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花粉と歴史ロマン 連続と不連続

 1月1日 能登半島を地震と津波が襲った。12年前の3.11を思い出した。あの時、愛犬とともに内陸の高台に逃げた。翌日自宅に戻り、家族全員の安全を確認できたが、家内の実家とは連絡が取れなかった。3月15日になって親族から救援の要請があり、原発事故が進行する中、ある程度の覚悟を持って家内と現地に向かった。高速道路は途中水戸まで利用できたが、出口では救援目的のため無料になったが、事務的には強行突破になった。
 被災した家並みが続く国道6号線を北上し、避難先にたどり着くと親族は皆元気だった。生と死を分けた紙一重の不連続を考えた。自宅までの帰路、千葉に入ると、コンビニはいつも通り開いており、水もパンもあった。レストランでは、豊富な食材を味わえた。二つの異なる現実が3時間程度の連続する距離の中にありながら、経済圏は不連続だった。ガソリンの供給態勢が崩れたためだった。
 4月中旬まで6人暮らしとなり、毎晩宴会のような賑やかな食卓になった。2週間程度でテレビの特別番組は減り、経済も回り始めた。復興の旗が被災地にはためき、悲惨と善意が報道される中、元気に立ち回れる人々がいた。私は、止まってしまった。動けなかった。
 2012年、勤務先が短大から4大へ移動になった。待遇の好転と暗転があった。狭くなった研究室、新たな講義科目の負担、なんでなんでなんで!それでも、人生が前進した気分の中、全力で乗り切った。「向かい風がなければ飛行機は飛ばないとか!」どこかの誰かの名言!
 2013年になって新参者の立場も理解できた頃、東日本大震災から2年が過ぎていた。我を取り戻すことを意識した。自分が成すべきこと、やり残していることの中から、長崎県壱岐島と対馬島を研究対象の地域に選択した。(表紙は万関橋より:明治期に開削された人工運河)

1 壱岐市に亜寒帯針葉樹林?

 さて話を戻そう!
 銚子市や君津市の研究が一段落した頃、照葉樹林の東端に位置する千葉に対して北部九州を西端とみなす考え方(ハマオモト線)がヒントになり、長崎県の壱岐の分析結果を見直してはどうか?スダジイの人為拡大説も検討できるのではないか。
 植物相は、気候変動に連動する形で地形変化にも影響されます。寒冷化で海水準が低下した最終氷期最盛期(以下、LGM)には、黒潮から派生した対馬暖流の日本海へ流入が阻止され、積雪量が減少したために列島の気候的背腹性は弱められた。また、東シナ海を中心にした広大な低地や、対馬南部に接近していた黒潮の流路が推定(松岡、1994)され、照葉樹林の北上は中部九州まで(松岡・三好、1998)と推定されていた。
 壱岐・対馬房総半島を比較してみました。ただし、房総半島を南部と北部に分ける前提です。壱岐・対馬は北部が標高が高いのに対して、房総半島では反対に南部で高く、北部が低標高の地域になります。また、両地域ともに常緑広葉樹林域にありながら、冷温帯の落葉樹林の樹種やモミ林が分布する一方、ブナ林は分布していません。

万関展望台の斜面上部はシイ林、手前シラカシ林か?万関橋より撮影
Google mapより、山頂付近のやや暗い緑がシイ林、明るい緑がカシ林かな?

