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複数性を担保したいなら、無責任に話す人を増やすことが大切だ|#CXDIVE 定例会議の模様をお届け

こんにちは。XD編集部員/CX DIVE構成員の柏原(@tkashiwabara09)です。

今回は、CX DIVEの定例会議の模様をお届けします。週に一回、1時間30分、XD編集部とCXにまつわる世の中の動きやとにかく自分がした体験が如何に素晴らしかったかを語りたいメンバーたちが自由にゆるりと参加し、気になるトピックを共有しあったり、ディスカッションしたりしています。

CX DIVEはひらかれたカンファレンスであることを目指しています。テーマ、セッションの企画とご登壇者の選定、そもそもカンファレンスという形式自体、参加いただく方への体験の届け方など、あらゆる意味において狭めず閉じず、多様な可能性に対してひらかれたカンファレンスでありたいと思っているのです。普通こうでしょ?という固定観念は、積極的に自ら壊していきたいということ。

そこでは、視座の複数性は大きな武器になります。人は得意な領域や、ものの見方や切り口の作り方に「型」のようなものがあります。少ない人数だと、出せる論点に限りが出てきてしまう。そこを補うためにも、定例会議自体をもっとひらかれたものにするというトライをしています。

無責任に話す人を増やすことが重要だ

3月後半くらいから今のかたちをはじめて、回を増すごとに参加してくれるメンバーも増えています。お笑い、アート、飲食、映画、行政、音楽、ゲーム、メディア、書籍と本屋、ネットカルチャー、宗教。そして新型コロナウィルスの影響に伴うわたしたちの生活の変化と、それでもなお変わらないであろう体験価値について。論点、出るわ出るわ。おもしれーのなんのって。

提出されたテーマについて、それをまとめたり整合性をとったり、かたちにするのはこっちでやるので、定例会議に参加してくれるメンバーは気楽に自由に、そして無責任にしゃべってくれるので、ありがたい限り。

わたしは、この場においてはこの「無責任さ」というのが大事だと思っています。ここでの「無責任さ」というのは、自分の話す内容が何かしらの成果物になることを意図しない、ということです。例えば、CX DIVEのセッションのテーマとして昇華させるぞ!などと気張らないこと。

むしろ他者を意識せず、自分がしたいように話すこと。聞く者も、自分が聞きたいように聞く。他者の発言をおもしろがりながらも、無責任に自分の見方に引き寄せる。その連鎖が、視点の多様性を担保したり、あるいは一見別々の事象のなかに、実は通底する抽象的な価値を手がかりをみつけることにつながったりする。そういうことを、いまの会議スタイルになってから感じています。

週に1回くらい無責任な会議をやるべきですよ。リモート中心のワークスタイルなら、なおさらかもしれません。

さて、これまでの会議で出たトピックを少しだけ紹介します。ここでのアイデアがCX DIVE本番でもセッションテーマとなるかもしれませんし、ならないかもしれません。ここで考えた過程自体を、知っていただきたいという試みです。

その1:思想と実践の不可分な関係、あるいはメディアの姿勢について

フイナムというウェブメディアは年2回『HOUYHNHNM Unplugged』という雑誌を発行しています。その最新号のテーマは「してはいけないこと、しよう」。目次には大麻にタトゥー、ストリートグラフィティ、深夜2時のラーメンや燃費の悪いクルマなど、今の時代の正しい価値観や真っ当な倫理観が眉をひそめるような文字列ばかり。会議では、こんな刺激的な号の冒頭を飾る蔡俊行編集長の巻頭言が話題になりました。

詳細はぜひ『HOUYHNHNM Unplugged』を手にとって読んでほしいのですが、「してはいけないこと」という社会的なタブーやポリティカル・コレクトネスに抵触するような話題が、避けられるべく避けられてしまう状況への憂慮と、だからこそ自分たちは「してはいけないこと」を扱うのだという決意と想いが綴られています。

そして、この「してはいけないこと、しよう」というタイトルは、一部の広告出稿主からは「趣旨はわかるものの、この企画に広告を入れることは難しい。タイトルを変えてもらえないか」という打診があったこと、しかし、『HOUYHNHNM Unplugged』は自己規制することよりも、出稿を失うことになってもこの企画で行くことを選んだことが記述されています。

