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花粉と歴史ロマン 武蔵野と雑木林

1 思い込み

 1975年9月上野から特急「ひばり」で着いた仙台、路面電車(市電)が走っていた。初めての東北、北杜夫が過ごした大学の町、ケヤキ並木に包まれた涼しい空気に包まれていた。宿泊先の旅館で、食事を片付けにきたおばさんが、残した漬物を素手でつまみ、「塩辛かった?」とパクリ、その後、布団を敷きに来たのはバイトの大学生だった。ダイエーがあった。高知のダイエー店でバイトしたこともあり、懐かしさで入ってみると、建物の中は愛想のない従業員、期待していた笑顔が少ないな、と感じた。同じダイエーは思い込みでした。
 翌年、仙台に来ることができた。1976年3月で市電は無くなっていたが、紹介された食事付きの下宿は亜炭を燃料とする五右衛門風呂、私の部屋は2階の6畳間で東西南北に窓があるが、雨戸が無く、冬は室内が氷点下になった。風呂場の問題もあって、仕方なく愛宕大橋を越えた先の銭湯に通った。冬、帰りに愛宕大橋を渡る風は冷たく、部屋で櫛を入れると白い粒が櫛の目についてた。初め、フケかと思い込んだが髪の毛についた氷であった。その後、移った広瀬川沿いの下宿(アパート)は、アパート名に「牧場」がついていた。地名表記にも、御霊屋橋、米が袋、土樋、など歴史の余韻が残っていた。 
 ブナ林の研究者であるBunaさんですら、「杜の都」仙台は、駅を降りるとブナ林が付近にあると思い込んでいたそうです。

2 ケヤキの故郷はコーカサス地方

 仙台の街路樹はケヤキですね。ケヤキの属名(Zelkova)がロシア語のようだと、その昔、Takatsさんからも聞かされていました。思い出して、少し調べてみました。Takatsさんの推察通り、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方の町の名に起源があるそうです(Reader's Digest Trees and Shrubs: ”Cucasian elm  Zelkova carpinifolia”)。

 さて、ケヤキと同じニレ科のエノキが、30年以上前に空き家となった隣地で大きく育っています。ところが、最近、アカガシ(左)が目立ち始めました。
 エノキが大きくなる過程で、ヤマグワが枯れました。このまま、常緑のアカガシが大きくなると、エノキは負けてしまうのか?エノキが枯れるとアケビやツルウメモドキもなくなり小鳥も姿を消すのでしょうか?

夕陽が透けて見える秋になりました(九十九里町)。常緑樹だけなら、この風情は出ませんね。落葉樹の風情は、枯れ葉とともに訪れる、寒いけど明るい冬を予感させてくれます。

 仙台の街路樹はケヤキの他に、イチョウや片平にはメタセコイアなど落葉樹が植えられていますが、シラカシなど常緑樹も繁華街を中心に植栽されています。
 カシ林の分布限界域とされた仙台付近は、温暖化と人為的な植栽によって、常緑樹の森の街、仙台に変容してしまうのでしょうか?
 植栽だけでも落葉樹にしてほしいものです。

3 ケヤキとコナラ

 樹木の分布は、およそ温度と降水量によって決まります。さらに、各温度帯の中で、人為の影響が少なく十分に安定した優占林が気候的極盛相林として注目されていました。
 生態学の教科書でも「原植生」と「潜在自然植生」の違いを説明する場合に、組成的にも独立性の高い気候的極盛相の森林が代表となって、「冷温帯はブナ林が優占する」と思い込んでいました。確かに典型的な自然林を対象にすれば、例外的な孤立分布を除けば気候と対応していたのですが、、。
 また、気候変動の中で、寒冷期には高山たいや亜高山帯の樹木が低地に分布し、温暖期にはそれらが高地や北部に分布域を変える、「森が動く」というシナリオです。過去の森林を推定するには、現在の情報が基本ですが、「寒・暖・温」という気候変動をセットとすれば、現在(温)は、近い過去(暖)と遠い過去(寒)を考慮しなければなりません。
 ところが、平野部を主とした花粉分析の結果からは、現在よりも冷涼な「寒」の時代でも、東北地方太平洋側や房総半島はブナ林で覆われたことはなく、ケヤキやコナラを含む落葉樹や常緑樹からなる森林が広がっていたと考えられます。

佐倉市と八街市を結ぶ道路沿いにケヤキの大木が目に入ります。地名にも一本榎(下の写真)がありました。
佐倉ー八街 県道277号線、Yahoo地図より転写
佐倉市市立美術館から、左手に歴博、右手に印旛沼が、台地上は常緑樹のスダジイやシラカシが多いのですが、落葉樹も交えているはずで、季節を変えて撮影する予定です。

