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諸葛孔明が師と仰いだ楽毅の人間性

まず、確かな事だけを話します。
第一に、紀元前の人物であったことなので、
脚色などされている部分、楽毅は実際に諸国
からも一目を置かれていた人物だということ。

そして諸葛孔明に関しては、楽毅を師と仰いで
いた事。それは楽毅が書いた書物を暗記するほど
何度も読んだということ。

楽毅は非情な時代に生きた人物でありながらも、
決して恩を忘れる事無く、身命を賭して君主に
仕えたということ。

諸葛孔明が魏延を登用しようとした際に、強く
反対した理由は、この楽毅の人間性に強く惹かれ
ていたことから、魏延は主である韓玄を裏切って
民衆を扇動して韓玄を殺して、黄忠を死罪から
救い、劉備に味方をしたが孔明は魏延に対して
最初の出会いから厳しかった理由は楽毅にあること。

以上が簡単ではありますが、楽毅に関する事と
孔明が師と仰いだことに関することから、確か
な事だと私的に熟慮した上で断言できる内容に
なります。

まず、人間には誰しも欠点があります。
特に歴史に関する事は過去のことであります
ので、歴史に詳しいだけでは真相を見ること
は難しいと言えます。

大抵の歴史家たちは現物である書物などから
考えますが、それだけでは足りません。
人間性や人物像を考慮しないければ、例として
あげれば、書物等では伊達政宗の機転により
手紙を送りつけた家臣の書物を秀吉に見せられた
時、本物の印鑑は違う事を見せつけることによって
窮地を脱しました。

私の場合では、主に人物像や人間性、実際に起きた
事実、そこから見えてくる性格等から事実かそうでは
ないかを考えるようにしています。

歴史に詳しいだけでは、ほとんど何も見えません。
それも良い例があります。私はキングダムを読んで
無いので、その人物が出たとは言い切れませんが、
おそらく出たと思います。

名は趙括ちょうかつと言って、後世では知識だけあって、
全く活かしていない人物に対するダメな例として
挙げられる人物の代表とも言える人です。

孔明が大事な決戦の場の街亭がいていは絶対に
押さえておかなければならない地であった。
馬謖はこれまで孔明に師事してきた成果を見せたいと
先陣を申し出た。孔明は馬謖を買っていたが、劉備は
馬謖を過剰評価している事を死ぬ前に孔明に伝えていた。
しかし、孔明は馬謖を起用して副将に王平をつけた。
副将の王平は山に陣を取らず、囲まれたら終わりだと
進言したが、馬謖は進言を聞かず山に陣取った。

司馬懿が到着した時、蜀軍が既にいる事を聞き、
孔明に先読みされた事に対して、負けを覚悟
しましたが、蜀の旗が山にあると聞き、そんな
馬鹿な真似をする訳が無いと思いながらも、
自ら見にいきましたが、山頂に蜀の馬謖の旗が
はためいているのを見て、孔明は智に長けるが、
人を見る目は無いと言って、山を取り囲むように
司馬懿は陣を張りました。

水も食料も取りにいく事が出来ず、副将の王平は5千の兵
で戦いましたが、司馬懿の魏軍の方が遥かに多かったので
助ける事はできなかったものの、善戦しました。

馬謖は家臣の進言により、食料も尽きてもうどうにも
ならない事を知り、全軍を以て下山戦をしました。
馬謖は逃げ延びて、孔明の前まで出た時に、
彼は弁明をした。

それは正に臨機応変に対応する事こそが兵法の基本で
あるにも関わらず、兵法書に載っているままを用いて
山に陣を張った事を聞き、孔明は買っていただけに
叱りつけました。

孔明は自分自身にも厳しくしている事を知らないのか
あまり重要視していないのかは分かりませんが、
自他ともに厳しくしていたことも大切な事ですし、
劉備の死に際に「劉禅が世を正す者でない場合は
孔明を世継ぎとして蜀の君主になって天下を正せ」
と言いましたが、劉禅がダメな君主である事は
分かっていましたが、そういう考えは一切孔明には
ありませんでした。

これは楽毅の生き様に感銘を受けた孔明は、決して
裏切り行為をしない人物になった理由でした。

劉禅に関して、蜀の内政面を担当していた蔣琬しょうえん
にも孔明は酒と女を断たせて、名君にするよう
伝えたことはありましたが、中国でも確か三国志名鑑という
ものにも劉禅の名は無いほどでしたので、余程の暗君で
あった事は確かなものだと言えるでしょう。

劉禅は暗君でしたが、劉禅の子は名君の見所がありました。
戦わずに降伏しようとした際、父である劉禅に劉備の想い
や、これまで蜀に尽くしてきた皆に対して顔向けできない
と言いましたが、劉禅は降伏しました。

この時、戦う事が可能であったかどうかと言えば、
戦う事は可能でした。孔明の子も確か1人は戦場で死に、
城は守る事はできる状態で、姜維や張嶷などは最前線の
剣閣けんかくにいたので、呼び戻す事も可能で
挟み撃ちにも出来る状態でした。

敵は道なき道である崖を登ってきたので、落ちて死んだ
兵も多かったため、将兵たちは戦えると主張しましたが、
劉禅は簡単に降伏しました。

これらの事から分かる事は、劉備が孔明の裏切りに対する
心構えを知っていれば、世継ぎを孔明にしたのかもしれ
ませんが、この辺りはあくまでも予測になってしまいます
ので、控えておきます。

ただ、孔明は、親子、親族などの裏切り行為が当たり前
だった春秋時代に、約束を重んじて何よりも主君に対して
楽毅は常に主君に対して忠誠心を持っていて、春秋時代
では特例でもあった領地を与えるという当時には有り得ない
程の功績を称えて彼を祝福しました。

