Kureo Tajima

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2017/6/4

正しくなりたい。 常にそう思っている。 正しさって結局自分の為にしか使えないけれど、私は自分さえ正しくあれたらそれでいいと思っているので、正しくなりたい。 正しさとは一体なんぞや。 ただし−い【正しい】①まがっていない。よこしまでない。②よいものやきまりにあっている。 …なんだと。マジか。私全然正しくなりたいと思っていなかったわ。ちょっと正義のほうをひかせてください。 せい−ぎ【正義】①正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。②正しい意義または注解。③社会全体の幸福を保証す

    • 令和五年十一月三十日

      幻想も幸福も快楽も味わった。あとは思い出だけで生きてゆける。そう思った時期もあった。音楽と人と自由に塗れたライブハウスの中、孤独で誰とも友達で無かった日々を思い出せば、今はそれよりもずっと心は平坦なように思う。 ただやはり思い出だけで生きていくには若すぎて、感傷に浸って生きていくのならばザクリと死んでしまいたい。 しまいたい。死んでしまいたい。終いたい。死んで、自分を仕舞い込みたいのかもしれない。 終わりはいつでも良かった。若いうちに死にたいとは思っていなかった。ただ自分が

      • 2023/3/29

        つい昨日聞いた話。彼氏が最近ライブに遊びに行った際、飲み物に口をつけるためマスクを外したらオバサンに「あんたマスク取ったらブスね!!」と言われたらしい。そのオバサンと彼氏との関係値がどういうものか私は知る由もないが、今、とてつもない怒りがわいてきたのである。 かのオバサンに子どもがいるなら、目の前でその子どもに 「ブサイクだね。すごいブス。性格悪そう。何でこんな事言われなきゃいけないと思う?あなたの母親が心無い一言で私の彼氏を傷つけたからだよ。あなたの母親のその一言が無けれ

        • 令和五年一月五日

          明けましておめでとうございます。 ひらかれた令和五年、2023年。 実はこの私、去年のあいだずっと令和三年だと勘違いしていて、あらゆる申請書に令和三年と書いていた気がする…。そして今年は2024年だと思っていた。バグってる。 日々は幸せだし、愛おしいと思う。それでもたまに死にたいと思うのは人の性みたいなものなんだろうな。 今年の元日はとても楽しく過ごさせていただいて…。 彼の実家で美味しい手作りのおせちと、お雑煮と蟹を頂いた。にしんの昆布締めは初めて食べたけれどあまりにも

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          魂の癒え

          最近のわたしはどうにも疲れが取れず、身体もだるければ心もどっしり、どんよりしていた。何故気付かなかったのだろう。多少のつまらなさは感じていた。ただ、他人と暮らすということは少なからずそういうことだと、後ハッピーマニアでも描かれているじゃないか。自分は自分でなくなっていく。暮らしに、生活に、のまれる。 きっかけは昨日見た、ホドロフスキーのDUNEだ。ホドロフスキーの造る画を久しぶりに目の当たりにして、自分のなにかが震えた。魂のようななにか。心が癒えるのが分かった。理解を超える

          魂の癒え

          書くということ

          あの頃の自分は、書くのが好きだったのか、人に認められたくて書いていたのか、今となっては、分かりようが無い。どちらもであった、な、としか言えない。人に認められるための文章が書けないくせに、自分のことばで受け入れられたい、という依怗があった。ことばに力があると、ことばが良ければ、そこにパワーがあればいいんだと、そう思っていた。もちろん今だってことばの美しさを信じている、けれど、昔自分で言った事がよぎる。わたしのそれは、"におう文章"だった。うつくしさにはうらはらがあってはいけない

          書くということ

          春が

          春の狂気がもう和らいでいる気がする。芽吹きのエネルギーは、蠢く虫たちの希望は得体が知れない。今年は梅も張り合いなく咲いただろうね。 カタイ冬になる、と言われていたけれど、私自身はそうは思っていなかった。あの夏の長びきかた、下手な幕引きからして、きちんと冬が立ち上がれるわけがないと思った。その通りだった。地球は変わってきているのかな、とも思う。たんなる気紛れやもしれぬけれど。 そうとは言っても、今年の冬のあいだだって気分は落ちた。まだ見ぬ人生を恨んだ。フィンランドの冬はマイナ

          魂は大樹の如く

          思い出も朽ち、感情も果て、命の泉は枯れ、ただし肉体は未だ抗い、欲の醜く染まっていくこと、さて、耐え往けるだろうか?過去が身辺を舞いつづけ、未来が絶え間なく我が身を睨んでいる、魂を研磨することを怠け、だらけた身体と性では、細胞を浪費する以上の生は有り得ない。衆生を羨み、隠居したいと願う、遠く離れて、たったひとりになりたいと。 失ってしまった言葉たちを、見捨てるように使わなかった言葉たちを、取り戻したいと思うのはとても愚かで、まさに浅はかで、そして言葉は、かの如く従順ではない。

