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父にとってのウィーンフィル

先日、ウィーン・リング・アンサンブル のニューイヤーコンサートに行ってきました。
ウィーンフィルの腕利きメンバーで構成されているアンサンブルで、元旦のニューイヤーコンサートを終えてすぐ来日。ツアーをしてくれます。
過去何度か聴いて感動し、今回もチケットを取りました。

極上のコンサート


メンバーは9名。
元ウィーンフィルのコンマスだったライナー・キュッヒルさんを初めとし、最初の一音から素晴らしい!上手~!
↓↓↓のプログラムに加え、アンコールの「トリッチポルカ」「ラデツキー行進曲」「美しき青きドナウ」と、極上の音色に包まれた2時間半でした。

「ウィーンフィルの美しき青きドナウは違うんだぞ」


ウィーンフィルのニューイヤーコンサートがTVで生中継されるようになったのはいつ頃からだったろうか。Wikipediaによると、1959年TV中継されるようになり、NHKでは1973年が録画放送で始まり、1991年から全編生放送となったようだ。

子供の頃から「お正月=ウィーンフィル」という記憶があるので、恐らく最初から家ではニューイヤーコンサートの番組が流れていたと思う。
何度も父に言われたのが、
「ウィーンフィルの『美しき青きドナウ』は他とは違うんだぞ」
という言葉。

美しき青きドナウの、前奏が終わってメインに入る際の、最初の「ズンチャッチャ」のコンマ何秒かの微妙なニュアンスはウィーンフィルでしか出せない、というのが父の持論。

確かに、その後様々なオケの演奏を聴いているが、本当に微妙な違いがある。ウィーンフィルの「美しき青きドナウ」が一番好きだ。

我が家のお正月は必ずウィーンフィル。
元旦の夜というのは、大体すき焼き。成人になってからはアルコールも入り、グデーとしている。本編の時間はしゃべっていたり、うたた寝していたり・・・アンコールの「美しき青きドナウ」の前奏が始まると目がパチッと覚めてTVの前で観る。

あー、なんて美しいんだろう・・・

と感激して元旦が終わる。
父はというと、もともと感情を表すことがない人で、タバコを吸いながらただ観ている。
そんな状況だった。

父はクラシックが好きだったのか?

物心ついた頃からクラシックのレコードは家に何枚もあり、時々耳にしていた。
戦後、合唱サークルに入った関係でレコードを買っていたらしい。

父がレコードを聴いて記憶はほとんどない。
しかし、その影響で私も音楽好きになり、幼稚園でのオルガン教室を経てピアノを習うようになったので、多分何か聴いていたのだろう。

小学生の時のクリスマスプレゼントは、ピアノ曲のレコード。25日の朝に枕元に望んだレコードが届いていた時の喜びといったら!

その後は、お小遣いで自分で好きなレコードを買うようになった。
好きで何度も何度も聴いたのは、ラフマニノフのピアノコンチェルト第二番。これは成人するまで続いた。

父はというと、特にクラシックを聴いていた記憶はない。
ある時はABBAに夢中になり、帰宅すると、すぐにレコードかカセットテープをかけ、家中にあの独特なリズムが響き渡る。
ABBAは素敵なミュージシャンだし、美しい曲も多いのだけど、あまりに毎日聴かされるとうんざり・・・。で、家族皆、ABBAが嫌いになった。

時代が変わり、音楽会に行きやすくなり、私や母が音楽会、オペラ、バレエに出掛けても、全く興味を示さない父。
クラシックが好きだったのかどうかは謎だ。

ウィーンフィルと父の人生


2018年の元旦。
私達はニューイヤーコンサートを観ていた。
90歳になった父は認知症を発症し、身体も弱ってベッドで寝ていることが多くなっていた。
しかし、その日は体調がよかったのか、ベッドサイドの椅子に腰掛け一緒に画面を眺めていた。

すると、語り出したのが、ウィーンフィルが初めて来日した時のこと。

調べてみると、それは1956年のこと。
父はまだ結婚する前。
日比谷公会堂に聴きに行ったらしい。
指揮の様子や演奏のこと。どれだけ素晴らしいものだったかと。
それまで見たこともないような豊かな表情で生き生きと。余程印象に残っていたのだろう。

母も私もそんな話は聴いたことがなかったので驚いた。
認知症は、直近の記憶はとどまりにくいが、過去の記憶はしっかりしている。まさにそんな状況だった。

1956年といえば、「もはや戦後ではない」という言葉のように、辛かった戦争が終わり、日本全体が上を向いていて、父自身も将来に希望を持っていたのではないだろう。ウィーンフィルとワクワクする人生が重なっていたと想像できる。

実は、父は口数が少なく、私はまとまった話をじっくりした記憶がない。
しかし、このときは、「どんな演奏だったの?」「曲は?」などと問いかけると、鮮明に答える。本当に嬉しそうに、たくさん話をしてくれた。
認知症になると、こうして話してくれるんだ。
ちょっと嬉しかった。

しかし、これは最初で最後の出来事だった。

最期がウィーンフィル話になった

そんな状況を見て、まだ長生きするだろうと思っていた家族だったが、急に体力が衰えて入院。
それでも、また退院することになるだろうと思い込んでいた。
なので、家での介護が難しくなってきていたため、老人介護施設入所の手続きを進めていた。

しかし、体力的に限界だったのだろう。
入所の手続きのアポを取っていた日の朝、亡くなってしまった。
死因は老衰。年齢的に大往生。

もちろん、もっと話したいことはいっぱいあったし、もっと生きていてほしかった。
しかし、寿命には限りがある。

父との最期の思い出がウィーンフィル話・・・・結構気に入っている。

父も人生で楽しく輝いていた時期のことをちゃんと思い出してから、人生を終え、きっと幸せだったんじゃないかしら。

先日のウィーン・リング・アンサンブルのコンサート。
お父さん、聴いてたかな?














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