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我に苦難八苦を与えよ

この言葉は日本の戦国時代に尼子家に
人生を捧げた山中鹿之助の言葉である。

何歳の頃にこの言葉を言ったのかは、
激動の人生であった事と、
34歳という若さで生涯の幕を閉じた事から
20代前半、または10代後半で言ったと
思われる。

理由としては、毛利家との戦いで捕われの
身になったことや、戦いに身を捧げた
人生の中で66人の将の首を取ったとされる
程、勇将であった事から推測できる。

言葉からは苦言、苦難を求めるほど勇将で
あった事から、中国地方で最大の強豪と
なった毛利家と対立した後に、
このようなことを言う訳は無いので
そのあたりから推察することは可能である。

元々は毛利家は勢力図的にも弱い立場にあり、
尼子家や大内家などに利用されていた。

元就が当主であった時もまだ従うしかない
状況であり、毛利家内部では大内家に従うか、
尼子家に従うかでもめていた程、毛利家を
大きなものとしようとするものは少なかった。

しかし、元就は優れた人物であった事から、
尼子家、大内家のちに陶晴賢といった強敵を
撃ち破り、中国地方最大の勢力を誇るまでに
なった。

山中鹿之助は勇将であった為、尼子家当主は
殺されたが、鹿之助は配下にするつもりで
あったのか、生かして連れ帰ろうとしていた。

だが、歴史上では読み取れないが、多くの敵将
を討ち取った山中鹿之助は、護送途中に謀殺
された。

彼の墓は広島県にある。
ちなみに同じ場所には坂本龍馬が作った
海援隊の歴史も眠る場所にある。

鹿之助は中国地方の大勢の武将の中でも
特に武勇に優れた人物であった。
殺せば恨みを抱く者はいる。
毛利家が盤石を築いて間もない事でも
あったので、毛利家の血縁関係などにある
怨恨から殺されたと考えるのが妥当であろう。

彼のように若いうちに多くの武功を立てて、
早死にした武将は実はそれほど多くは無い。

なので、戦国時代を少しかじった程度では
知らない人もいるが、有能な将は戦国時代
では味方に引き入れるのが基本であった。

斎藤道三に仕えていた竹中半兵衛も病弱で
あったが、見事な理論を以て羽柴秀吉の
配下となった。

秀吉よりも優れた武将であった事は確か
だが、優れ過ぎていた武将は戦国時代に
おいては、出世できないものであった。

有能過ぎて、力を与える事に対して、
大名たちは恐れを抱いていた。

竹中半兵衛もその中の1人であった。
斎藤道三が築いた不落の稲葉山城を
僅か数十名で落とした事により、
君主からも排除されかけたが、知将
であったので、あっさりと隠居した。

何故、竹中半兵衛が稲葉山城を落とした
のかは、敵である織田家に対して、
あまりにも甘く見ていた事から、少数で
落とせるほどの現実を見せるつもりで
彼は不落と云われていた稲葉山城を
制圧した。

制圧後はあっさり自領土に戻って、
隠居した。

元々、竹中半兵衛を仲間にしようとして
いた秀吉であったが、自分よりも知略に
長けている武将を配下にする為に知恵を
絞った。

竹中半兵衛は病気と称して隠居していた
事から、薬屋を装って彼に会いに行った。

ここで秀吉は、竹中半兵衛が不落の要塞
と呼ばれていた稲葉山城を僅かな手勢で
制圧した事により、誰も恐れて配下に
しようとは思わないと言って口説いた。

竹中半兵衛はその言葉から、確かに
その通りだと納得し、秀吉の配下と
なった。

信長の配下では無く、秀吉の直臣として
織田家に仕えた。
これにはハッキリとした理由は示されて
いないが、秀吉としても右腕にしたいと
思っていたほどであったので、信長に
対して、竹中半兵衛を口説けたら
自分の直臣にして貰うよう話はつけていた。

事実、竹中半兵衛は能力に見合った知行は
与えられる事は無かった。秀吉も内心では
恐れていたものだと言えるだろう。

こういった話は日本の戦国時代にはよくある
事でもあった。伝説的な忍者であった飛び加藤
と呼ばれた忍者は、上杉謙信の配下になった事
もあったが、謙信も恐れるほどのものであった
事から、上杉家から出された。

