人を下級兵士として徴兵することはありましたが、幹部への登用には消極的でした。彼らを信用せず、差別的に扱う傾向がありました。

  2. 教育機会の制限: 朝鮮人や台湾人が日本の士官学校に入学することは、非常に難しくなっていました。彼らに対する教育は、日本人と同等ではありませんでした。

  3. ガラスの天井: たとえ士官学校を卒業しても、朝鮮人や台湾人が日本軍の高位に昇進することは、事実上のガラスの天井があり、極めて困難でした。

  4. 民族差別意識: 日本軍内部には、朝鮮人や台湾人を劣った民族とみなす差別意識が根強くありました。このことが、彼らの昇進を阻む大きな要因となっていました。

このように、日本統治下の朝鮮と台湾では、日本軍の幹部になることは非常に難しく、ごく少数の例外を除いて、ほとんど実現しませんでした。これは、日本の植民地支配の性格を反映した結果と言えます。

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