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アラン・エプスの教育学

「子供は自分で道を選ぶ。
親の思い通りには出来ない。
価値や常識を教え、人間形成を手助けし、
あとは見守るだけだ。
本人の行く道を信じるしかない」

私がこの言葉を聞いた時、それこそが
正しい教育学だと思った。

そう思ったのには理由がある。
私は正反対に近い教育学の元、
父母に育てられたからだ。
弟は1人いるが、子供の頃から特筆した絵の
才能があったが、親が全てを決めていたので、
辞める事になったが、想像力と創造性に富んだ
絵が描けるものだった。

私の親はハッキリ言って親としては最低の人間だ。
親としても最低であるし、人間としてはもっと最低な
人間である。

個人個人の考えがある事は確かであり、それは個人が
決める事であって、他がどう言ったとしても決めるのは
自分である。

私は一族の素顔を一番見て来た。
誰一人として、自分を自分自身で育てた訳では無く、
親の言う通りに育てられた。

私はそれは間違いだと言えるようになったが、
誰一人として耳を貸す人はいなかった。
逆に考えられない人間として私は見られ続けて
きた事は知ってはいたが、代々に渡り、
一族の思想が続くと言われているのは、だいたい
3代目までで、4代目になる頃には財も失い、
思想も変わり過ぎるため、そのように世間では
一般論として言われ続けてきた。

私は例え寿命が尽き、この世から去った人が
残した言葉に対して、守ると決めている。
しかし、そう思うのは私だけであった。

人は元気な年齢の時は平然と、死に別れた相手が親
であっても、死んだ後にそれを守ろうとはしない。
現実的な思想と言えばそうなるが、現実はそう甘く無い。

人は人を見る。相手が約束を守る人間なのか?
信用できるのか? 等の事に関しては大抵の人は肩書に
よって信じる傾向が強い。

しかし、それは間違いである。
肩書はあくまでも肩書でしかない。
どんな仕事をしていても、その人が信用できるか
どうかは全く別となる。

投資家などは一般的な人と言える。
人のお金で投資をして、利益が出れば自らも儲かる。
しかし、失敗しても投資家には特に問題はない。
投資家に投資した人が財を失うだけであって、
口先だけでは何とでも言える。

誰もが楽をしてお金を増やそうとしているが、
そこに意味はあるのだろうか?
大抵の人は、老後の為にするのだろうが、
老後にお金だけあって、その人生に対して
一体どう考えているのであろうか?

生きているだけで目的も何も無い生活では、
何のために生きてるのか考えるのが、
私的には普通だと思っている。

実際、何の取り得もないような人に、よき友人は
最後まで残る事は無い。更に良い知り合いが出来れば
そっちの方に行くのが普通の行動だと言える。

大切なのは目的地ではなく、旅の過程にあるのでは
ないのだろうか?

例えば宇宙に関して95%は観測出来ないからといって、
形あるものは存在しないと思われることがある。

人間は得てして、よくも知らないだけなのに、
❝知り得ない❞と何も行動せず、すぐに白旗を上げる。

ガンジーもこのような言葉を伝えていた。

明日、死ぬ覚悟で生き―――永遠に生きる覚悟で学べ

よく考えれば分かるはずなのに、よく考えないから
詐欺が成立する。
楽して儲かるというのは理論的に問題となるものである。
確かに運よく儲かる事もあるだろうが、当たるよりも
外れる方が高いから投資を仕事とする会社は大きな
ものとなっている。

会社を大きくしたのは、あくまでも儲けた人のお金の%
で稼いだものであって、損をした人に対して謝罪するだけ
で済むというのは、私からすれば、それで本当にいいのか?
と思わせるものである。

ファイドロスの言葉にもこうある。

最初の見かけで多くの者が惑わされる。
少数の知恵ある者が真実に気づく

要するにそういうことだ。
見かけとはつまりは説得力のある言葉を知っていて、
いかにも仕事が出来そうな恰好をしていれば、
多くの人を騙すのは簡単な事だと言える。

逆に言葉を多く知る者は、相手はうわべだけの人間で
あり、信用に値しない事を知ることが出来る。

この言葉にはそういう意味が含まれているが、
毎年、大勢の人が騙されているのが現実である。

しかし、それをすぐに嘘だと見破るには知識が無ければ
難しい。誰もが初めて聞くような言葉を耳にすれば、
相手に対して、信頼感が生まれるからだ。

私はまあ自分でも何とも言えない人生だった。
簡単に言えば第一話の半生と、第二話の半生に別れる。
第一話で多くの事を知る事になった。
そして正しいと思う事を発言した。

これは理解することは難しいものだと言える。
実際に現実を暴露しているのは私の知る限りでは
私しかいない。

第二の半生では私として生きると決めたからだ。

第一の半生では私は私では無い私として生きていた。
これは特別珍しい事では無く、普通に近いものである。
そしてそのまま第一の人生の続きを死ぬまで歩いていく。

誰かに生かされている人生は実に虚しいものである。
しかし、それをいつしか普通の事だと思ってしまうのが
実に恐ろしいものだと言える。

すり込みのように、それが正しい答えだと信じ込ませる。
だがやっと3代目のボスであった私の父は死んだ。

今考えても、実に恐ろしい人だった。
全ては誰かにやらせるという世界で生きてきたため、
それが普通だとなっていて、私に対して弟を殺す話を
してきた時は特に異常性を感じた。

