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ジャンヌ・ダルク


15世紀・百年戦争の終盤に活躍した
フランスの聖女


ジャンヌ・ダルクの名前を聞いたことがある方は多いと思います。ただ、同時に、どんな女性か詳しくはご存じでない方も多いのではないでしょうか?

今回は、このジャンヌ・ダルクについて、僭越ながら、ご説明しようと思います。

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〈目次〉
1.ジャンル・ダルクとは
2.軍を率いるまで
3.オルレアン解放~シャルル戴冠 
4.火刑に至るまで
5.死後の復権裁判

1.ジャンヌ・ダルクとは
百年戦争の末期、フランスに居て、神のお告げを受け、十代後半の少女ながら軍を率いた。フランス北部および南西部を占領していたイングランド軍と戦い、フランスを救った聖女である。

現在では、カトリックの聖人の一人にもなっている。

2.軍を率いるまで
フランスの貧しい農家の娘として生まれたジャンヌは、ある日「オルレアン(注1)を解放し、フランスを救え」という、天のお告げを聞いた。

(注1)フランスの中部に位置する都市

ジャンヌはそのお告げにしたがい、フランスの王位継承者であるシャルル王太子の元を訪ねた。

ジャンヌが王太子を訪問した際、王太子は自分の顔を見たことがないジャンヌをからかおうと思い、偽者をジャンヌのもとへ行かせた。

しかし、ジャンヌは面会したその男が偽者であることをすぐさま見破り、家来たちにまぎれて隠れていた本物の王太子を探し当てて見せたのである。

この奇跡の一件で、王太子はジャンヌのことを認め、フランスの一軍を率いさせることになった。

3.オルレアン解放~シャルル戴冠
当時のオルレアンはイングランド軍の包囲の真っ最中であり、ジャンヌ率いる軍勢はその包囲解放を目指しオルレアンに進軍した。

ジャンヌは自ら軍の戦闘に立って突撃し、兵士たちを鼓舞した。その結果、フランス軍の戦意は高まり、見事オルレアンを解放することに成功したのである。

また、ジャンヌはシャルル王太子にランスにて戴冠(注2)し、正式にフランス国王を名乗ることを提案した。

(注2)国王が即位のしるしとして王室伝来の王冠を頭にのせること。

このときのフランスには国王は不在であり、それがイングランドにつけこまれる原因のひとつにもなっていたからである。

しかし、ランス(注3)にまで至るにはイングランド軍を打倒せねばならず、その道のりは困難だった。

(注3)ノートルダム大聖堂が有名な、フランス北部のマルヌ県の郡および市。

ジャンヌは、リッシュモン大元帥の救援を受け、パテーの戦いでイングランド軍を撃破した。

これでランスへの道は開け、シャルル王太子は正式にシャルル7世として即位した。ジャンヌはお告げにあったオルレアン解放とフランスの救国という目的を達したことになる。
このときがジャンヌの絶頂期であった。
 

4.火刑に至るまで
フランス国王となったシャルル7世はこれまでの勝利を軸にしてイングランドとの和平をこころみた。

しかし、ジャンヌはそれまでと変わらずイングランド軍への攻撃を主張したため、やがて王の周辺から遠ざけられるようになった。

ジャンヌは周囲からの支援を得られぬまま戦いを続けるものの、コンピエーニュの戦いで捕らえられ、イングランド軍の捕虜となってしまった。

彼女はイングランドの手によりルーアンにて異端裁判にかけられ、火刑を宣言された。

理由は「お告げ」をしたのがキリスト教以外のものである可能性、そして男装したことである。

この裁判は当然のことながらイングランド軍の占領下で行われたものであり、その判決にはイングランド軍の影響が大きかったと思われる。

処刑にあたり、司祭が目の前に差し出した十字架に祈りを捧げながら、彼女は炎に包まれて死に至った。

火刑の後、その遺灰はセーヌ川に流された。フランスを救った少女は、哀れなかたちでこの世を去ったのである。


5.死後の復権裁判
ジャンヌの死後、フランス軍がルーアンを奪還するとそこでジャンヌの復権裁判が行われ、ジャンヌの異端判決が取り消された。

時代が流れ、ナポレオンのころになると、救国の英雄として、フランス全土で広く知られるようになった。 

6.カトリックの聖人へ
20世紀にはカトリックによりジャンヌ・ダルクが聖人として認められ、列聖(れっせい)(注4)されることになった。

(注4)キリスト教で聖人崇敬を行う教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。死後に行われる。

また、「女性ながら戦争に参加した」という事実が広く知られるようになったため、各地の闘いに参加した女性のことを「○○のジャンヌ・ダルク」と呼ばれることも多くなった。


以上

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