『推し、燃ゆ』読解
〈肉体〉と「あかり」
『推し、燃ゆ』は、語り手である「あかり」の〈推し〉が炎上するところから始まる。
まずは、「あかり」について考えてみる。
彼女は〈肉〉〈肉体〉という語を多用する。
「あかり」にとっての〈肉体〉は不快をもたらすものであり、そのような意味で彼女は〈肉体〉に拒まれているといえる。
以下の引用部に示される「あかり」の行為は、そのような〈肉体〉に対する反抗心のあらわれとして受け取ることができる。
〈言葉〉と「あかり」
『推し、燃ゆ』において、このような〈肉体〉への反抗は〈肉体〉からの逃避と表裏一体である。
私が重要だと思うのは後者で、それは〈もの〉(〈肉体〉)から引き離された〈言葉〉によって可能となる。
こういった〈言葉〉による表現は、表現されている〈もの〉を見失わせるほど仰々しい。
例えば、冒頭の一文「推しが燃えた」は、実際に推しの体に火がついて炎上したという意味ではない。
仰々しい〈言葉〉による表現の多用は、〈もの〉(〈肉体〉)からの逃避を試みる意志と無関係ではないだろう。
「あかり」自身もそのことを分かっているようである。
『推し、燃ゆ』本文の随所に見られる仰々しい〈言葉〉は、指し示しているはずの〈もの〉に及ばないのだとしたら、それは〈比喩的〉であるといえる。
さらに、相手に対してあらかじめ共通化した直観を期待している点を踏まえると〈隠喩的〉である。
「推しが燃えた」の意味がより正確に伝えられるためには、語り手と聞き手(読み手)との間で、「燃えた」の真意と事態の深刻さがあらかじめ共有されていなければならない。
つまり〈直喩〉とは提案であり、〈隠喩〉とは黙契を信じた上での冒険である。
仮に黙契が成立しないまま〈隠喩〉を使用した場合、その〈隠喩〉はひとりよがりの〈言葉〉に成り下がる。
これが〈隠喩〉の危険性であり宿命でもある。
〈隠喩的〉な表現(仰々しい〈言葉〉)が多用された「あかり」の語りは、伝わらないかもしれないという危険性を常に孕んでいるのだ。
それでも彼女は〈隠喩的〉な表現で構築された世界を手放さない。
〈推し〉と「あかり」
ところで、「あかり」にとっての〈推し〉とはどのような存在なのだろうか。
手がかりは以下の表現にあると考えられる。
「あかり」にとって〈推し〉とは〈一体化〉すべき存在であり、そのために〈解釈〉をし続ける。
しかし、〈解釈〉は「あかり」を〈推し〉との〈一体化〉へと導いてくれるのだろうか。
おそらく、〈解釈〉し続ける限り「あかり」は〈推し〉と〈一体化〉できない。
なぜなら〈推し〉が活動を続ける限り、新たな一面が出現しつづけ、それが〈解釈〉の更新を要求するからである。
「あかり」は〈推し〉からも拒まれている。
因みに推し活も〈隠喩〉によって示される。
推し活は〈背骨〉(〈隠喩〉)であり、〈中心〉である。
「あかり」を取り巻く〈隠喩的〉な世界の〈中心〉に位置しているのが、推し活であるといえる。
〈家族〉と「あかり」
「あかり」は高校を中退し、「母」から就活するように言われるが、意欲的にやろうとしない。
「母」は「父」とともに「あかり」を問い詰める。
〈隠喩的〉な世界の中にいる「あかり」は、その外にいる「父」や「母」に対して己を説明するための〈言葉〉を持たない。黙契がないのである。
だから「あかり」は「誰にもわかってもらえない」と嘆くしかない。
「あかり」は〈家族〉と〈言葉〉にも拒まれていたのである。
そんな中〈背骨〉に必要だった〈推し〉も引退してしまう。
現状から脱却するためには、〈隠喩的〉な世界を壊すしかない。
〈隠喩〉の外へ
「綿棒」は「綿棒」であり、「骨」ではない。〈隠喩〉の衝動は抑えられ、代わりに〈直喩〉が出現する。
「お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった」
これが「あかり」にとって、〈他者〉へとつながる一本の通路(〈言葉〉)であると、私は思う。
引用した書籍
・宇佐見りん(2023). 河出文庫『推し、燃ゆ』 河出書房新社
・佐藤信夫(1992). 講談社学術文庫『レトリック感覚』 講談社
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