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日記 もう一度触れ、事を正そう

・今日少し久しぶりの散歩に出掛けることにした。
散歩先で40代の友人に会ったので、一緒に歩いていた。
彼は最近私の体調がだいぶ悪いことを知っているはずなのだけれども、そのことに関して一切触れず、ただ聖書の話をしながら歩いた。(彼と友達になったのも聖書がきっかけだった)
なぜラザロの姉妹マリアはイエスがこれから処刑されるという事を理解していなかったはずなのに、イエスが処刑される直前に300デナリ(1デナリが一日分の賃金に相当するので、1年間の賃金に相当する値段)の香油をイエスの頭と足に注いだのか、という事が主な話題だった。
 
ラザロは西暦32年11月後半から33年3月頃の間に一度死んでおり、イエスに復活させられたという出来事があり、マリアがイエスに香油を注いだのは33年3月頃の出来事。
なのでこの二つの出来事の間は数週間~3か月間ほどであることが分かる。
そしてマリアがイエスに香油を注いでからわずか5日後にイエスは杭にかけられて処刑される。
そのことを理解していなかったはずなのに、なぜここまでベストタイミングでこんなことが出来るのだろうか。
きっとマリアは、イエスが昇天した後もずっと、兄のラザロを復活させてくれたことをイエスに感謝し、イエスに香油を注げたことを心から嬉しく思っていたことだろう。
彼と二人で、マリアの感謝の深さを考えながら会話と歩みを進めていった。
 
 
ここ最近は生きる方法と死ぬ理由についてばかり考えていて、私と最も会話している存在である母とも、ついついその話題ばかりしてしまっていた。
だからといって、友人とする世間話が楽しめていたわけでもなかった。

私は、本の話がしたかったのだなと気が付いた。
私は、神のことを考えたかったのだなと気が付いた。
若草物語でベスが病気になって死ぬ前に、「死」について誰かと話したいのに、誰もそのことを話してくれないというシーンがある。(うろ覚え)
生と死について気が付いたら話している私は、ベスとは逆に生や死とは離れた、それでも自分自身の核となる考えを話したり考えたりする時間が必要だったのかもしれないと思った。
 
それでも、本を読んだり、難しいことを考えたり話したりすることは元気な時しかできない。
それでも、今の自分の核を形成している過去に読んだり観たりしたものをもう一度考えてみる、話してみるのは自分を満たすことにつながると思う。
もう一度、自分が好きな作品に少しだけでも触れてみるのは良いかもしれない。一度楽しんだ作品を再度楽しむのは、新しいものに触れるよりもずっとストレスが少ない。
もう一度、好きなものについて考え、語ろう。
もう一度、好きなものに触れ、事を正そう。

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