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私のお気に入り 3 韓国済州島その2

 表紙写真は、多分、五島列島上空からの海域です。この海域が、アマダイの漁域であることなど、記します。済州島訪問以来、このブログ作成を契機に学び直せたことが、改めて嬉しい。2016年9月に民俗学者の高光敏先生とお会いした際のメモについて記します。高先生は、同年7月に日本の研究者(赤坂憲夫氏)と知り合い、東北芸術工科大学に招かれたばかりでした。
 私たちとの出会いは、ソウル大学に留学経験のある同僚のMさんが、訪問先の済州大学で熱意を持って交渉した結果、実現することになりました。それも、帰国日の午前中から空港に行くまでの時間内という、大変わがままな要望を受け入れてくださったのです。前の晩に、訪問先で疑問に思っていたことを、用意していました。聞き取りなので、間違った解釈があるかもしれませんが、まとめておきましょう。

はじめに高光敏先生の紹介から

(1) 日本との関係:日本はアジアの中で唯一、人文社会学が発達した国であり、民俗学を志していた先生にとって魅力的だった。先生が30代の頃、「1週間、韓国語を遮断した日本語漬けの生活で会話能力を身につけた。」との事、すごい!
(2) 研究の方法:研究費は自腹を原則にしてきた。地方への取材は、電話取材が中心であり、「以心伝心」をモットーに挨拶から始めるが、「挨拶の感触でOKが出れば、面会することなく70回の電話をかけた経験がある。」との事、すごい!!

先生(右端)、顔写真を出せないのが残念ですが、単刀直入、
虚飾ないお人柄、研究に真っ直ぐに情熱を注ぐ生き方、伝わりました。

1 アマダイの漁域
 「済州島と五島列島の海域は、アマダイの漁域とあり」、さらに、「チング(友達)」と記載されています。「釣りドコ」(https://turidoco.com/articles/22)によれば、アマダイの漁域は、「日本の中部以南から南シナ海にかけての海域にあり、日本海側に多い」とあって、高先生の示唆と一致してました。スーパーでも新鮮なアマダイが並んでいました(写真)。
 チングの意味について考えました。簡単なメモだけなので他にヒントとなるものは無いのですが、アマダイの漁域から、おそらくは、『自然資源を共有する人々は民俗学上の「友」である』と、類推しました。高先生の自宅には、各地のカゴなど民具がたくさん集められており、その形の類似性の研究から、共有する自然環境で生き抜く技術が道具に現れる。あるいは道具には文化が潜むと思えたからです。

多様なカゴが天井にかけられていました。
スーパーで、新鮮な国産の表示!アマダイと太刀魚
豊富な水産資源、サバ、ホウボウ、アマダイ、右端にタチウオ

2 済州島は韓国でも特別な島

(1)植民地時代の食事(韓国南部との比較をもとに)の話
冷たいご飯はご飯か?イワシは魚か?済州島の人は人間か?
この他に、チマチョゴリは本土から、綿花栽培ができなかった。農作物も異なる。製鉄の可能性は無い。鉄は倭寇がぶんどってきた。』のメモの中から次の3点について考えました。
 冷たいご飯について
 
メモには定住型放牧文化」、「生食文化」冬の越冬飼料「チョル」とあり、牛粥(火食)がヒントになりました。
 牧草畑は「チョル・ワッ」と言い、牧草は半島でも夏は生食として与えるが、済州島では冬でも乾草(チョル)を与えます。一方、半島では冬には火にかけたso(牛)juku(粥)を与えます。
 畜舎に入れずに年間を通して放牧が可能であった済州島の定住型放牧文化は、牛同様に冬でも、人間が冷たいご飯が食べられる温暖な気候が背景にあると考えました。いかがでしょうか?電子レンジがなかった頃、ふかしご飯より、冷たいご飯を好んで食べていました。
 イワシは魚か
 
この言い方は不可解ですが、済州島の人はイワシを食べていた。鱗が少なく身が柔らかいイワシは、日もちが悪く、生食は海岸地に限られました。おそらく、内陸地に住む人々にとって、「食べられる魚ではなかった」ということでしょう。
九十九里のいわし漁もかつては、食用ではなく干鰯(ほしか)などに加工された肥料生産が目的でした。
 済州島の人は人間か?
 この言葉も不可解ですが、半島の人にとって自然環境の異なる済州島の人は生活スタイルが独特で、その意味で同じ人間ではないということでしょうか?
 特に済州島独自の究極のSDGsがありました。この点に関して、高先生が力説されたのは、人間は食事文化のみを取り上げるが、排泄の文化はないとしている点です。農業が土・水・排水を必要とするように、排泄を取り上げる必要性でした。
 以下、3究極のSDGsとも言えるトンテジについて、先生の論文を紹介しましょう。

3 究極のSDGs 城邑民俗村

この村は、古く1423年から約500年の歴史があり、当然ながらチャングムの時代(15世紀後半)
に合致します。現在は観光地化していますが、復元された家屋が映画のセットのように並んでいます。その一方で、現実に住んでいる家もありました。庭にはカボチャや大豆が植えられておりました。

 さて、この村では豚が飼育されていました。上の写真、下段左の石ぐみの小屋の脇に石垣で囲まれた空間がありました。石垣の上に、1箇所、平板状の石が並んで置かれていました。そこに上がって用を足すと、トンテジの登場です。この説明をするガイドさん、全く平常心で屈託がありませんでした。
高光敏著(排泄の民俗と民具)によれば、済州島では人糞を豚の飼料にしていたことが示されています。参考までに、

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No02/114-120J.pdf

 美味しい黒豚になるそうですが、さすがに1970年代に開始されたセマウル(新しい村)運動によって、改善されたようです。有機農法で採れた野菜は美味しく感じます。おそらく、添加物の少ない時代ならば、食物連鎖(生食連鎖でも、腐食連鎖でもない)の一部に含まれる、健全な循環だったと思います。
 日本でも、かつて東京都民の排泄物は船で東京湾に運ばれ、外洋で放出されていたようです。子供の頃、隅田川にかかる永代橋の下をくぐる平坦な形の船を何度も見ました。間接的に循環していたかもしれません。
また、郊外の田舎のバスに乗るとあの香水を感じたものでした。こちらは、腐食連鎖か畑に利用されていました。
 昔は良かった!懐しい!循環型社会の実現!言葉は踊ります。しかし、今振り返れば、過去とは訣別した新たな方法の開発が必要ですね。

次回は、農作物や樹木など高先生からお聞きしたことをまとめます。


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