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自分を「語る」のではなく、「語られる」存在になる

自己紹介に代わる「他者紹介」

10年くらい前のこと。20人くらいのセミナーに参加したら近くの3人でグループを組まされ、そこでお互いの自己紹介をするようにと。グループ内での自己紹介が終わると、今度は、そこで聞いた他人の話をみんなの前で披露するように言われた。つまり自己紹介ならぬ「他者紹介」である。

これがとても気持ちよかった。なんせ、自分のことを他の人がみんなの前で披露してくれるのだ。そこには初対面の人ということもあり、話も盛ってくれるので、こちらとしては王様気分である。自分のことだけでなく、人の紹介も面白かった。担当した人は、あたかも紹介するその人がいかに素晴らしいかを喜々と語る。そこには、「この人の良さを紹介しなければ」という使命感のようなものも漂う。なので、そこにいるどの人も魅力的に思えてくるのだ。自己紹介だと、自分の自慢話をする人がいたり、逆に自分を控え目にいう人がいたりと、情報量のばらつきが大きくなる。時間も大幅にオーバーする人も出やすいが、他者紹介では比較的、みんな時間も守る。その場に規律もできるし、かつそれぞれの人が生き生きと、その場で過ごせる雰囲気ができあがるのだ。

以来、僕がセミナーの主催者に回ると、この他者紹介を取り入れるようになった。自分で何度かやってみると、これは相当パワフルな仕掛けではないかと思うようになった。

まず、紹介された人と紹介した人の間には、明確に繋がりが生まれる。おそらく、その後SNSでもつながるだろう。それほど、お互いに親近感を感じるのだ。紹介された人は、大いに自分をみんなの前で語ってくれたことで相手に好意が生まれる。紹介した人も、その人を自分の言葉で語ったことによって、その人への愛着が生まれるようだ。

同時に、その場に他者へのリスペクトが増えることだ。参加者の中には、その場で自分の存在をどうアピールするかを考えがちかもしれないが、この他者紹介は、その出鼻をくじく。そして「自分はどう見られるか」という意識が少なくなり、代わりに立ち上がるのが「他の人はどうか」という意識である。つまり、その場にいる人の関心が、自分から他者へと移る。この他者への関心が溢れると、自ずと調和が生まれ、セミナー参加者という個の存在の集まりを一つのコミュニティに変える力となるのだ。

人は、「聞く」よりも「語る」方が好き

人は基本的に、自分で語ることが好きだと思う。出版社などに勤めていると、「本を書きたい」という人が実に多く連絡してくる。ご存知のように読書する人は減り続け、出版業界も右肩下がりでありながらも、「書きたい人」は少なくない。ひょっとすると、本を読みたい人より書きたい人の方が多いのではないか、と思うほどだ。

気のおけない人を思い浮かべてみてほしい。その人に会いたいと思うのは、その人の話を聞きたい時だろうか。それとも自分が話したい時だろうか。多くの場合は、圧倒的に後者ではないだろうか。人と会いたいのは、聞きたいからではなく、語りたいからではないか。なので、自分の話を聞いてくれる人はどこでも大人気である。世界は、「聞く」よりも「語る」需要の方が多く、「聞く」を供給できる人には希少価値がつく。

セミナーでもそうだ。講師を招聘して、その人の話を聞くという建て付けであっても、僕の経験では、参加者に発言の機会を増やせば増やすほど、参加後の満足度が高くある傾向にある。「聞く」を目的に集まった場でさえ、「話す」ことが満足につながるのだ。

前回のブログで、「自分を語っても届かない」という話を書いた。とはいえ、誰しも自分で語りたいものである。僕自身、自分の語りをちょいちょいと挟みながらこのブログを書いている。仕事でもプライベートでも、自分を知ってもらうことが、多くの人とつながる機会を増やすことになる。自分で語っても効果がないと言われても自分を知ってもらいたい。では、どうするか。

老舗ラーメン屋さんに学ぼう

自分を語るのではなく、語られることを目指すことである。

ロールモデルは、老舗のラーメン屋さんだ。

東京・渋谷に老舗のラーメン屋さんがある。昭和27年創業だそうだが、いまだ人気店でランチタイムは行列ができることもしばしばだ。僕も30年以上通い続けている。メディアで紹介されることもたまにあるし、レストランの紹介サイトでも、いろんな人がいろんな感想を書いている。ネットでお店の名前を検索してみると、僕と同じようにその店のファンの人が、そのラーメンへの「愛」を語っている。

