希望と共に穏やかに過ごす

尊敬する友人の昨日のnoteで、「いま、ここを丁寧に生きる」という記事があって、その内容に触発されて、このテーマで書いている。

大学時代、大学院時代、そして現在の社会人時代でも、僕の一日の始まりは大体決まってる。

朝イチでシャワーを浴びて目を覚ました後、僕は大体20分くらい散歩をする。場所はどこでもいいのだけど、基本的に自然があって静かなところを散歩している。誰もいない時間のゆっくりとした空気感が好きだ。

その時間は、なぜか感謝の気持ちに満ち易い。神様や地球、自然、周りの人たちへの感謝を心の中で感じ、伝えながら、生かされていることに感謝する。そして、途中で缶コーヒーをかったり、公園の猫を横目に癒されながら、今日はどんな一日になるだろうかを想像して、気持ちを整える。

散歩の時間は、祈りの時間でもある。心にある不安や懸念を心の中で言葉にしながら、そのことが解消されるように、神様の采配によって整えられるように祈る。人が完全に物事をコントロールすることなんてできないのだから、ある種の諦めと委ねる気持ちで祈りを告げる。

そうすることで、解決はしていないけど、自分の中である程度完了した気持ちになれる。あとは、人事を尽くし天命に従うだけだ。

最近は、瞑想の効果が証明されてきており、人間の発達段階で自己超越にあるリーダーには、瞑想を通じて到達することができるという人もいるけど、僕は瞑想の代わりにお祈りをする。

自己超越の感覚はまだわからないのだけど、自分はなんでもできるという感覚を手放し、何もできないけども生かされているという感覚に近いのかなと思う。

まぁ、それが僕の毎朝のルーティンである。withコロナの時代には、人の心も揺れ動かされている。普段言わないことを人に言ってしまう人や、この時代だからこそエネルギッシュに活動する人もいる。激動の時代には、人はより大きく善にも悪にも傾く。ただ僕は、ニュートラルな状態では、人は善に近づくと信じたいし、良心に従うことは可能だと思いたい。

常に自分の中の悪を完璧に取り払うことなんて誰にもできないけど、毎日を穏やかに過ごす中で、整えていけるものだと信じている。

日々のルーティンの中で希望を持ちながら、人生から受け取っているものを丁寧に眺める。

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