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第1期(初参戦までの道のり)

当時のHONDAは2輪メーカーとして名を轟かせており、4輪メーカーとしては無名であった。
実際に販売した4輪は軽トラックと小型スポーツカーのみで、HONDA創業者である本田宗一郎は夢であった「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった」を叶えるべく4輪レース未経験ながら自動車レースの最高峰F1へ挑戦を決定した。

とは言ったものの、2輪メーカーとして有名であるホンダの技術者はほとんどがF1知識もない。そんな中、F1コンストラクターズを連覇したクーパークライマックスを手に入れ、そのマシンを参考にし1962年からRA270(プロトタイプ)の製作が開始。

翌年1963年には性能テストが行われ、210馬力を記録。2輪・4輪の市販車開発も怠ることができない状況であった為、本田宗一郎と元航空機エンジニアである中村良夫(後の初代F1チーム監督)はエンジンサプライヤー(エンジン供給者)としてF1に参戦することを決定する。

中村はHONDA製エンジンを売り込む為、渡英しブラバムへと供給することとなった。
供給するマシンが決まり、ブラバムのシャーシ用にエンジンを設計している中、
ロータスのコーリン・チャップマンがホンダ本社を訪れて「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にHONDAエンジンを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と交渉を持ちかけてきたのだ。

ロータス・25とは1962年〜1965年まで使用されF1で14勝を上げ、1963年にはジム・クラークが10戦中7勝を上げダブルタイトルを獲得したマシンであった。チャップマンはこのロータス・25をデザインした人物である。

ロータス・25
http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51417893.html

HONDAにとってはこの上ない話だったに違いない。その後はロータス・25に合わせたエンジン開発にシフトした。

しかし、1964年F1開幕まで3ヶ月を切った2月ごろにチャップマンから「ホンダエンジンは使用できなくなった」との連絡があった。
二つのマシンに異なるエンジンを搭載することは現実的に無理だったのか、はたまたホンダエンジンはV12気筒であり扱いに対して不安があったのか、わからないがロータス・25にHONDA製エンジンが搭載されることは無かった。(ロータス・25はV8エンジン)

開幕まで時間が少ないため、コンストラクター(建造者)を探す時間も無く、当時のサプライヤーとして参戦ではなく、コンストラクターとして参戦に変更された。
プロトタイプであるRA270を参考に次期テスト車両であったRA271が実戦用として使用されるため設計が急ピッチで行われた。
ライバルとは違い1.5LながらV12エンジンを横置きに搭載するため、モノコックに直接、機能部品であるエンジンをマウントし構造部品として使用するストレスメンバー化を採用したマシンであり、1万2000回転・220馬力を記録。10〜20馬力程度ライバル勢を上回っていた。数字上ではかなり期待値の高いマシンとなった。

RA271
https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1964/01/


ここまでがHONDAがF1に参戦するまでの歴史。ロータスに搭載されなかったことは非常に残念でしたが、日本をイメージしてあるカラーリングはとても魅力的。次回はF1参戦したHONDAを紹介していきます。それではまた✋


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