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「育て方」ということについて

燕の巣作りの季節が到来し、我が家にも彼らの住処が作られた。
今年やって来た燕は、巣作りの初心者というか、不慣れな様で、いつもより整わない形の巣が出来上がっていた。
肉食の鳥や蛇に襲われたらしく、卵のかけらやら巣から落とされたヒナが地面にみられた事もあった。

義理の父が「未熟で下手なんだなぁ。子どもを上手く育てられないんだろう」

…とぼそっと言った。

私は複雑な気持ちになり、燕の姿に自分を重ねた。

しかし、過酷な自然界で逞しく生きて子育てをする彼らと同じ土俵に上がる事自体がおこがましい気がした。敬意を感じた。

「親の育て方が悪いからだ…」

そんな事を平気で言う人がいるが、自分が良い子育てをしている自信なんてものがあるのだろうか。 

少なくとも私は無い。
毎日が試行錯誤である。

「頭が良くなる子どもの育て方」とか「天才になる子育て」とか「子どもの行動が変わる魔法」とか色んな書籍を目にする。

少し前の私は、発達学、発達心理学について書かれた論文や参考書を読んでいたから、興味がなかった訳では無いのだが、積極的に読んだ事はない。

人間の発達について学びを続けていた頃、中途半端な知識は、時に偏りのある価値観と混乱を生むことを感じていた。学べば学ぶほど、答えがない事に気づいた。

そして、本やインターネットと向き合うより、子どものそのままを受け止めて、私の飾らないそのままを子どもにも受け止めてもらうしかない…という結論に至った。

非常に曖昧で混沌としているのが世の中。この先何が起こるかわからない。

親も子もお互い未熟者同士だ。助け合いながら一緒に成長していくしかないのだ。

祖父が良く、「人間が一生に学べる事は牛毛1毛程だ。」と言っていた事がある。
「学者は牛毛(ぎゅうもう)の如(ごと)きも、成る者は麟角(りんかく)の如し。」
という、古代中国の古事成語を祖父が分かりやすく伝えてくれた言葉だろう。

成し遂げる人は極わずか。それには努力だけでは到達できない事がある。

知識だけではない。

心と体のバランスが崩れて、精神だけが暴れ出す事が訪れないとは限らない。

もしかしから、暴力を振るうかもしれないし、ネグレクトをするかもしれない、不倫をして子育てを放棄するかもしれない。

常に綱渡りの様な状態でありながら、あたかも平然を装って、なんとか生活しているように思う。

その綱をスムーズに進むものもいれば、グラグラと揺れながらやっとのもの、止まって進めないもの、諦めるもの、落ちてしまうもの…
そんな際どい所をなんとか工夫したり、耐えたり、隠したり、逃げたり、もしくは楽しんだりしながら必死で進んでいく。

子育てとは何だろう。

歪な形の巣であろうと、そこにその巣を作り上げ、卵を産み落とし、雛が生まれれば餌を必死に運び、天敵からその命を守ろうするも雛を食べられてしまう燕…。

しかし、私は下手な子育てとは全く思わない。尊く、逞しく、懸命で美しいと思う。

だから…
どんな子育てであれ、「命を育む」それだけで素晴らしいのだと思う。

「ねえ、ママ。明日お休み?」
「そう。お休みだよ。」
その柔らかい頬に自分の頬を擦りながら歩く帰り道。「ああ、私は母なのだなぁ」なんて思いながら。

こんな頼りなく朧げな私でも子どもにとっては母なのだ。それは紛れもない事実なのだ。









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