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1999年から2003年までの阪神タイガース その㊳

尼崎市。
男は市営住宅に住んでいた。

幼い頃に両親が離婚。
脚の不自由な母と二人暮らし。

生活は貧しかった。

男は朝早くから町工場で働き、
脚の不自由な母は内職を生業とした。
二人は汗を流し生活を支えた。

男の勤続は24年。
仕事を休んだ事は一日も無い。
ひたすら流れてくる機材を組み立てるライン作業。

職場では必要以上の会話は無かった。
休憩時も一人。

12時になるとそそくさと二階へ。
テレビから流れる連ドラ。
古いポットから急須にお湯を入れ、注ぐ。
休憩室で博打や風俗・酒の話題で盛り上がる仲間を横目に男は一人で弁当をむさぶった。

馴れ合う事も、味わう事も無い。
学校にも職場にも居場所は無い。
見るからに冴えない男。
彼はいつも一人だった。

「あいつは何を考えてるのか分からん」
「関わらないのが一番や」

周りの人間はそう揶揄した。




誰もがみんな、男を避けた。



そんな男には愛するものがあった。
17時にタイムカードを切った瞬間、
男は変身する。
ボロボロの自転車を漕ぎ向かうべき場所へ。

阪神甲子園球場。

素盞嗚神社の駐輪場へ自転車を停め、
当日券で外野自由席を買う。
SSK・関西ペイントの常連だった。

リュックには年季の入ったサテンの法被。
席を確保。
法被に袖を通す。

男の「勤続年数24年」は職場だけでは無かった。

男の楽しみは二次会。
21号門前が彼のホーム。
アイパーの二次会の常連。
暗く、冴えなく、人から避けられる男はスリーコールで見違えるような笑顔を見せた。


自宅へ帰るといつも母が話しかけてくる。

「おかえり。ええ試合やったね」

「そうやな」

男と母の会話はこれだけで成り立った。



そんな日常が24年続いた。
阪神は長いトンネルを抜け、
暗黒時代は終わろうとしていた。


阪神は見事な快進撃を見せた。
尼崎の街はタイガースカラーに染まった。
2003年9月15日。
タイガースは優勝。セリーグを制覇した。


男は既に42歳になっていた。
男の想いは
どうだっただろうか?


9月16日。
男は午前の仕事を終えいつものように休憩室に上がり弁当袋を開けた。

年季の入ったタイガースの弁当箱。
旧トラッキー。
その日。弁当に手紙が添えられていた。


「阪神優勝おめでとう。
いつもお母さんを支えてくれてくれてありがとう。
あなたのタイガースへの愛は本物。
尼崎、いや、日本で一番よ。
お母さんが証明します」

男の目からは涙が溢れた。
泣き叫ぶ男。

遂にキチガイが壊れたと職場の人間が慌てた。


母は毎日職場に向かう息子の弁当を作り、男を支えた。
年季の入った男の法被にアイロンをかけ、球場に向かう息子の健康とタイガースの勝利を願った。

脚の不自由な母は球場に行けなかった。
「サンテレビボックス席」で毎日毎日タイガースを応援した。
息子が球場に行っている事を思うと心が高揚した。息子のタイガース愛は母の誇りだった。

母と息子。

二人のタイガース愛は本物だった。
息子は母を支え、
母は息子を支えた。
そして、二人はタイガースを支えた。

内職の音。
町工場の音。
母がかけるアイロンのシュッとしたあの音。

その生活音は六甲おろしのメロディのように美しく、尼崎市民の生活を支えた。

「母をいつか甲子園に連れて行こう」


2003年9月16日。
タイガースを愛した男。

前日の星野仙一と共に
この男も名言を残した。



続く

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