喜劇的人生

自殺願望があった。希死念慮と二日酔いで重たくなった、肉塊としか思えない身体。を、引きずって8:16発の電車に乗り、京王線から山手線に乗り換え、けばけばしい原宿の竹下通りで、来シーズンにはゴミとして扱われるだろう、空転する流行に基づいた空っぽの服やアクセサリー(気の抜けた布やプラスチック製品)を叩き売った。数ヶ月後にはゴミとして扱われることになるだろう、それらを売るために往復約二時間掛けて移動し、タイムセールの集客に大声を出しまくり、外国人観光客に無断で写真を撮られ、クレーマーの相手をし、ストックのある5階までの階段を一日に何度もなんども駆け上がる。金のためにゴミを売っていた。

辞めよう辞めようと思うままに数ヶ月、接客クレームを頂戴し、店を去る踏ん切りがついた。

現時点で私は二つのアルバイトを掛け持ちして生活している。私にとって大事なポイントは二つ、勤務先の近さ・接客頻度の低さだった。月に200時間弱働き、20万前後の収入。構わない。アパレル店員だった頃の給料は¥950×8h×21dで16万弱、そこから社会保険や年金が引かれ、手元には13万ほどしかなかった。電車移動の2時間には時給がつかない。それならば家の近くで2時間多く働いたほうが良い。

死にたいという感情は、いつ死んでもいいな、くらいのものに変わっていた。

言われる。
「就職する気は無いの?」
「働けない」そうとしか言えない。無駄に杉並区から出たくない。毎日電車に乗りたくない。休みは自分で決めたい。金を作るためだけの、必要のない、虚無の、見せかけの、消費を煽るだけの、そんな会社には勤めたくない。いつか潰れてどんな痕跡も残らないような会社のために、私は自分の神経や精神や肉体を擦り減らしたくない。どんな責任も持ちたくない。だって全部フェイクじゃないか。
では、あなたがやりがいを持って誰かのためになると信じられる会社に勤めれば良いではないか、という話になってくるのだが、そもそも、そんな会社に勤められるほど社会人としての体裁を保っていられる人間だったならば、くだらないと分かっていてもつまらなくても大学を辞めなかっただろうし、転々と職を変えたりもしないし、接客クレームを貰ったりもしないだろう。
単発のものも含めれば、10回は職場を変えている。とにかく耐性がない。頑張れば先のフェーズが見えてくるようなところも殆どなくて、慣れがダレを生んだ。
半年も働くと、ああすればいい、こうすればいいのにと思うことが多々出てくる。言うタイミングはない。言ってもガス抜きの共感をされて終わりだ。所詮アルバイトや新人の私に仕事なぞ求められていない。ならばいっそ労働感の強い職の方がいい。

私は、自分のキャパシティーが大体つかめている。それをどんどん拡大していくのがカッコイイことなのかもしれないけれど(可能性だとか、限界だとか)私は自分に割と満足してしまっている。たくさんのお金がなくったって、本が読めるし、文章が書けるし、映画も見られるし、酒だって飲めるし、料理もやれるし、音楽も聴けている。美術展や舞台のチケットだって買える。お金がないことを、惨めだと思ったことがない。困ったら死ねばいいだけだし、ホームレスになるとか、刑務所に入るとか、割と道はある。
結婚とか子供とか家族とか、一度は経験してみたいとは思うけれど。どのくらい自分が本気なのかわからない。そもそもみんな本気でやるものなのか?
好みの男がいるとイケるのかイケないのか考えてしまうし、本当は先のことなんてどうだっていい。というか、私は私にしかなれないし、どんな未来に行き着いても後悔することはないだろう。
そういう私を知る人は、病んでいるとか、退廃的だとか、自堕落だとか、自暴自棄だと言う。自分ではそんなつもりは微塵もないのだけれど。好きなように振舞っているだけで。したいようにしているだけで。

堕落ではない。私が行っているのは、加速なのだ。自分という存在への抵抗を辞めて、己が己であることを自認し、突き進んでいる。先ほど、私はどんな結果に行き着いても悔やむことはないと言った。その未来を早く掴みたいのかもしれない。私はどの私を当選させるのだろうかと。

私は私として生きる他はない。どんな理想も、現実の私が打ちのめしてしまった。

There is No Alternative.

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