この巻頭言で表明された思想自体に痺れてしまうというのももちろんあるのですが、これを読む前と読む後では、雑誌自体の読み方に違いが生まれます。広告出稿しているA社は、どのような経緯で出稿を決めたのか?この尖ったテーマに対して紆余曲折の末に出稿を決めたのか、いや、A社のことだからむしろこのテーマを歓迎した可能性もあるぞ、と。

このような思想の表明は、それを支える実践と表裏一体です。いくら言葉を尽くしても、言っていることとやっていることに矛盾があっては伝わらないどころかむしろ逆効果になってしまう。『暮しの手帖』など、その思想を体現するために広告を入れないという実践をする媒体もあります。

あらゆる情報が氾濫し、誰でも自由に「深読み」ができる今、メディアは「読者に、自由に読み解かれてしまう」ことをどう捉えているのか。メディアに伝えたいメッセージ、思想があるとして、それはどのような実践を通して伝達され得るのか?実はこれは、メディアだけではなく、どんな企業にも当てはまる問題系であるはずです。今後も深めていきたいテーマですね。

ちなみに、『HOUYHNHNM Unplugged』最新号での私的オススメ特集は友川かずきさんへのインタビューです。あふれる競輪への熱情。好きな彼の曲は『トドを殺すな』。おれたちみんなトドだぜ。

その2:制作と視聴の環境変容と音楽体験の今

そしてもうひとつが、音楽体験の話。わたしたちのラジオ番組『KARTE CX VOX』でも取材したさいたま市のCDセレクトショップ「more records」での話と、「昔みたいに、みんなが歌えるJ-POPって減ってきてない?」という感覚の矛盾の話。

「more records」店長の橋本さんへの取材内容は、後日XDにてラジオの書き起こし記事が出るので、そちらを読んでいただくとして。彼は今の日本の音楽業界について以下のような見解を持っています(取材メモより抜粋)。

ネットのおかげで確かに音楽を気軽に聞けるようになったかもしれないが、実は「新しい音楽に出会いにくくなっている」側面がある。「聴きたい曲」を聴くにはいいが、「未知の曲」に出会いにくい。結果、売れる曲とまったく売れない曲の二極化が起こっている。こうなると、CDを出したくても出せない、リスクを取れないというアーティスト、レーベルが増えてきてしまっている。このままでは音楽文化の衰退につながってしまうという危機感がある。

たしかに「未知の曲に出会いにくい」という状況理解には納得感があります。「これが好きな君は、今はこれを聴くべきだ」と強く意見してくれる先達がほしくなることがあります。過去のわたしの場合は、高校生のときに通っていたセレクトショップの店員さんでした。

定例会議でも、音楽視聴に話が及びました。そのとき出たのは、「時代を代表するような曲が少なくなってきているのではないか」という感覚。カラオケでみんなが合唱できる曲の最新は、90年代後半から2000年代初頭のJ-POPまでさかのぼってしまうのではないか、みんなが知っている曲というものが少なくなってきているのではないか。

こうなると、more records橋本さんの売れる曲と売れない曲の二極化という話と、「みんなが知っている曲がなくなってきている」という話は一見矛盾しているようにも見えます。「売れている」と判断される量的水準が低下している、というのは矛盾を解消するひとつの見方かもしれませんが、果たしてどうなのでしょうか。

この話に終始しなくとも、音楽にかかる環境が変容するなかで、制作と視聴のかたちも変化が生じているということがわかります。特に、制作側の変化に目を向けなければいけない。わたしたちはその中身にあまり無頓着なのではないか、という気がしています。あと純粋に、制作側の意図がみえたり、その解説によって享受する体験自体の価値が変わる。つまり、制作側が見えると、より音楽を楽しめると思うのです。まさに「関ジャム」がそういう番組ですよね。

動画配信サイトやSNSが発表の場になる。プロとアマという区別自体が瓦解する。二次創作。CDという流通形態からネット配信・サブスクリプションへ。この制作と視聴に目を向けながら、音楽体験の今を深堀りするのもおもしろいかもしれません。




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