干潟の伝統漁3

ウナギの寝床

「例(たと)え」で、ウナギの寝床という言葉がある。間口が狭く奥行きの深い細長い建物の例えだという。ウナギが孟宗竹を切った竹筒や丸石を積み上げた土手の狭い隙間(すきま)に入り住み家としている生態から、狭く細長い場所をウナギの寝床と言ったらしい。
 それとは別に、実態として「ウナギの寝床」があり、そこに何匹か集団でいるということを子どものころに体験したことがある。ウナギの寝床を海た湖沼に潜って実際に見たわけではないが、海釣りと湖沼釣りで寝床があり集団でいることを体験した。それだけのことだが、貴重な報告だと思う。
 小学校高学年のころ、1960年代後半ころの暑い盛り、大船が係留される湾で太鼓リールを付けた長竿で夜釣りをした。狙いはウナギ。竿先に鈴をつけ、ウナギがかかって竿先が揺れると鈴が鳴る仕掛け。エサはアサリ。
 ウナギが釣れた。また同じ場所で釣れた。少し場所をずらしたら全く釣れなくなった。ウナギは一匹釣れた特定の場所でしか釣れない。その特定の場所に何匹か集まっている。経験からウナギは特定の場所に集まっていることが分かった。多分、そこが寝床だと思った。
 次は海に近い大きな池。かつては釣り堀だった。小さな水門から海水が出入りし、水門の近くは真水と海水が混じった汽水域だった。池の奥の方はヨシが生い茂っていた。ヨシの周りには大きなコイが悠然と泳いでいた。秋ごろだった。ヨシの群生地に幾分かの隙間がある。コイを釣ろうとしてこの隙間に釣り糸を垂らした。エサはミミズ。ウキを付けてウキが立つようにした。ウキ下が長かったのか、池の底近くにエサが下りてしまった。
 やはり海での夜釣りと同じ。そこの場所でウナギが釣れた。また同じ場所に釣り糸をたれるとでまたウナギが釣れた。別の場所にエサと入れても釣れないし、ウナギが釣れた場所と20~30㌢ずれた場所でもウナギは釣れなかった。やはり、ウナギには寝床があり、何匹化が集まっていることを経験した。
 この体験から、ウナギはほぼ一カ所に集まっているらしいということが分かった。「ウナギには寝床があるらしいということを実感して釣り体験だった。
 寝床といえば落ちハゼも同じ生態だった。正月休みに小さな漁港に出かけた。釣り人がいて、体長20~25㌢程度の落ちハゼを十数尾釣りあげていた。ウキ釣りでエサはアオイソメ。ハゼは晩秋から沖合の深場に入る。型が大きく一般的にオチハゼとかヒネハゼと呼ばれてきた。
 しばらく釣果を見ながら釣り人の話をきいた。釣りあげたハゼはみな同じ場所、ポイントで釣ったという。少し離れた場所にエサを入れても食わないという。食わないということはその場所にいないということと同じ。
 厳冬期、海水温が低いので落ちハゼたちは一カ所に固まって身を寄せ合っているのだろうか。エサは目の前に来ない限り食いつかない。少し離れた場所にエサがあっても体と動かして食べにはいかない。仲間とじっとしている方が過ごしやすいのだろうと思った。

ウナギ・カマ漁

 カマは細い鉄棒3本の先をU字型に曲げて造る。集落の鍛冶屋に特注する。U字の片方は短くして数㌢から10㌢程度。3本のカマにウナギがひっかかるようにとがっている。採捕するウナギの太さによってU字のカマの大きさも異なった。鉄棒はスギの細い丸太棒にくくり付ける。丸太棒は太さ5、6㌢。長さは短くて5㍍強、長くて8㍍程度。漁をする場所の水深によって使い分けた。

