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キタダ、詩を読む。…VOL.11 自作について②

あまりしたことがないことをします。
自作の句について少し書きますね。

キタダヒロヒコ「経験」より


聖経験光りては消ゆる古代かな

人類が繰り返してきたおびただしい経験。古代には生命を代償にした「治験」もあったでしょうね。これは食べられるか食べられないかとか、大きな生き物との対峙とか。すべての経験が聖なるもの。「消えては光る」でなく「光りては消ゆる」と書かれたことで、経験の代償としてはかなく消えていった無数のいのちを哀惜している感じがします。


血を頒くる偽書のかさばり東京市

昭和18年7月まで存在した「東京市」。明治、大正、戦前、戦中の歴史を背負った地名です。政治と戦争のにおいを、わたしは感じとってしまう固有名詞です。そして「政治」と「歴史」は、おびただしい「偽書」の集積を連想させます。東京市中を闊歩したスパイたち、リヒァルト・ゾルゲとかのイメージもまとわります。そして東京市は、まさにいまの東京なのです。現在も無数の「偽書」が「過去・現在・未来」を動かしているのでしょう。まるで「血を頒ける」ように、機密や大きな嘘が共有されて、街は、歴史は、人間は続いていく。みんなどこかでそれを知りながら、東京市がそのまま生き延びている東京で、日々の人生を送っている。そんな思いで書いた句です。


王貞治討ち取れば舞ふ奴凧

絶対的な強打者、世界のホームラン王「王貞治」。昭和のイメージをふんだんにまとっている固有名詞です。そして昭和後期の東京のイメージをも。その意味で、この連作の他の句と地下水のようにつながっているような気がします。その強打者を討ちとれば、王のホームランよりもはるか高くまで奴凧が舞いあがる。もちろん心象風景です。東京が江戸に還ったかのような。


襟ひらくデッキブラシの並びゐし

自分でもなかなか謎な句で、うまく理解できていないのですが、ある人が読んでくれたように「デッキブラシ」を比喩ととるとたしかに面白いですね。襟を開いている青年たちとデッキブラシの親和性はたしかにあるとおもってます^^


ぐいと水地球に注ぐ冬の終(は)て

雪解けと読んでくれた人もいます。なるほどです。ただ、自分で読み解いてみると、「ぐいと」に能動的な力を感じるので、やはり誰かが「地球」に水を「注いでいる」。自然が「意思」をもって動いている感じに読めてきました。それが「春になる」という明るく優しいイメージでなく、「冬が終てる」という「終わりのイメージ」で語られる。地球から見れば人間がのさばっている現代が「冬」で、自然が大きな意思をもって「冬」を終わらせる、ぐい、と力を入れてたとえば南極の氷を解かせて「地球に水を注ぐ」。これは解説とか正解ではなくて、そんな風に読んでみると面白いかなと。


この連作は、古代から現代までの人間の「経験」を歌った一連ということになるでしょうか。

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