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水戸学について

サクッと解説いたします


水戸学は、徳川御三家の1つである水戸の徳川家から始まる学問です。水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めた日本の通史をまとめる事業である「大日本史」編纂が水戸学の始まりとなります。

また、水戸学は幕末が近づくにつれて尊王攘夷の考え方が強まった学問です。

水戸藩は徳川家のお膝元でありながら、桜田門外の変を起こした水戸浪士など、反幕府的な動きを見せるのは水戸学の影響があります。

水戸学の始まりとなった「大日本史」編纂は、水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めました。

徳川光圀は水戸黄門としても有名です。徳川光圀は中国の歴史書である「史記」を読んで感銘を受けました。この出来事が「大日本史」編纂を行うきっかけとなります。

「大日本史」は紀伝体の史書を編纂して歴史を振り返ることで、物事の善悪や行動の指針にしたいという考えがあったために編纂されたのです。儒教の教えに影響されています。

徳川光圀は、天皇と朝廷を深く尊び、兵庫県の湊川に楠木正成の碑を立てました。楠木正成は、鎌倉末期から後醍醐天皇に仕えた武士です。

水戸学は、前期水戸学後期水戸学に分かれます。前期水戸学は水戸藩二代目藩主徳川光圀が「大日本史」を編纂し始めたことから生まれた水戸学草創期のことです。
前期水戸学で尊王攘夷論の原型が作られました。

後期水戸学は、水戸藩六代目藩主徳川治保から再度「大日本史」編纂が始まったことがきっかけで始まったものです。

水戸藩九代目藩主徳川斉昭によって、尊王攘夷の考えが強まりました。強烈な尊王攘夷論を主軸に展開された水戸学が後期水戸学です。

前期水戸学では幕府のあり方を儒学の大義名分から合理的に考えようとします。つまり、尊皇論を展開しますが、江戸幕府がある意義を否定的には見ないようにしたのです。

前期水戸学は、徳川光圀が尊皇の考え方に従って、日本の過去を振り返る中で、天皇を尊ぶ考え方が生まれました。そして、儒教的な考え方から幕府をどう合理的に考えるかにスポットが当てられていました。

徳川光圀が死んだ後に「大日本史」の編纂は一時ストップしました。
しかし、六代目水戸藩主の徳川治保から活動が再開され、強い尊王攘夷の考え方を持った九代目水戸藩主徳川斉昭の頃に後期水戸学が形成されたのです。

徳川斉昭は尊王攘夷の考えで藩政改革を進めました。そのことで、幕府は徳川斉昭を藩主から降ろします。しかし、ペリー来航で徳川斉昭は幕政に関わるようになり、復権したのです。攘夷論から軍事改革を藩内で進めていきました。

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〈参考: 水戸学と明治の教育直接〉

1890年に発せられた明治の教育方針である「教育勅語」は、水戸学が大きな影響を与えたものです。

水戸学の中心用語である言葉が「教育勅語」に使用されています。その1つが「国体」です。 

「国体」とは、天皇が永久に統治権を持つという日本独自の国柄を表す言葉となっていきました。


以上

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