2022年12月4日開催の京都・東寺ガラクタ市に出品された2本のウナギカマ

 漁場はヌタ場。ヌタとはハスやクワイ栽培の水田や沼田のように底地が泥になった状態。泥というと、汚いと思われるが、有明海の干潟の泥と同じように腐敗臭はなく、きれいな状態の泥。
 夏場、水温が高くなった時、ウナギは泥の中に潜る習性がある。カマ漁はカマを海底の泥の中に入れてひっかくだけの作業。小舟の舷(げん)の縁(へり)に杉丸太を当ててカマを泥の中に入れて、丸太棒を両手で手前に引き、海底のカマを搔(か)かき上げる作業を続ける。
 手前に引くときは力のいる作業で、片足を縁にかけて押し、体を後ろに倒す。何度もこの繰り返しで、カマにウナギがかかったらカマを舟の胴の間に上げてウナギを落とす。ウナギは体をよじるので簡単にカマから外れる。単純な力仕事の作業だ。
 カマの形状は国内どこも似たり寄ったり。小舟でのカマ漁は利根川の河口に近い汽水域などでも行われている。福岡県の筑後川河口域でもカマ漁をする漁師がいる。筑紫地方のカマはTの字型で、Tの先端の両端にカマが付いている。Tの長い鉄棒の柄(え)が中心にあり、鉄棒から両端のカマまでの長さは35~50㌢程度。ひと掻きで2回掻いたことになるので効率が良い。漁は川の中に胸まである高さがある長靴「胸長」をはいて川の中をひっかく。
  

大ウナギ

 日本ウナギは雌雄同体と専門書に書かれていた。いつごろ、雌雄が分かれるかは不明という。寿命は約10年といわれている。成長には雄雌の差があり、雄は約5年で、雌は8年から20年かけて成長するらしい。雄の方が寿命が短い。雌は産卵期を迎えると胸鰭(びれ)が大きくなる。ヒレの筋は鰭条(きじょう)と呼ばれる。この鰭条が大きい鰭を支えるため太くなるとされている。
 成長して10年以上過ぎたウナギとか20年ぐらいもたったウナギも見てみたいが、1950年代後半、カマ漁で採捕されたウナギの中に、大人の二の腕ほどもある太さの大ウナギを見たことがある。大ウナギと言ってもいわゆる南洋系の大ウナギではなく、ニホウナギ゙の超ジャンボサイズのこと。大ウナギを見て、10年以上は間違いなく生きていると思った。
 大きさや太さで年齢は軽々しく判断できないが、ここまで大きくなるには相当の歳月がかかっているとしか思えなかった。これを見た漁師仲間は「ヌシ」と言った。ヌシは神様的な存在。ここら辺りの海のヌシだとしたら、捕獲したら放さなくては祟(たた)りがあり、バチがあたる。捕まえて放さなかったので祟りが心配だった。
 1週間もたたないある日の午後、近所の家の庭で遊んでいて、右目を手で押さえて自転車で急ぐ父の姿を見た。胸騒ぎがしたので急いで家に戻り、自転車で急ぐ父の話をした。ナタでマキ割りをしていて、マキの破片が飛んで右目を直撃し出血したという話を聞いた。大ウナギを捕獲した祟りではないかと思った。
 ウナギの仲買商での買い値は中(ちゅう)と呼ばれる太さ3、4㌢程度の大きさが一番高値を付ける。このぐらいの大きさがウナギ料理店でかば焼きとして提供される。太くて大きなウナギは焼くと油が乗り過ぎてギトギトしている。蒸かしても皮が固い。関西風の蒸かさないで焼くだけのかば焼きではまず、硬くて箸(はし)では切れないという。というわけで、価格はまだ小さなメソッコと呼ばれる小型サイズのウナギより安い。メソッコは養殖業者に転売される。
 ウナギを2、3匹釣ってきて、自分ではさばけないので、七輪に炭火を熾してウナギをそのまま網に載せて焼く。飼っているシャモと金鶏鳥にエサとして食べさせた。丸かごに入れてあるシャモを放つと、焼いているウナギのそばに近寄ってくる。焼けたウナギの放り投げると冷めるのを待って食いつく。くちばしを左右に振って身をほぐして食べる。
 飼育される鳥は行儀が悪い。かつてオオタカがハトを捕まえて食べようとしていたシーンを目撃した。オオタカは毛をむしったハトをくわえて低空飛行で逃げ去った。毛をむしった跡を見ると、むしり取った毛を直径30㌢ほどの円形にきれいに並べてあった。何か儀式をしていたようにも見えた。
 シャモも金鶏鳥もウナギを食べると、見違えるように毛艶が良くなる。シャモの尾羽は孔雀の羽に似てコガネムシの羽の風合いをして鮮やかだ。ウナギをエサに食べると羽の風合いが一層鮮やかになる。さらに顔つきが精悍(せいかん)になり、目が輝き、睨(にら)みが鋭くなる。
 ウナギを食べると精力が付くといわれるが、シャモも見ていると精力がつくのがはっきりと分かった。金鶏鳥の雌も卵を毎日産むようになった。犬や猫にも焼いたウナギを食べさせたことがある。毛艶がかなり良くなった。
 ウナギの血とヌメヌメしたヌメリは毒があるといわれてきた。タンパク質系の毒といわれ、熱に弱く、炭火で焼けば毒が消えるとされてきた。だから、シャモや犬に与える時でも姿のまま必ず焼いた。