 国境の島、対馬と壱岐、様々な興味に誘われて、2013年9月10日深夜、博多港発のフェリーに乗船しました。その後、何年も堆積物探しに両島を訪れましたが、十分な堆積物の発見には至らなかった!しかし、調査を通して各地を観察することができ、人為の影響の少ない自然美に触れることができました。

対馬 和多津美神社から見た海中の鳥居、穏やかな入江を囲む照葉樹林
引き潮が静かな時の流れを示すように、沖に向かって陸地が拡大して行きました。観光客が少なく荘厳な雰囲気、古代に連続する自然景観の中、調査の中で遭遇する幸運を味わいました。
対馬最大の平野(佐護川河口)、
最大面積の水田の堆積物は表土30cm程度で、ボーラーでの採掘ができませんでした。
が、
付近で佐護川の護岸工事の現場には、路頭が観察でき不連続ながら下部の堆積物が手に入りました。

2 MIS2とMIS3そして現在

 不十分な分析ながら、壱岐と対馬の堆積物の花粉分析から、約2万年前以降の植生変遷が見えてきた。中でも壱岐島の場合、最寒冷期には、亜寒帯性の針葉樹林と落葉広葉樹の混在する森林が成立し、その後、一時的に草地が拡大していたようです。日本では寒冷期の草原植生は、類例が少ないのですが、YD(ヤンガードリアス)期の事例になりそうです。韓国の分析例には認められていました。

韓国の分析結果は、Kee-Ryong Choi (1989)より

 壱岐島では、寒冷期に草原が広がりました。その背景を考えました。九州本土により近い位置にもかかわらず、海面が低下した最寒冷期、陸化した広大な平地の中で、壱岐島は孤立した台地状態でした。対馬暖流の影響もなく乾燥が卓越した内陸気候は韓半島と同様に草原が成立したと推察しました。ただし、海面の上昇とともに海洋性気候が復活した壱岐島では、比較的短期間で森林が復活し現在に至りました。

3 気候変動は循環しても、植生変遷は循環しない!?

 その昔、ドイツ語の科学用語として、主な氷河名がギュンツ、ミンデル、リス、ウルム(アルファベット順のG-M-R-U)が教科書に出ていました。世界中の高校生が暗唱していたかも知れませんね。現在ではMIS(海洋底堆積物中の酸素同位体比から番号が付されており、1から26のステージ)で定義されています。

https://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_05v101.pdfより

 寒暖の繰り返しという循環は明確ですが、変動幅と変動期間など細部には多くの差異(亜氷期や亜間氷期)があります。また、寒冷期(偶数)から温暖期(奇数)への変化が急激である一方、温暖期から最寒冷期へは比較的長期にわたっています。この急激な温暖化に合わせて、暖地性の植物が分布拡大できたのでしょうか?
 現在はステージ1の頂点にあリ、暖帯性の常緑樹林(照葉樹林)が分布を拡大させて来たようですが、過去の温暖期は適応した種群は異なっていたようです(ステージ5ではサルスベリ属が繁茂していました)。一方、冷温帯性の樹種は、残存できたのでしょうか?
 気候変動に応じて、変動以前に分布していた植物群の復活は十分な時間とともに気候の安定性や地形的な環境が必要です。冷涼で湿潤な気候に適応したブナ林は、寒冷期には分布を低地にまで分布を拡大していたと考えられますが、低海抜地が卓越する房総半島には温暖期に残存できなかったと考えています。植生図は、温量指数とよく対応しますが、履歴として過去にも対応していたとは限りません。
 ブナ林は鹿児島まで分布しますが、壱岐・対馬、そして千葉県には分布しません。おそらく、対馬の山岳地は生育可能な気候条件が復活しましたが、ブナが残存していた南部から北上するためには、壱岐を含む北九州の乾燥した地域が障害となりました。一方、対馬南部の龍良山の照葉樹林は、最寒冷期でも黒潮が南部に迫っていたことで、対馬全土へ分布拡大の起点となったと考えられます。
 壱岐島での分析から、これまで漠然と考えていた気候変動と植生変遷との対応だけでなく地形環境の影響を理解したように思えます。(壱岐「島の科学研究会」の皆様には大変お世話になりました。)さらに、種の特定はできなかったが、壱岐島の草原植生を推察した層準からは、高山植物を含むトウヒレン(Saussurea)属の花粉が14粒産出していました。今後、さらなる研究が深まることを期待して、

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