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日本でも奴隷並みの扱いを受けていた土佐藩の郷士たち

これはあくまでも私的な意見にはなりますが、
しっかり調べて、そこから熟慮して出した話になります。

時は江戸時代末期、幕末の時代。
徳川家による統治は約260年続いた。

日本でも異例なほど長い間、続いた中でも
特に目を引いたのは、土佐藩・藩主・山之内容堂。

最後の土佐藩・藩主となった山之内容堂は、実に
惨い奴隷制度を敷いていて、その時代に龍馬は生を受けた。

龍馬の家は商売で稼いでいた為、土佐藩にも多額のお金
を貸していた。

彼の末路は女性を十数名に囲まれて酒楼にて連日豪遊し、
ついに家産が傾きかけた時に、容堂は、
「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」
と豪語し、家令の諌めを聞かなかった。

私は徳川幕府が坂本龍馬によって倒された事に対して、
運命と使命のようなものを感じてやまない。
260年の時を経て、徳川幕府が倒された事は偶然に
しては出来過ぎているからだ。

織田信長、豊臣秀吉の国の治め方を見てきた
実際に自分の目で見た事から徳川幕府は長く続いた
とも言える。

関ケ原の合戦で、徳川家康自身も日本国中の武士たち
も予想外な展開により、約15万人の参戦した合戦は
1日で終わった。

この時、家康は功績に対して見合う領土を与えていった。

山内一豊もその1人であった。一豊が与えられた領土には
西軍についた長宗我部一族や家臣がまだ残っていた。

この事を一豊は家康に相談した。
この時、家康は一喝するように、
「邪魔なら滅ぼしてしまえ」というような言葉を放った。

一豊は軍を率いて土佐に攻め込み制圧した。
しかし、多くの長宗我部一族と家臣は逃げ延びた。

それから約260年後、土佐藩に運命に導かれるようにして
使命のある男が産まれた。

それが坂本龍馬である。

彼の家はお金持ちだった事もあり、幼い頃は大成するとは
誰もが思っていなかった。郷士の中には2種類の人種がいた。
白札郷士と郷士である。

しかし、実際には白札郷士だからと言って奴隷のように
扱われる事に変わりは無かった。

龍馬は幼い頃、誰もが考えない疑念が頭を過った。
今、気づいたが幼い頃の龍馬と私は被っている。

奴隷扱いされ、それを誉れとして受け、それに対して
一言の礼も無く、命令されるがままに従っていた。

土佐藩で最初に脱藩したのは坂本龍馬だった。
それは絶対にやってはならない事ではあったが、
その機会を得る事になった。

龍馬は容堂が開いた御前試合で、優勝候補であった
桂小五郎を破って優勝した。

この時、容堂は土佐藩の者が優勝したと聞き、
嬉々として喜んだが、白札郷士だと知ると一気に
態度が変わった。その褒美として更に剣術の腕を
上げる為、江戸三大道場の一つであった千葉道場
に行く事を許された。

この時、彼は初めて世の中を知った。
龍馬の腕前は実に見事なもので、免許皆伝した程
の実力者であったが、彼は実に優しい男であった。
彼の剣術の腕前は、桂小五郎を破った事で
証明されたが、腕前はどんどん上がっていった。

桂小五郎が龍馬に負けた後、剣術を振るったという
記録は無いが、おそらく何度かは振るったと思われる。
ただ、自分よりも強い相手がいるという事実を認識し、
思慮深い桂小五郎は用心のために剣を振るう事を
しなかったのかもしれない。

龍馬は人を1人も殺さずに、暗殺されたが、
剣を振るった事はあった。相手を斬ったが殺しは
しなかった。

彼は江戸で多くの事を学び、そして当時は危険な思想家
だと言われていた人物を殺しに行こうと千葉道場の息子
と共に、その人物に会いに行った。

それが勝海舟との最初の出会いになった。

勝海舟は死を覚悟したが、持論を二人に対して話した。

千葉重太郎はその当時では普通の思想を抱いていた。
その思想は海外の思想を取り入れる事は、反逆罪に
なるというものであったが、龍馬にとっては実に
興味深いものであって、理想郷のようなものに思えた。

その場で即、龍馬は勝海舟に弟子入りし、重太郎を
説得して、龍馬の本当の人生の生き様がここから
始まった。

龍馬は滅多に人嫌いにはならない性格をしていたが、
山之内容堂だけは別であった。
最初は容堂の子飼いの配下であった後藤象二郎や、
乾退助を殺せる時もあったが、敢えて殺さず、
標的を山之内容堂に絞っていた。

しかし、龍馬が脱藩した後も土佐藩の郷士たちは
奴隷扱いされていた。

龍馬のミスは土佐藩に残った郷士と、
自由という日本には存在しなかった言葉を勝海舟
から聞かされ、海の外に自分の夢を託していた。

この温度差を予見できなかった事が後に大きな
問題をいくつも引き起こしてしまうのだが、
今回はそれに触れずに話を進める。

郷士たちは元長宗我部一族や、その家臣たちで
あった事から最初から厳しいものであったと
考えられる。

それが260年も続けば、その格差は広がり続ける
事になるのは、今だからこそ理解出来るが、
何代も続いて、その度に厳しい立場に立たされた
龍馬は、実際、大政奉還の仮の役職を書き上げたが、
そこに山之内容堂の名は無かった。

幕末より260年前、歩み寄りをしていれば歴史は
変わっていただろう。しかし、弾圧による制圧により、
苦くて苦しいその苦渋の思いは、260年後の土佐藩の
たった一人の思想によって崩された。

生き延びた者の子孫により、恨みを遂げたのは、
時代と海外と劣悪な環境により、復讐を成すと
決めた龍馬によって成された事は偶然にしては
出来過ぎている。

私はこういった事に関して運命や使命を感じる。
どこか一つでも欠けていれば、成立しなかった。

こういった事例は世界にもある。
だが、決して多い訳ではない。

さっきも言ったように、どこか一つでも欠けて
いれば、成立しない程、困難な問題であったからだ。

徳川幕府は家康の一言によって始まり、
一言によって終わりを告げた。

私が考え抜いた末のもので、10年以上前から
その考えは変わっていない。



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