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どう生きたいかを考えた

癌が発覚して2年経ちSNSで公表した。
思いのほか多くの友人が励ましや力になりたいと連絡をくれた。
公表した時点ではまだ比較的元気な状態で、抗がん剤もよく効いていた。

この時は気付いてなかったが、癌であろうが重い症状や、副作用があまりない状態では気持ちの持ち方も前向きで、物事もしっかり考えられていた。
この状態はステージ4を宣告され、治すことは出来ないと言われたときも同じであった。治らないと言われても、辛い症状もなく、苦しいわけでもないし、どうやって生きていくかを考えても今までと違う思考回路にはならなかった。少なくとも可能な限り働いて、家族を養う、できるだけ一緒にいる時間を大事にしたい。この体でどんな仕事がどれくらい出来るのかわからないが雇い続けてもらえる限り辞めることは考えてもいなかった。

ところが、半年の育休が終わりいよいよ復職するタイミングになり、身体の調子がこの2年で1番悪くなり始めた。
激しい頭痛が続き、半日寝るような日が発生し、おまけに右足が上手く使えず階段すら上りづらくなり、自分の体のコントロールが出来ないという現象を初めて味わった。そして明け方に頭痛で目が覚め耐え切れず病院へ電話し直ぐに来るように言われそのまま緊急入院となった。
脳へ転移した癌がかなり大きくなり、むくみや出血の可能性も説明され、抗がん剤を中止し全脳放射線治療を1週間することとなった。
脳へのダメージは想像以上に全身への影響が大きい。ついこの前まで身体は元気だった私にとってこの体験は苦痛であり、しっかり動けない状態で2週間弱入院を強いられるのは最早軟禁生活であった。そしてそれは精神的にも大きな影響を与え、生きる事がこんなに辛いのかと思い始め、感情がぐちゃぐちゃになり、訳もなく涙が出る日が続いた。
これがきっかけとなり、働く意欲やモチベーションはなくなり、ただひたすら家族と一緒に過ごすかだけの生き方でいいと思うようになった。
CT検査で改善が認められ2週間弱で無事退院となったが、退院した日の午後の記憶がなく、そこから毎日目眩と耳鳴りが日常的に起こる日が始まった。
つまり本格的に副作用との闘いが始まってしまった。

退院後に心配して電話をくれた高校の同期と10年以上振りに会う約束をした。
彼らは思った以上に私の事を心配してくれて、本気で何かできる事がないかを考えてくれていた。それが凄く嬉しくて、色々今までのことも含めて話しているうちにもっと前向きにこれからどう生きるかを考えてもいいのではと思い始めた。

社会に出る人の多くは、自分がどう生きたいか、何をしたいかを第一優先にするより、周りの就活の波に合わせたり、自立した生活をするため、家族を養うため、お金のために働く割合が多いと思う。
夢を持って、食えないけどこれがやりたいからやる、という人は一定数いるとは思うが、"食えない"を受け入れられなかった私はそうなれなかった。

そうして一度サラリーマンになると右肩上がりで成長することが大前提の資本主義社会の呪縛に取り憑かれると勝手に思っている。仕事を覚え、スキルを上げ、成果を出して年収を上げ、昇格する。または市場価値を高めて転職やキャリアアップをして経済的にも豊かな暮らしを手に入れる。サラリーマンの生き方の王道であるがこの生き方は体力もメンタルもタフでないと出来ない。
今の私には到底無理である。

高校の友人と話した時に前向きになれたのは、この呪縛から解放され、自分が楽しい、面白いと思えることだけをする人生でいいんじゃないかという考え方である。家族と過ごす時間を含めて楽しいと思えることしかしないというコンセプトで人生の第2章を始めたいと思い始めた。最高の贅沢だと思うがこれを実現するにはやはりお金がないと何も出来ない。しかし幸いなことに癌で住宅ローンはチャラになったので売れば生活に困らない資金は入るし、都内にある実家に帰り、親と同居すれば住むとこにも困らない。
この体なので、できる時に親孝行をしたいということで妻も納得してくれた。

こうなれば本当に資本主義から脱却し自由に生きる事が現実味を帯びてくる。
たった一回しかない人生で、何が起こるか分からないという事を身をもって経験し、まだまだ死を突き付けられていることには変わらないが、そもそも明日生きている保証など誰1人としてない。みんな当たり前だと思いすぎている。このことを頭において、死ぬ1秒前まで全力でやりたい事だけやって、いい人生だったと思えればそれでいいんじゃないかなと。
自分を押し殺して、我慢して、結局辛いことの方が多かったなと思うような生き方は避けられるなら避けたいと誰もが思うはず。
だからこそ、それができるのはある意味ラッキーだと思う。これも前向きな思考になれたから思えること。


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