ポッポ(竹筒漁)

 原初的な漁法。ウナギが狭い場所、隙間(すきま)を好む習性を利用した漁法で、ウナギは筒の中を住み家と思って安心しているらしい。東京湾など各地の内湾、浜名湖や涸沼(茨城県)などの湖沼、四万十川(高知県)、夷隅川(千葉県)などの河川で古くから広く行われている。
 漁期は水温が上がりウナギの動きが活発になる春から秋にかけて。水温が高めになる夏場が盛期となる。仕掛けは簡単。孟宗竹の直径4~6㌢程度の太さの場所を約80㌢の長さで切り、竹の節を鉄棒できれいにそぎ落としてくりぬく。
 竹筒は1本ではなく、竹が太い場合は2本、細い場合は3本にまとめ、筒の両端から15~20㌢の場所を荒縄や太目のナイロンロープなどでひとくくりに束ねる。束ねた箇所に縄やロープを通して吊(つ)り合いを均衡に取り、長さ250~300㍍の親綱にかけてヌタ場の深場に沈めるだけ。竹筒の間隔は2、3㍍置き。300㍍の親綱に3㍍間隔で竹筒を付けるとした場合、両端を抜かして約98個の竹筒仕掛けが必要となる。
 竹筒には筒に入ったウナギが逃げ出さないようにした反(かえ)しは付けない。反しが無くても、ウナギは逃げない。近年、孟宗竹が入手難とあって、排水管などに使う塩化ビニール管を代用する場合も多い。
 子どものころ、干潟に泳ぎに行って、遊びがてら面白半分に仕掛けてあった竹筒を引き上げてしまったことがたびたびあった。もちろん、所有者がいるわけだから、勝手に引き上げて筒に入っていたウナギなどを採捕したらドロボウになる。
 竹筒を見つけ、筒の端を掌(てのひら)で押さえて筒を立てると掌に軽くウナギが当たる感触がある。子どもが遊び半分にやっているので、ウナギが筒に入っていても採捕するわけでもない。でも、筒を仕掛けた所有者に無断で引き上げたのでドロボウはドロボウだ。
 仕掛けた漁師はどこの家の子どもがいたずらしたか分かっている。分かっていても知らんぷりして見逃してくれた。高校生のころ、その所有者がたまたま通りかかり、縁側でお茶を飲んでいた漁師仲間に加わった。そのとき、「あんたが上げたってこと知ってたよ」と笑い顔で言われた。貴重な体験をさせてもらって、しかも知っていながら見逃してくれて、もう感謝するしかなかった。
 近くに東京水産大学(現在の東京海洋大学)の実習場があった。実習場と言っても学生の姿を見たことは一度もなかった。実習場には竹筒があちこちに置いてあった。どれも干潟が干潮時に干出する場所だった。「こんな水もない場所に仕掛けたってウナギが入るはずがない」と思いながら、筒を取り上げてもやはり何も獲物は入っていなかった。大学で干潟での漁業実習があるんだとか、結構いい加減な実習で点数がとれるんだなと思ったことがある。
 竹筒を仕掛ける場所はどこでもいいというのではない。できるだけきれいな泥がたまったヌタ場がベスト。ウナギがヌタ場を好むからで、竹筒はヌタ場でも沈まないようになっている。干潟なら舟が航行できるように浚渫(しゅんせつ)して深掘りした澪(みお)の中。河川は淵のある護岸際(きわ)、ヌタ場の多い湖沼でもやはり舟が航行できるように深掘りした場所がベター。
 仕掛けは澪筋、護岸筋に沿って沈める。仕掛けた場所の両端に小さな赤い旗の棒を立てるなどして目印にする場合が多い。ウナギを取る網は直径30~35㌢程度のタモ網。網は布でも構わないが、網に入ったウナギが逃げないように底を深めにする。漁師はだいたい手製のタモ網を持っている。
 筒を引き揚げるのはだいたい満潮になって潮の流れが落ち着いている時間帯。上げ潮時にはプランクトンが動くので、これを捕食する小魚、小魚を狙う中型の魚類はエビや小さなカニを捕食するウナギの動きが活発になる。だから上げ潮が落ち着く満潮時には胃袋を満たしたウナギがひと休みするのに筒に入るというわけだ。
