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ウィリアム・シェイクスピアらしい表現言語

”私はこの世を、命々《めいめい》が
何か一役ずつ演じなければならない
舞台だと思っている”

シェイクスピアは劇作家であり
詩人でもあった。

卓越した人間観察眼を持ち、
内面の心理描写によるものとされた
その才能はもっとも優れていると
言われた英文学の作家であった。

だから彼の言葉はいつも劇作家のような
言葉を残している。

彼の心を読み取る事は簡単では無い。
彼自身が相手を見抜く才能があった事も
関係してくるが、我々は彼の未来にいる。

そして彼を知っている。
だから彼らの残した言葉を理解できない
訳はないのだ。

ただ、容易に理解する事が難しいだけで
あって、理解できない言葉は無いと
私は思っている。

それはこの地球に生まれて、国や思想に
違いはあっても、人間同士であるが故に
洞察力を以て、彼が言いたい事が分かれば
言葉は自然と理解できる。

”私はこの世を、命々《めいめい》が
何か一役ずつ演じなければならない
舞台だと思っている”

まずはこの言葉を皆さんがどう感じるかは
分からないが、多くの人は‥‥‥難しいので、
私見で読み取っていく事にする。

この世、つまりは世界であり、「命々」これは
日本語での意味になるのかが疑問である。

日本語としての意味では、一生。 寿命。
一番大事なもの。とされている。

しかしシェイクスピアの文章と照らし合わせれば、
意味合いが違う事に気づく。
文章的におかしくなるからだ。

この「命々」に関して、人間のとは
書かれていない点も認識する必要がある。

例えば動物でも、犬や猫は癒しを与えてくれる。
それは無垢な存在であるが故である。
人間には持ってない感情的なものを実際、飼った
事がある人なら理解できるはずだ。

私も愛犬と愛猫にたくさんの癒しを貰った。
相手が人間でなくても、私は感謝している。

この時点で気づいた人もいると思う。

この文章は世界そのものを表している。
生ある全ての生き物に対して、役目があると
いう意味であると思われる。

つまりは仕事や何かしらの存在証明が彼の言う
一役だと考えられる。
仕事をしていない人や、その人を支えようとする
人、生まれてすぐに死ぬ赤子もいるが、
それさえも人生と言える。

一瞬でもこの世に生を受けたものたちは、
誰もが不必要な存在はいないと彼は言っている。

日本でも差別問題は昔からある。
国内外での問題も色々あるが、誰かしらが
それに対して、役目を果たそうと頑張っている。

生きるとは頑張る事にも繋がる。
人の人生は色々ある。辛いだけの人生であっても
生きている人はいるが、それは私から見たら
そうであっても、実際は幸福もあるのかもしれない。

幸も不幸も、他人が解するものではない。
その人たちそれぞれに、幸と不幸が存在する。

小さな事でも幸せを感じれるのであれば、
それがどんなに些細な事であっても、他人が
そこに入る余地は無い。

夢を見て、それを現実にしようとする人もいれば、
脇道でそれを眺めて楽しさを感じる人もいるように、
全てに於いて、それは役目でもあるものだと
言っている。

その中には戦争も入る。
これは日本人には理解し難い事であるかも
しれないが、戦争がなくなる事も無いし、
完全に無くなる事は絶対にない。

人間は3人いれば、意見が分かれると言われている。
つまりはたったの3人だけでも意見の相違が生まれる
という、例え話になる。

以前も書いたが、運命的な人生を送った人もいる。
役目を果たして、その後、殺される。
しかし役目を果たしたのであれば、殺されても
仕方ないことだと本人たちも理解はしているはずだ。

多くの敵を作る以上、当然ながらそれに見合う強行
に出るものもいる。

”私はこの世を、命々《めいめい》が
何か一役ずつ演じなければならない
舞台だと思っている”

こうして間に入れながら、考えていかないと
意味を理解する事は、少なくとも私には出来ない。

世界の生を受けた動植物も含め、そして人間たち
が一役ずつ演じる事により世界は動く。
それは舞台とも呼べるほど、幸や不幸も哀しみや
嬉しさ、感情面の全てに於いて、狩られる寸前の
動物の気持ちは無いまま、死が与えられる。

しかし、無駄な死は無い。あるのかもしれないが、
それは非常に悲しいことだ。
永続する事は無いが、一時的には惨劇が生まれる
事もある。

それすらも必要悪であるとシェイクスピアは
言っている。

それは確かなものであると言える。
勝海舟も言っていた言葉だからだ。

彼は一番弟子である坂本龍馬を暗殺されたが、
「世の中は多少乱れているくらいが丁度いい」
という言葉を残している。

完全な平和などは無いものではあるが、
平和過ぎると平和に慣れすぎて、逆に何かが
起きた時、対応できないという意味の言葉である。

当然、平和な方が良いのは当たり前だが、
本当の世界を知る人ならば理解できるだろう。

この世は善と悪によって均衡し、善が必ず勝つ
とは言えないが、世界の人々が善意の本当の意味を
理解するには戦争などが無ければ、いずれ忘れて
しまう。

そうなった方が危険過ぎると言っている。

だからこそシェイクスピアも善悪には触れてない。
あくまでも1人1人に役目があると言っている。

それが例え悪だとしても、悪があるからこそ
善が見える。そしてその大切さを知る。

何事に於いても、体験、経験が必要なのだ。
生きる意味を感じる時は、色々あるとは思うが、
自分に降りかかる時にこそ一番理解するものだと
言える。

今現在、迷走している人も必要であり、仕事を
失った人も必要であり、お金が無い苦しみを知る
事も必要である。

苦しみを体験した後に待っているのは、それまで
感じた事の無い幸福だと断言できる。

”私はこの世を、命々《めいめい》が
何か一役ずつ演じなければならない
舞台だと思っている”

シェイクスピアのこの言葉は正しいものだと
私は思うが、シェイクスピア自身も思っている
という〆方をしている。

彼が思っている事は確かな事ではあるが、
人間にはそれぞれ思いがある以上、
それを踏まえると、シェイクスピアの言葉は
違うという意見さえもあると彼自身が知って
いるからこそ、思っていると曖昧にして
断言せずに言葉を残したものだと分かる。

一役の中にはシェイクスピアの言葉に対して、
違うと思う人をも含めているからこそ、
こういった言葉で〆たのだと感じ取れる。

そこから彼の懐の広さと、よく世界の事を
理解していながらも、自分の意見さえも否定
される事もあるということを知っている。

実によく自分の意見と、世界をも理解している
言葉だということがシェイクスピアの人柄も
示していると、私見ではあるがそう思う。



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