 約1万年間の気候変動は、数千年単位の「寒暖温」に加えて、マツ属の急増を目安に人為が考慮され「温」の時代が、約1500年前を境に二分されるようになりました。
 イネ科花粉の増加傾向も同調的であることから、稲作開始に伴う森林破壊を示すものと、理解されました。しかし、平地の稲作以前の森林破壊や人為の影響についての具体的な研究方法(指標植物の抽出など)は深まりませんでした。

4 国木田独歩の「詩趣」

 都立江戸川高校の校歌は「武蔵野の東を限る江戸川の〜」で始まるのですが、武蔵の国の範囲であっても、武蔵野まで接近させるのは無理では?
 武蔵野といえば、国木田独歩の「武蔵野」ですが、「武蔵野は、俗にいう関八洲の平野でも無い」として、東京は除外するものの、都内であっても町外れ(渋谷の道玄坂、目黒の行人坂、早稲田の鬼子母神辺り、新宿、白金・・・)を含み、西は多摩川、東は隅田川に接する亀井戸の錦糸堀のあたりから木下川辺にかけてを範囲としています。さらに、水田と立木と茅屋の存在によってを成す場所が基準にされています。さらに、富士山や筑波山が遠景に入る場所も、関八洲の一隅として含めており、南北に関しては、北は雑司ヶ谷から板橋、川越、入間郡の一部を経由して立川駅まで線を引いています。その中で所沢、田無を挙げていますが、八王子は含まれず、西半面は布田、登戸、二子、東方面は亀戸から小松川、千住近傍までの範囲としています。

 江戸川高校の校歌は、「武蔵野の拡張」と要らぬ心配をしていましたが、本家「国木田独歩の武蔵野」のお墨付きを得たようで、まさに東を限る場であり安心しました(笑)。

では、武蔵野の「趣」はどのような場所なのか?
 「武蔵野」(河出書房 日本文学全集 別巻1)は最後の章で、「一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しうる場所」として、「田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような・・・」と続けています。1〜8章までは、武蔵野の秋から冬にかけての情景描写が主で、楢(ナラ)の類とする落葉樹林の環境美(詩趣)が描写されており、平地の林には人の出入りを示す幾筋もの道や小川など人為的な影響を受けた二次林の様相が示されています。
 
 したがって、国木田独歩の武蔵野は東京の西部地域に限定されたものではなく、隅田川のさらに東側の範囲も含め、平地林や畑、水田など自然と結びつく生活感のある場所と考えられます。そこは、周辺の町はずれの人の生活が含まれた空間であった。
 国木田独歩は、西国(西日本)や北海道の「深林」、那須野とも異なるとしています。言い換えれば、暖温帯と冷温帯の中間帯の森林(中間温帯林)が想定されますが、加えて都会との近さ人々の暮らしを感じ取れる場所に大切な要素があると言えるでしょう。ただし、社寺林には触れておらず、生活の要素が必要でした。

5 自然と半自然

 西日本で少年期を過ごし、学生として東京に出てきた独歩は、北海道の針葉樹林や落葉樹林を含む「深林」も知っており、より人為の及んでいない「自然林」を対象にしていません。また、常緑樹林域の二次林ではなく、武蔵野の雑木林に想いを馳せています。自然そのものとは異なる林に魅かれていました。
 その契機となったのが、ツルゲーネフの「あいびき」であり、植物帯の違いを踏まえた上で「樺の木」と「楢の木」に共通した落葉樹林の季節的な変化とそこに暮らす人々を重要視しています。
 おそらく、ツルゲーネフの「微妙な叙景の筆の力」に合わせて、それまで体験してきた落葉樹林の趣を再確認し、さらに少年期に過ごした山口県の熊谷直好の「和歌の心」を自覚するなど、落葉樹林が有する「半自然」の力に魅了されたのだと思います。

1997年シベリア 落葉広葉樹(ヤマナラシか?)広大な樹林、親しみが及びにくかった。ただし、風に騒ぐ葉音の流れは気温の低下以上に、秋の訪れを感じさせてくれました。

 独歩の「風の音は、人の心を遠くに誘う」経験は、風の音の遠近の変化から「さらに遠い昔の生活を思い続けたこと」につながっています。

 本文の作成は、河出書房 日本文学全集 別巻1の現代名作集に収められていた「武蔵野」と注釈を参考にしました。今回はここまで、ご愛読ありがとうございました。

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