 仕掛けはそっと親縄を手繰(たぐ)り寄せ、竹筒が並行に上がるように静かに持ち上げ、竹筒の片方を網に入れて筒を立てて軽く揺するだけ。ウナギが入っていれば、筒から出て捕獲できる。ウナギではなく、マハゼが入っていることもある。筒から網に入れるだけなのでウナギを傷つけることなく採捕できる。この漁法の良い点はウナギの魚体のどこにも傷をつけないこと。だから、ウナギが十分に成長していないメソッコはそのままリ放してやることができるという点だ。
 自然相手の漁だから当然、当たり外れがある。全く採捕できない時もあれば、多くの筒に「中」(ちゅう)と呼ぶ、ウナギ仲買商が高値で引き取るウナギが入っている時もある。漁が多いのは潮の干満差が大きい大潮の時期、干満の差が小さい小潮周りの日はやはりウナギも動かないので漁が少ない。干潟の澪に海水がたまっていても、潮汐に左右されるから不思議だ。
 ウナギ筒漁は夏場、内湾一帯で行われていた漁。漁具は孟宗竹の筒。孟宗竹の口径4~6㌢部分を長さ約1㍍に切り、節をきれいに金棒でそぎ落として使った。この竹筒を2本束ねて2カ所をしばり、ミチナワ(幹縄)と呼ぶ荒縄につけた。親縄のミチナワは漁場によって延長100~300㍍ほどあり、竹筒を3㍍間隔ほどに付けた。干潟には潮が退いて干出する陸地に大船が航行する澪(みお)があった。水深10㍍、幅20~40㍍ほどの澪を大澪と呼び、大澪と交差する深さ数㍍、幅10㍍ほどの澪を横澪と言った。
 澪の海底には砂地の上に泥が堆積して、有明海のようなヌタ状態になっていた。ウナギはこの泥地にいて、この澪筋の端に沿って筒を海底に寝かせて仕掛けた。ミチナワの両端は旗の付いた竿を立てて固定した。旗が所有者の目印だった。
 ウナギは泥地にひそんでいる時、体の大きさに合わせた穴が必ず二カ所ある。筒の両端が開いているため、泥地の中と生息条件に似たような環境となり、筒を住み家にする。竹筒漁はこのウナギの習性を利用した。
 時化(しけ)以外はほぼ毎日、ポッポを引き揚げた。小舟に乗ってミチナワをそっと静かにたぐり寄せ、筒が斜めにならないようにそっと持ち上げる。この時、筒の片方の口にたも網を充て、筒を手で持って筒を揺する。揺すらないと、入っているウナギが出てこないこともあるからだ。
 一つの筒にはウナギが2、3本も入っている時もあれば、全く入ってない時もある。「ボク」と呼ばれる大型のウナギが入る時は決まって1本だけ。「メソッコ」と呼ぶ細いウナギは筒にはあまり入らなかった。取ったウナギは小舟の「ドーノマ」(胴の間)の生け簀(す)に入れた。
 同じ内湾の竹筒漁でも「ツツ」「ツツッポ」などと呼び名が異なり、千葉県西上総地方では「ポッポ」と呼んだ。子供たちが干潟での水遊びがてら、いたずらして「ポッポ」を引き揚げてしまうことがたびたびあった。
 手で揚げる時は両手で筒の両端をそっと抑え、筒を立てながら水を抜き、ウナギが掛かっているかどうか確かめた。筒のウナギは抑えた手の隙間から頭を出して逃げようともがいた。
 子供の中には、盗んだウナギを持ち帰る悪童もいた。竹筒を仕掛けた漁師は、筒が既に引き揚げられ、いたずらした悪童がその場にいれば叱ったが、“現行犯”でなければ、どこの悪童がいたずらしたのか分かっても後で叱ることはなく、悪童の家に押し掛けたりすることもなかった。高度経済成長期を迎える以前の昭和30年代前半は、まだそういう時代だった。
 ウナギ竹筒漁は国内各地の内湾や河川、湖沼でも同じウナギ竹筒漁が行われている。高知県四万十川では竹筒の代わりに木製の長い木箱を使っている。東京湾では埋め立てで干潟が消失し、竹筒を準備するまでに手間も掛かるため、漁場の澪もなくなった昭和40年代にほとんどやる人がいなくなった。