一方で、その店自体は、ホームページも持っていないし、Twitter(X)もfacebookもインスタグラムもやっていない(もちろん、noteもやっていない)。つまり、自分たちでは何も発信していないのだ。ネットに溢れるその店の情報は、ほぼ全て、その店で食べた人によるものなのである。

この老舗のお店は自分で語ることなく、多くの人が語ることで、世の中に多くの情報があふれている。これは情報の量だけの問題ではない。お店が「おいしいですよ」を100回言っても、食べた人の「美味しかった!」1回に敵わないだろう。語られることは、それほどパワフルだ。

半径5メートルの人を大切にする

では、どうやって自ら語るのではなく、語ってもらうようになるか。即効性はなく、あまりにもオーソドックスなのだが、自分の半径5メートルの人を大切にすることである。

美味しいラーメンを提供したら、「美味しかった」と語ってくれるように、周囲の人を大切に扱い、お釣りがあるくらい満足させることである。自分の強みが優しさなら、そんなことを自分で語らなくていい。周囲の人に優しく振る舞う姿は、多くの人に晒されている。自分の強みが辛抱強さなら、辛抱強いあなたの姿は、半径5メートルの人にしっかりと晒されているのだ。相手に伝わらない自分の姿は、それを自分で語ることで、さらにチグハグなことになる。実態として伝わらないものは、そもそもその程度なのかもしれない。あまり人前で晒す機会のないあなたの強みは、それが晒された暁には、周囲に強烈なインパクトを残すことになる。なので、焦らなくていい。その時はいずれ必ず来るのだ。

周囲の人だけの評価だけではなく、さらに多くの人に広く知ってもらいたいと思うかもしれない。企業や組織の「広報」という言葉にも、しっかり「広く」という意味が込められている。

書籍のプロモーションの際には、「地上戦」「空中戦」という言い方が使われることがある。地上戦は、地道に著者と読者の接点を増やしたり、リアルの書店などの場を販促として活用するものだ。一方の空中戦は、既存のメディアやネットメディアを活用し、広く多くの人にその本や著者の存在を伝えようとするものだ。

SNSなどネットの力が増す中で、この空中戦の仕掛け方が増えてきたのは確かだ。だから、いろんな情報が空中を行き交うのだが、このネットで広まる力を信じるならば、地に足のついた実績こそ、最も遠くへ広まる種となる。あなたの強みは周囲の人にしか伝わらないのかもしれないが、その周囲の人に確信をもって伝わるのであれば、その種はきっと遠くに届く力がある。半径5メートルの人を大切にするということは、このことである。自分のことをしっかりと理解してくれる人が数人でもいれば、その人を通して、あなたという存在は、きっと広まるはずである。それは、あなたが語ることよりもはるかにパワフルな方法である。

そして、周囲の人を大切にすることの際たる実践は、周囲の人への関心を示すことである。大切にするというのは、あなたに関心をもってもらうことではない。むしろ、あなたが周囲の人に関心をもって、よく見ることである。誰しも、自分に関心があるので、自分に関心を寄せてくれる相手に好意を抱く。僕も、自分に興味を持ってくれる人と一緒に過ごす時間は楽しい。

多くの人が自分への関心を欲しているのなら、それを満たしてくれる人の価値は計り知れない。周囲の人を大切にするの一番目一丁地は、「関心を向ける」ことである。同時に、そんな人に周囲の関心が集まるのは自然な流れである。そんな、半径5メートルの人を大切に扱う人が、結局は「語られる人」になるのだ。

先日、あるライターの方に初めてお会いした。このライターさんのことは知り合いの何人もの編集者から散々話を聞いていたので、初対面なのに、古くからの信頼できる知人かのように感じた。この方は、自己紹介などしないし、ご自身のことも語らない。でも「語られた」総量で、この人の存在は十二分に知れ渡っているのだ。きっと、それぞれの仕事で一緒になる人を大切に接してきただけなのであろう。ご本人の人となりが、その人を超えて溢れているのだ。

居酒屋での会話では人の噂に溢れているが、そこは陰口だけではない。「こんな面白い人がいて、、」と語られている人も無数に登場する。自分を語らないでも「語られる人」はたくさんいるし、語られる人なれば、自分を語る必要はなくなるのだ。

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