糺の森・湧水探訪2

 

下鴨神社の古井戸2

 京都の青垣

 糺の森に戻る。里山にある落葉広葉樹のクヌギ、コナラ、樹皮がうねりの縞模様のイヌシデ(ソロ)、常緑広葉樹のカシ類、特にウバメガシやマテバシイ(トウジ)は太古から薪炭用に伐採され続けてきた。特に第二次世界大戦中の窮乏期には鎮守の杜でさえ例外ではなかった。薪炭需要のない現在、薪炭用の伐採がない平地林のクヌギ、コナラの樹木は大人の胸の高さの胸高直径で40~50㌢、高さ12~15㍍にも育ってしまった。薪炭用の樹木は薪炭に利用されてこそ価値があると思う。神域の糺の森でさえ例外ではなかったと思う。
 京都の地勢から地下には大きな水がめ、水脈があることが学術調査で分かっている。鴨川の伏流水だけでなく、東山36峰の丘陵が水をはぐ汲み、盆地の底の京に水を供給してきた。36峰は北寄りの比叡山から南寄りの伏見稲荷大社のある稲荷山まで連なる丘陵の青垣。それぞれの山中や山麓に社寺があり、社寺の森は霊魂や神霊が潜む森として大事に守られてきた。
 丘陵地帯には山歩きのトレッキングルート、ハイキングコースが整備され、適度に人の手が入ってきた。明治時代初めの東山一帯の写真を見ると山々は現在ほどうっそうとしていない。戦時中や戦後窮乏期に多くの樹木が伐採されたらしく、樹木はまだ低木でまばらである。きちんと手入れがされて樹木が育ち、水源を涵養してきた。建築用材のスギやヒノキの植林地は林床を手入れしないと、大雨で林床の腐葉土が流出してしまう。ブナや常緑広葉樹の森は比較的、林床がしっかりしていて腐葉土が流出することはあまりない。森はある程度の手入れが不可欠だということを林業者から教えられたことがある。
 京都のもう一つの大きな青垣が北山。大ざっぱに言えば花背山から桂川右岸の愛宕山まで連なる山系だ。鞍馬寺、貴船神社、神護寺、愛宕神社、金閣寺など京の有数の社寺が山中の懐や裾野にある。この山系も豊富な水を盆地に供給してきた。
 桂川を挟んで西側に連なる丘陵・西山山系も嵐山や大原野などの丘陵にある細流が桂川に流れ込む。桂川の伏流水がまた、京都の地下水系を豊富にしてきた。

コロナ禍でも水を出す

 糺の森、境内には湧水があちこちにある。どの場所も水質検査の有無、飲用の可否不明。だが、これまで何度もあちこちにある手水場の水を飲んだが体調に異変はなかった。2022年7月と8月、3年ぶりに復活した祇園祭りのさなか、コロナ感染症の第7波が押し寄せた。感染症拡大を抑えるため手水場のひしゃくの使用をやめ、水を止める寺社が多くある中で、下鴨神社は手水場の水を止めなかった。

河合神社真向かいにある井上社の手水場

 河合神社の真向かいにある井上社の左右の井戸から湧出する水がある。この水は井上社の両脇にある手水場の水として利用されている。これまでそれぞれの手水場で何度も飲用した。口当たりが柔らかく、軟水の水だと分かった。生水で飲用して体調の異変はなく、お茶用、コーヒー用に煮沸すれば、うまいお茶、コーヒーが飲めるはずだ。
 同社の社務所では2022年夏に訪れた斎に売店で富士山の霊水を入れたペットボトルをご神水として販売していた。下鴨神社も同じように富士山の霊水をご神水として販売する予定のようだ。せっかく良質な湧水があるのに、なんともったいないことだと思った。
 地下から自然に湧き出る水を売って利益を売ることについて監督官庁などがうるさいらしい。祠があることで地下水を守っている。経費がかかっているのだから文句を言われる筋合いはないと思った。水質検査を受け、堂々と自ら湧き出る水を売ればいい。

あちこちに湧水

 では、糺の森を含めた下鴨神社の境内外を歩いて確認した湧水の場所を紹介する。

垂水を詠んだ万葉集に収録の志貴皇子の和歌を説明するいわれ書き

 