理由は当たり前のように話してきたからだった。
弟は父母のせいで狂人のようなものへとなっていたが、
それを治そうともせず、言うことを聞かないと強制入院
させられていた。たったの数日で戻ってくる事もあったが、
そもそも治すには時間と一人で考える時間が必要なのに
対して、言う事を聞くようになれば出すといった行動を
するため、当然ながら嘘ではあるが大人しくなった芝居を
して出て来ていた。

全ては考える事の無い人生を送ってきたからそうなったの
だと、私は結論付けた。父は本当に殺すつもりでいた。
だが、私は治す事を勧めた。そういう私に対して、
父の目は明らかに何かを思った目をしていた。

父は生前、言っていた事があった。
それはお参りに来てほしいと言っていた。

そして父を崇拝していた東京の叔父は、実母の私から見ると
祖母に当たる人が生前に色々な問題に対して対応するよう
伝えて亡くなった。

叔父は全てを無視して、死人に口なしという行動に出た。

私はこの二人を見て思った。
お墓参りに来てほしいのであれば、そういう人生を送る
べきであって、悪意の限りを尽くして死んだ者になど、
誰一人としてお墓参りになど行かない事さえも分からない
事に、不思議でならなかった。

大抵の場合は逆である事が多い。
昔の真に賢い人は、墓などは質素でいいという人の方が
多くいた。私的にもそう思う。死んでまで周りの迷惑に
なるような事は望まない。

知っている人もいるとは思うが、秦の始皇帝の墓では
多くの兵馬俑が見つかった。あの兵馬俑は始皇帝が
考えたものでは無く、もっとずっと以前の秦の王が
考えたものであった。

長い春秋時代の中で、ある秦の王は配下から絶大なる
人気があり、その王が亡くなった時、後追い自殺者が
大勢出た。そしてその次の王が死んだ時にも、有能な
人材たちが後追い自殺をしていき、秦の力は弱まって
いった。

それが数世代続き、秦は弱体化した時、ある王は自殺
をした場合、その一族も殺すという法律を作った。
その代わりに生まれたのが兵馬俑であった。

始皇帝は最初の統一者であった事から贅の極みを
尽くした。そのため、兵馬俑の数も多いものとなっただけ
であって、仮に一族も死罪になるという法律が無かった
場合、秦の始皇帝が死んだ時、後追い自殺をする人間は
ほとんどいなかったであろうと思う。

始皇帝は事実、配下からも恐れられていたし、
権力の限りを尽くして異論を唱える者は殺していた。
そのため、暗殺を目論む事に繋がった事さえある。

このように何かには必ずといっていいほど、理由がある。
知っている人間からすれば、知識の一つでしかないもので
あって、私は更にそこから色々考えたりするが、詐欺師等は
ここで止まるのが大半である。

あくまでも知識として知っただけであって、悪意の活用に
用いるだけであって、そこから何かを学ぼうとはしないからだ。

私が生きている間に、私の一族たちの多くも枯れた
落ち葉のように落ちていく事に対しては耐えて来た甲斐が
あったと言える。

私が医者にならなかった事で、愚か者の烙印さえ押されていた。
誰もが嫌がる仕事をして、それでも尚、私を見下していた事も
知っていた。

知ってはいたが、皆、父のように誰かがするものだと言った
思想を持っていたので、自分でしようとする人はいなかった。
長い長い半生を生きたが、得たものは実に皮肉にも役に立たない
ものばかりであった。

だからこそ第二の人生として好きに生きると決めた。
noteで書いていくうちに、書く事の楽しさを知る事を感じる
ようになった。正直そうなるとは思わなかったが、
事実、そうなった。

それは喜びに変わり、ある意味では挑戦であるが、必ず何かしら
の形で成し遂げて見せる。今の目標は上手い文章を書けるように
なることを第一としている。

ネタは豊富にあるので、技術的な面の向上が大切になるだろう。
あとはガンジーの言うように、覚悟を決めるのが問題となる。
覚悟は決めてはいるが、よく誤解されている方がいるが、
彼らの言葉には、平らな道は無い。

非常に重く捉えるようにしたほうがいい。
彼ら自身は重い意味で言葉を残しているからだ。

これくらいでいいだろうとか、そういった軽いものでは無く、
時代背景もあるにはあるが、それは考えないようにして、
彼らの言葉を深いものだと思って、読む事をお勧めする。

今日が過ぎれば明日が来るように、日々の努力が実を結ぶ。
時は休んでもいいが、休むことを少ないものとして、
多くは何かをする事をしていかなければ、人生はつまらない
ものになるだろう。

意味の無い人生は無いが、意味を深める人生にするには
自分が頑張るしか道は無い。今から小説の続きを書くが、
今日中には間に合わないだろう。

間に合わせようとすれば可能ではあるが、焦りや行動規制
を優先すれば出来が悪くなるので、しっかり書きたいと
思う。間に合うかもしれないが、書く以上は納得のいく
ものを書きたいので、そうします。

また音楽があれば、歌詞は書かずに、エッセイを書いた
上でお届けする形式にしようと思いますので、また同じ
歌をアップする事もあると思いますが、よろしくお願い
致します。

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