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小説から考える『干渉』の話

大学の先輩たちと喋ってて、「おいしいごはんが食べられますように」の話になって、「でもそういえば安吾の小説にも、主人公の男の家に食器とか持ち込む女を疎んでいた描写がありました」って言ったら、

「僕は釜だの鍋だの皿だの茶碗だの、そういうものと一緒にいるのが嫌いなんだ」
『白痴』

「えーそうなんだ。二谷だね。でも漱石とか鷗外とかって他人からの介入に抵抗がないよね?」って言われて「たしかに〜!猫が入り込んできても受け入れられますもんね〜!」てなった。漱石は安吾みたいなこと絶対言わない。勝手に入り込んできた猫のことを自然に受け入れて愛せるし(猫だから?)、『こころ』とかでも他人と一緒に暮らすこととか、他人が自分の人格に干渉してくることに関しての抵抗感はないように思える。『坊つちゃん』なんて最悪の他人の干渉の物語だ。でも別に書き手は「干渉が」最悪とは捉えてないよね。別のことを最悪だとは思ってるけど。鷗外だって母とか国とか仲間からの干渉に対しては「当然のこと」と捉えている。

しかし大正になった瞬間、白樺派たちは急に干渉を嫌い始める。やけに嫌がる。
乃木希典が死んだからかな…。自分が明治天皇だったら(死まで干渉してくんなよ!!!)と思うもんな…。
乃木の死は、干渉の死だったのだ。

なんかもう、全ての近代思想というのは理由:乃木希典が死んだから
な気がしてくるな。

干渉。どうなんだろう。干渉をやけに嫌いますよね。現代人。
私は皇族ではないので、人に干渉されることにそんなに抵抗がない。必要ない人からの干渉を嫌がる気持ちは非常にわかるけど、好きな人には干渉された方が良いな。と思う。好きな人でも干渉されたくない、というのがよくわからなくて、だって、干渉された方が楽しいし、お互いラクじゃん。と思う。人は1人では生きられないし、個の尊重と干渉はまた別の話ではないですか?と思う。東京って街で誰かにあまり話しかけたりしないけど欧米とかってめちゃくちゃ話しかけたり干渉する、みたいな話って、「個」の概念と「相互扶助」の概念が叩き込まれてるからなんじゃないかな、みたいな。ていうか干渉を嫌うなよ。なんで自己開示できないの?やましいことでもあるの?まで思う。職場とかは全く別ですよ。けど多分そっち側の人には私のような人間など言語道断、私とあなたで50年のジェネレーションギャップがあるように感じるでしょう。
私は友達と最近買った服があれば商品のスクショを送り合うし、母親から今日食べたもの、予定、デートの話、何聞かれてもオッケー。全・友達に全ての話をしているから、別のコミュニティの友達がみんな私の人間関係を把握している。高校の友達が、「でさあ、○○(←私の大学の友達)の旦那どうなった?」とか言ってきたりする。私はその状態が、好きなのだ。

漱石はわかってくれると思う。でも志賀とか芥川とかはキレると思う。「令和に生きてるのに?」とか言われそう。こわい。

そうだよね、志賀。私たち、乃木希典が死んで100年経ってもまだ、あなたたちが呪った戸籍制度の中で、干渉し合ってるよ。


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