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訃報時におけるそれぞれの対応に思うこと

同じひとり親として知り合った方の訃報が届いた。それはほとんど活用されることのないメーリングリストに届いた。件名の「訃報」を見て、あの人ではないか、と思った。

数年前のオフ会のときに、地元での規模の大きな開催だったにも関わらず、当然出席するだろうと思われるあの人は、欠席だった。出席した人の話によれば、どうも体調が良くなさそうである、とのことだった。詳細を知っていそうな人は皆、詳しく語ろうとしなかった。その話を聞いて、状態が良くないのだろうな、と思っていた。

数年前のことだから、その後に回復したということだってあるだろうけれど、なんとなく引っかかっていた。それで、あの人ではないか、と思った。残念なことに、勘は当たってしまった。

メーリングリストは何度となく、場所を変え、参加者数も減っているようだった。Facebookで繋がっている共通の友人たちの反応は様々だった。コロナ禍だし、遠方だし、わたしは有志でお花を贈る仲間に入れてもらうことで、亡き人を偲んだ。個別にやった人もいれば、何もしなかった人もいただろう。何もしないどころか、「あの人って○○だったよね」と故人を批判するような発言をする人すらいて、衝撃を受けた。わたしはもう、この人とは友人としてつきあうことはできないな、と思った。

数年前、やはりひとり親仲間の訃報が届いた。かろうじて駆けつけることができる距離だったので、葬儀に行った。当時、わりと親しくしていた共通の友人に知らせたが、訃報を受け止めきれなかったのか、何もしなかった。一緒に泊まりがけで出掛けるような仲だったのに、訃報を知っても何もしないことに、やはり衝撃を受けた。

そのときの訃報は、わたしには本当につらいもので。いや、誰の訃報が届いても、つらいことに変わりはないのだけれど。約束をしていた某非営利団体のお手伝いを、今回は引き受けられないとお断りした。某非営利団体の代表者は、自分と同じ熱意で活動をしてくれることを期待していたのだと思うけれど、わたしにはそこまでの熱意はなかったし、それよりも友人の訃報に接して、本当にしんどかったのだ。代表者はわたしを批判した。批判されても、できないものはできない。そもそもボランティアである。タダ働きである。契約していたわけでもなければ、やらねばならない義理もない。それでもギリギリできる作業だけ、引き受けた。タダ働きなのに、引き受けた。個人でやるには多すぎる作業量だったけれど、引き受けてやった。もうほとんど押しつけられたというのに、作業を完了させても、ありがとうのひと言もなかった。そうして、その代表者は、名指しはしなかったものの、信頼していた人に裏切られたようなことをFacebookに書き綴っていた。いや、まだ友人として繋がっていて、わたしだって見る可能性があるのにだよ? あまりに理不尽な対応で、このことをキッカケに、この人との縁を切った。

感じ方は人それぞれだから、それでいいと思う。だからといって、なんでもかんでも受容することはできない。自分の中で、ちょっとこれは、と思うような人とは距離をおくようにしている。友人の訃報が届いたくらいで、別の友人と距離をおく指標になるとは、予想もしなかったけれど。年齢を重ね、訃報を受ける機会が増えるに従って、こういう機会が増えていってしまうのだろうか。そうだとしたら、こんな残念なことはない。

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