柴漬け漁

シッパ

 メダケや常緑広葉樹のスダジイ、マテバシイの小枝を混ぜて竹箒(ほうき)状にした束を海底に沈める寄せ魚漁。ポッポと並んで干潟での典型的な伝統漁法だ。
 石炭や石油の燃料がない時代、炊事用のかまどにくべる柴を漁具に利用したことから「柴漬け」「漬け柴」と名付けられた。柴だらけの雑木林は「ボサ山」とも呼ばれたので「ボサ」、シイの葉を使うので「シッパ」とも言った。ボサの丈(たけ)は90㌢~120㌢。ボサの半分はメダケを混ぜのがコツだった。
 漁場は干潮時でも干上がらない澪や河口域の深場に落ちる際筋。干潮時に最も潮が退く「そこり」の時の水深で2、3㍍の場所が最適だった。ボサの数は漁場にもよるが最低30束、平均100束、多くて200束ほどを作り、「親縄」とも呼ぶ荒縄のミチナワ(幹縄)に7~10㍍間隔で結わえた。
 漁期は水のぬるむ4月の彼岸過ぎから9月ごろ。漁の狙いはウナギだった。小舟に乗りながらミチナワを静かにたぐり寄せ、ボサの束ねた先をそっと持って直径約1㍍の大タモ網にボサを入れる。ボサをユサユサと揺すって中にひそんでいる獲物を生け捕る。

シバエビ、ギンポが主

 スダジイなどの葉がまだ青いうちではほとんど収穫はないが、葉が海水になじんで少し黄ばんでくると、最初に入るのがシバエビ。シバエビは隠れ場としてササが好みらしく、メダケの葉が枯れて落ちない間は常に入っていた。次にイシガニとギンポが仲間入りし、メバルの稚魚が混じり出すとウナギが掛かった。
 ウナギは大物こそ入らないが、大人の親指から小指ほどのものがよく入り、一つの束で数本もいる時があった。ボサは漁期が過ぎると撤去したが、そのまま放置して置くと、11月から2月にかけてシバエビがかなり入っていた。
 漁師はメバルの稚魚はその場で海に戻し、ウナギのほか魚屋に売れるシバエビ、イシガニ、ギンポは持ち帰った。シバエビは天ぷらのかき揚げか佃煮用、ギンポは三枚におろしてして天ぷらネタにした。江戸前の天ぷらには必ずシバエビとギンポが付いていた。イシガニはゆでるか、みそ汁の具にして食べた。
 湾内の漁村の家々にはかつて、ノリ養殖のヒビなどに使うマテバシイ(房総地方はトウジがという、トウジイの呼称が正式)の屋敷林があった。ボサには屋敷林のマテバシイを伐採して使った。
 これだけではボサの材料が不足し、スダジイの木などほとんどないため、近隣の山でスダジイを見つけ、所有者にわずかな謝礼を払って譲ってもらった。謝礼を取らない場合は、ボサで上がったウナギ以外の獲物を持ってお礼に代えた。昭和30年代ごろまで、漁村には農村からリヤカーをひいて野菜を売る農家の行商がいた。この農家にスダジイがあれば、ここから材料を調達した。
 昭和30年代後半からの相次ぐ干潟の埋め立てで柴漬け漁の漁場は消失した。漁村の風景も変わり、マテバシイの屋敷林もボサの茂る雑木林もほとんどなくなった。漁場と材料がほぼ同時に失われ、内湾での柴漬け漁は見られなくなった。千葉県内では夷隅川の河口域でまだ続けられ、ダムが築かれず河川流量の多い河口の汽水域などで柴漬け漁が行われている。
 大きな市場にはシバエビやギンポが並ぶ。内湾での伝統的な漁法が消えて、どこから入荷しているのか気になっている。(一照)(つづく)

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