          魂は大樹の如く

          TOKYO2020

          ちょっぴり虚しいなと思う時、いつでもわたしはご満悦なところがある。 そんな人間だから。それこそが自分らしいような気がして。 思考がふんわりして何にも制限されない自分がにょきにょき。いくらでも悲しくなったり楽しくなったりしていい。 自由は、空と同じように、表情を変える。それは美しくも虚ろだ。 虚ろだと感じるのは、それらが自然のままだから、何も残さないから。そして自分がその対極に位置するから。わたしは人工物なのだなと気付く。なにかしらカタチでありたい。意味がほしい。情けない。 東

          2019

          2000年生まれが来年にはハタチだってさ。時の流れって早いもんで。 2019年が終わろうとしている。どこか駆け足な生き急いだ雰囲気が漂う12月のカレンダー。 私はもう一年を振り返らない。全ては終わったこと、過ぎ去った、形を変えた。いつしか過去に想いを馳せたりしなくなった。懐かしくなくなってしまった。紙吹雪みたいに散り散りになってばら撒かれて飛んで行ってしまう。時間なんてものはない、というのは私が常に言っていることで。芽吹き花が咲き実り枯れるのは時間のせいじゃなくて全て生命の

          令和元年七月二十二日

          ケータイ(スマホ)でnote書くのってなんだか慣れないし違和感あるな、しかも別段書きたいことがあるわけでもないんだけど。 じゃあなんで書くねんってことになるんだけれど、これはいわゆる投薬や治療のようなものだから、書くことそれ自体が大事なのだ。 たぶん、写真でも絵でも音楽でも彫刻でも、ただ手をつけてみる、目的や着地点のなきままに、つらつらと、赴くままに、ってことは意外と大事なんじゃないかなとか、なんで大事なのかはちょっと今は思考力が落ちていて考えられないのだけれど。 そういう

          令和元年七月二十二日

          令和元年七月十八日

          自分をマトモにしていたのは結局、制約だったのだなと思う。 わたしに自由は扱いきれない。 だるい。 バイトを休んだ。シフトを勘違いしていたせいだ。電話が掛かってきて、ああ、またやってしまったなと思う。今年に入って2回…いや3回目だろうか。あのシフト表はとにかく見辛い。人数が30人以上もいると仕方ないのだろうか…。とは言え、シフト違いで休むのは大抵わたしだけなので、他の人間にとっては別段不具合はないらしい。見づらくないのかな。 まあ、どうしても行く気になれなくて、予定を入れてし

          令和元年七月十八日

          喜劇的人生

          自殺願望があった。希死念慮と二日酔いで重たくなった、肉塊としか思えない身体。を、引きずって8:16発の電車に乗り、京王線から山手線に乗り換え、けばけばしい原宿の竹下通りで、来シーズンにはゴミとして扱われるだろう、空転する流行に基づいた空っぽの服やアクセサリー(気の抜けた布やプラスチック製品)を叩き売った。数ヶ月後にはゴミとして扱われることになるだろう、それらを売るために往復約二時間掛けて移動し、タイムセールの集客に大声を出しまくり、外国人観光客に無断で写真を撮られ、クレーマー

          喜劇的人生

          火を弾き消すたびに

           なぜぼくたち社会は相対的な幸不幸を生み出そうとするのか?人間をより欲深い方向へ陥れようとするのか?カネが欲しいからか?地位が欲しいからか?羨ましがられたいからか?生み出す、と言うよりそれは演出に近い。本当はみんな、どうだっていいと感じているはずなのに。そんなことに本質のかけらもないことを知っているのに。  クリスマスは顕著で、その日過ごす相手が居ないだけで、"虚しい"とか"さみしい"と人に言わせるようになっている。『ケーキ・チキン・プレゼント』セット。そのセットが手に入らな

          火を弾き消すたびに

          どこにも行けない

          ふと、鏡に映った自分の顔を覗き込んで、26歳かあ、と呟いた、呟かざるを得なかった。 久し振りに会う人が言う、今なにしてるの?、なにしてる?ここにいる、生きている、あなたと喋っている、それじゃだめなんだろうなということはわかる。 再会でも初対面でも、今はなにしてるの?と聞かれるとむず痒い。何もしてないと答える。常に自嘲して、26歳独身彼氏なしフリーター女、と付け加える。 勝手にラベリングしてくれてかまわない。あきれるくらいに健康な言葉たちは、わたしには凡庸で退屈だ。 わたしは一

          どこにも行けない

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          昔から忖度する人間だった。こどもの頃から。 期待に応えたかったし、必要とされたかったし、裏切られたくなかったから。 小さい頃から本だけは読んでいた気がする。暗いところで本を読むから目が悪くなったんだと小学一年生の頃に言われた。 5、6歳の頃は決まった日にくる移動図書館が楽しみで、あれはいわゆるワゴン車だったのだろうか、見開きページみたいにぱかっとひろがるあの車には、たくさんの童話や神話や冒険、知識が詰まっていた。絵本をトレースして幼稚園で紙芝居として披露したこともあったっけ。

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