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〈せつなさ〉と〈しょうもなさ〉

鳥の鳴き声で目を覚まし、朝露に濡れた草を踏みわけ、トマトをもいで食べ、いつも聴くアルバムのピアノ7音に心を沈ませ、そして師に挨拶する。空を見ては天気を憂慮し、烏(カラス)の群れ鳴けば不幸に心が痛み、大酒を交わしながら縁を紡ぐ。一日酷使された腕は痺れながら、冷える夜に歓喜する。乾いた身体に「のどごし生」が染み渡り、机に置いたコップを見れば金の泡が一列になって浮遊する。夢を見ているようだけど、叱咤激励を受けるたびに目が覚めて、気を引き締める。そうして虫の音を聞きながら夜は更け。街での日々は忙しなく、車も虫も同じようにせかせかしているけれど。山郷の蛾は蝶のように煌びやかに舞う。人間であることを忘れた都会の獣を嫌うより、僕は〈人間〉であり続けられる幸せを〈人間〉と過ごしたい。

最近になって、頭から離れないのは「持ちつ持たれつ」という表現。この互酬的な関係性を大切にしていきたい。地に足ついた気配りを絶やさず(OMOTENASHIみたいなものではない)、モノや労力やあるいは盃を交わし合い。また何もヒト間だけでなく、自然やカミとも互酬は成り立つと思う。恩恵を受けつつ、影響を与え合う中で。そういうことを考えると農業〈アグリカルチャー〉はどこまでも文化的な行為だと思う。

そんなことを考えながら久々にパソコンを開くと充電はなく、暫くしてからやっと起動した。懸賞論文を書き始めるのだけど思考が脳内で交差するせいで、一貫性を持って書き進められない、けれど、なにもこの世界は一貫性などなくカオスで混沌で複雑なのだから、それを書くことこそが真摯なもの書きなのだとも思っている。

サステナブルだとかエコだとか0円生活だとかグリーンツーリズムだとか、そういったものでは決してなく、手垢のついていない純真無垢なままの暮らしの、素朴な豊かさを噛み締めていたい。〈せつなさ〉と〈しょうもなさ〉に寄り添うのが民俗学だと信じているから。だから冒頭にあるような日々や、朝から赤紫蘇を千切りつづけ紅く染まったあの手や、誰にも褒められない草刈り作業をするあの背中を、そういう風景を僕は愛でる。

これから大学を1年休むことにした。村に住み込み、調査なのか研鑽なのか暮らしなのかわからないけれどそういうことを総合しながら過ごすことになった。忘れないうちに考えることやらをここに記しておいたまで。半年や一年の後に僕の手は、背中は、土埃とともにうす汚く輝いているだろうか。少なくともこの夏に僕の肌は小麦色に焼けている。

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