信長も伊賀の里を急襲して、忍者を皆殺しにした
事から、世間で云われているほど、能力は低い
ものではなかったと私は思っている。

信長が強行手段に出たのは、比叡山の時が最初で
あったが、比叡山は僧侶を名乗っていたが、
鉄砲や武器に関しては、今の日本のように非常に
強力であった。

大抵の地元の農民は昼は農民、夜になると比叡山
の味方をして信長を苦しめた敵であった。

信長も簡単に答えを出した訳では無かった事だけ
は知っておいてもらいたい。
幾度も耐えた末の結論として、僧侶を名乗りながら
酒池肉林ばかりか兵器も持った敵に対して、
信長の配下たちは躊躇ためらいながら戦って
いた。

信長は天下統一をして戦国の世に終止符を打つ為に、
先手先手を取っていき、蒲生氏郷や浅井長政と言った
人物たちと婚姻し、若いながらも優れた人物を
引き込んでいった。

信長は人を見る優れた眼力を持っていた。

朝倉家に身を寄せていた足利義昭と共に細川藤孝や
明智光秀は、朝倉家に都を取り戻す力は無いと見切り
をつけて、光秀は信長の元に向かった。

会話は極々少ないものであったが、信長は光秀に対して
有能であることを即座に見抜き、高給で配下とした。

よく人は光秀の事をあまり良くない感じに書いているが、
実際、織田家四天王の中で、最も遅く織田家に仕えたのは
明智光秀であった。

そして四天王の中でも他の三人と同じように、
大名として取り立てられていた。この事実から見えるのは
明智光秀は非常に優秀であった事が分かる。

信長が引き抜いた事や、一気に出世した能力は否定できない。

本能寺の変でも、敵は誰だ? と家臣に問いかけたところ、
水色桔梗だと知り、光秀が相手なら逃げれない事を即座に
悟ったと言われている。

実際、全員が殺された訳では無いので、信長らしい即断即決
したところから見ても、そのような事を言ったとも言える。

光秀の落ち度というか、秀吉の最速の動きを読めなかった
のが、一番の敗因と言える。
信長が殺された事により、最初に天下が投げ出された事を
知ったのは、秀吉と徳川家康であった。

光秀の乱が起きた時、家康は堺にいた。
いち早く自領土に戻って光秀を討ち取る為に、
危険な山道を通って三河まで戻った。

この際、山賊などに出会ったと言われているが、
おそらく事実であると思われる。
この際、同行した堺の商人によって、金で解決して
出来る限り早く自領土に戻り、光秀を討つつもりで
いたが、秀吉に先を越された。

その後、秀吉と家康は戦ったが、秀吉軍は敗北し、
秀吉は天下のためにと言って家康に停戦を申し出た。

信長、秀吉、家康、この人物たちが出会った事は
まるで運命のように私は思っている。

実際、確率的には非常に低いものである。

信長の仇を何故それ程までに早く行動に移した
のは、実質、既に信長によって天下は決まっていた。

この事により、敵討ちをした者が大きな発言を得る
事ができると秀吉も家康も解っていた。

光秀は秀吉が毛利と戦っていた事により、すぐには
戻れないと踏んだ事が敗因となった。

信長を本当に討ち取ったかどうかは死体が無いだけ
に、分からないものとなっているが、おそらく
殺されたはずである。生きていれば身を寄せる場所は
幾らでもあった事からそう言える。

光秀は遠方の強力な大名たちに信長を討ち取った事を
知らせに走った。この際、近くにいた右近などには
目もくれず、遠い場所の大名たちに呼応するよう
呼びかけた。

しかし、秀吉はこれで天下が決まると言い、
全ての金を使って、農民たちに総出で、飯を用意させ
松明を灯させ、毛利とは停戦をして、いち早く戻った。

この際、片山右近等を味方にした事が、勝因と言える
事に繋がって行った。

僅かな武将しか話していないが、山中鹿之助も天下に
名を売る可能性はあった。

しかし、勇将であるが故、敵を作り過ぎていた。

「我に苦難八苦を与えよ」

このような言葉を二十代前半で口にしていた程の者は、
そう多いものではない。

三国志や春秋時代、日本の戦国時代でも言えるが、
有能な人物ほど早死にする。

しかし、家康には利点があった。
信長、秀吉の天下の扱い方を学んでいた。

だからこそ、徳川幕府は長い間続いたものだと
私は思っている。

近くに身を置いて、体験に限りなく近い場所から、
天下人となった両者を見ていたからこそ、天下の
扱い方に長けたのだと言えるだろう。

これは我々にも言える事である。
失敗例は歴史を振り返れば途方も無いほどある。

これらを活かす事により、我々は失敗することを
減らせることは可能であると言える。

私が歴史を深く見るのは、そのためでもある。
多くを知り、多くを学べば、多くの真実が見えて
くるからである。


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