当時は領土を持つのは君主の一族だけにされていたので、
どんなに凄い武将でも領土を持つ事は絶対的に無い事
でしたが、燕の昭王は斉王に騙されて国を乗っ取られた
恨みを晴らすために国に尽くしました。

そして楽毅によって当時、最大の勢力を誇っていた斉に
対して連合軍を組みました。これも楽毅が優れた武将で
ある事が大きな要因となり、連合軍を組む事ができ、
激戦の末、斉を退ける事に成功しました。

諸国はそれで帰国しましたが、楽毅は独自の燕軍のみで
斉王を滅亡寸前まで追い詰めました。


ここまで書くつもりでは無かったので、一応、春秋時代の
説明を軽くしておきます。当時の春秋時代では仮に斉が燕
を制圧したとしても、数年間は属国扱いとして、その後、
燕の王家に当たる人物に再び燕を与えます。

不思議に思う人もいると思いますが、春秋時代が長引いた
最大の理由はこのような方針を取って戦っていたので、
基本的に制圧されたとしても、王族の誰かは生き残って
いたので、そうして国を治めさせる事が常識でした。

そのため、王の数も多いですし、時代が変われば同じ
ような名前の王もいたので、混乱すると思うので、
このような方策を用いていた事を知れば、長い間続いた
春秋時代を理解できると思います。

秦の政も元々は同じでしたが、韓の公子で法家であった
韓非かんぴの書を読み、それを用いて天下統一を成す事ができ
ました。

本来は韓非子を以て、韓を強国にするために書いたものでしたが、
隣国の強国であった秦の要請により、韓非は秦へ行き、詳しい
法家を政に教えた後、牢獄に入れられました。

秦の丞相であった李斯とは学問を通じて友人だったので、
李斯は最悪に備えて、韓非に毒薬を渡しておきましたが、
それから間もなくして、牢獄から出される事が決まりましたが、
その時には既に毒薬を飲んでおり、死亡していました。

秦の政に関しては色々、話されていますが、私的な意見では
重度の人間不信になったのは、人質生活が長かった事による
ものであって、非情とも呼べるほどの人間不信であっただけで
あって、特別、優秀な人物では無かったと言えます。
ただ、李斯や有能な家臣がいた事と、韓非の天下統一論を
いち早く用いたので、当然ながら秦の領土として増えていき、
各地の国々ではそのようなやり方では戦っていなかった事が、
大きな要因になったのだと思われます。

春秋時代に名将や知将など多くの人物がいるのは、
長い戦いの中で生まれたからであって、
ある意味では政は独断的ではありましたが、韓非の意見が
非常に大きなものであった事は揺るぎないものです。

実際、政が天下統一をしなければ、まだまだ続いていた
と言えるので、そういった意味では戦の世に終焉を
もたらした功績としては偉大であったと言えるでしょう。

馬謖から流れで春秋時代にも触れましたが、春秋時代が
どのような世界であったかはこれくらいの知識があれば、
人にも話せますし、春秋時代が長い理由も明確ですので、
知識としては知っておいて損はないと思います。

燕の昭王が王になる以前、まだ太子であった頃、斉王が
腹心と相談して、燕を乗っ取ろうと画策した事が起源
となります。

燕は斉によって内紛状態になった時、勢力の大きな
斉王は、燕の太子である職に味方する事を伝えて、
内紛状態が最大になった時に、斉は軍勢を率いて
そのまま燕を制圧しました。

この時、太子職は内紛を作ったのが斉であり、
その斉に利用されて国を乗っ取られた事に対して
強い恨みを持ちました。

それから数年後、属国から独立し、太子職は昭王と
名乗り、まずは人材を集める事にしました。
この際、郭隗かくかいと言う配下にどうすべき
か相談した時、「隗より始めよ」と答えました。
つまりは自分のような者を出世させれば、より有能な
人材が集まるという意味であり、昭王はこれを用いて
郭隗を高く評価したように見せるため、屋敷を与え
厚遇を以て迎えました。

この時に、大勢の有能な人材が集まりましたが、
中でも既に世に名前が知れ渡っていた楽毅も来た事に
より、楽毅に斉への恨みを話して、数年後、楽毅に
斉へ攻め込むのはまだ無理かと尋ねた所、まだ厳しい
ですと答えられ落胆したが、
楽毅は「連合を組めば戦えます」と言って、楽毅自ら
使者として各国を説き伏せて、連合軍を作り上げ、
その総司令官として楽毅が大将となり、どの国もが
恐れていた斉を打ち砕く事に成功しました。

この時の昭王の喜びは大変なもので、上記に書いた
通り、領土を与えたほどのものでした。
楽毅は恨みの根源である斉王は、配下によって殺され
その配下は民衆によって殺されましたが、恨みを1つ
晴らす事に成功し、昭王は非常に喜びました。

ここからはまたまだまだ続いてしまうので、ひとまずは
ここまでにしておきます。理由はもうお分かりの通り、
春秋時代の国を制圧するというやり方であった為、
終わらない戦がずっと続いていたので、書き続けたら
終わりが来ないので、とりあえずは楽毅の人間性も備えた
素晴らしさに孔明は心を打たれて、自身を君主の座には
置かずにいたのは、楽毅を心から尊敬していたからです。

このように歴史をしっかりと受け止めるに至るまで、
調べておくと、持論も展開できますので、ただ読むだけ
ではなく、自分ではどう思うか等、考えて頂ければ
幸いです。



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