参道から馬場越しに見る垂水(中央)、左の赤い社は雑太社

 垂水は糺の森の中で個人的に最もお気に入りの湧水。巨木の朽ちた切り株から水が噴き出す。参道の左手脇にある馬場の西側、末社の雑太(さわた)社の右隣にある。河合神社から下鴨神社の社殿に向かって210㍍ぐらいの場所にある。雑太社は910(明治43)年、慶應義塾(現在の慶応大学)が旧制三高(現在の京都大学)の学生にラグビーを教えた場所とされている。雑太社はこの関西ラグビー発祥の地を記念した社で、ラグビーボール型をしたさい銭箱があるのですぐ分かる。

古木の切り株の洞から湧出する垂水。切り株の根回りは石積み

 下鴨神社は訪れるたびに摂社、末社が増えているような気がする。雑太社もその一つ。30年ほど前に初めて糺の森を歩いた際にはなかった、かつての古社の復活という。神社側の考えにもよるが、個人的には古い歴史のある社は、古色を帯びた装いであるからこそ神意があふれているように感じられる。古社の趣をどう伝えるかは、難しい選択だ。

切株の洞から枝の樋を伝わって流れる垂水


手水場に流れ込む垂水

 垂水は古木の切り株の洞(ほら)からわき出し、古木の枝の樋(とい)を伝わって手水鉢に入っている。樋からは青竹に水が入るようになっていて、青竹から常に手洗いに適量な水が流れている。切り株の周りは石積みされたこんもり盛り上がった丘状になっている。湧水は清れつで、古格な切り株から出ているので、切り株にも神威があるように感じる。


古木の枝をくりぬいた樋からほとばしる垂水

 かつて同じ場所に垂水があった。1958(昭和33)年の式年遷宮事業で復旧が計画されたが実現しないうちに古くからの垂水は撤去されてしまったという。2015(平成27)年の第34回式年遷宮の記念事業として復活工事が始まり、2018(平成30)年に復旧工事が終わり、60年ぶりに新しい垂水が再現、再興された。 

 神社の説明によると、「垂水は神奈備(神々の鎮まるところ)の糺の森の木々の葉の露を両手にお受けになり、御体をうるおされることによって自然の神々の大きな力を得て再生の御生(みあれ)される儀礼だった」という。

河崎社の池


河崎社の池=池の中央付近と右端から湧水がある

 河崎社の池はかつての池を改修整備し、池の周りは緩やかな傾斜の石積み護岸となっている。池を臨む鳥居近くの池の右側と池の中央付近の池の2カ所から湧水がある。手水場用などには利用されていないが、湧水を見ると、口に含んでみたい気になる。せめて手を洗うぐらい利用させてほしいと思う。池の水は瀬見の小川の水源にもなっている。

手前の石積み護岸の穴から湧き出した水が流れ出す河崎社の池

  河崎社の読み方は「こうさきのやしろ」。社殿は再興された。再興について宮司のあいさつで社のいわれが詳しく説明されている。説明をかいつまんで記すと、馬場西側の賀茂斎院歴代斎王神霊社の再興に続いて第34回式年遷宮事業の継続事業で再興されたという。

河崎社のいわれ書き

 かつて神先(かんざき)と言われた。社の元の地は、京都大学から知恩寺、田中神社の地域に所在した鴨氏の村に祀られ、知恩寺の境内にある鴨社が旧地という。平安時代、この地はもともと賀茂御祖神社の領有区域で、室町時代や戦国時代の天文年間に集落が焼き討ちされて鴨神社も消失した。
 江戸時代の1711(正徳元)年の第23回式年遷宮により雑太社と相殿で社が設けられ、1785(天明5)年に河崎社として遷御された。しかし1921(大正10)年に都市計画法で河崎社境内の大半が下鴨本通りとなって、賀茂斎院歴代斎王神霊社に合祀され、1948(昭和24)年の第32回式年遷宮により社殿が撤去されてしまったという。湧水の池が復活して、今に見られることはありがたいことだ。

 

馬場から鳥居を抜けて河崎社の池に至る

 河崎社のご神体は池、しかも湧水の池だということが分かっただけでも、また糺の森の湧水を特徴づける有意な景観が加わったことはとてもありがたいことだ。池に近づくのに鳥居をくぐるので、まるで弁財天を祀る池のように思える。

 

ナラの小川

 神社は「奈良の小川」と表記している。社殿脇の井上社、御手洗池から朱色の橋「あけ橋」付近まで流れる小川。小川が流れる場所にかつて旧奈良社があった舩島(ふなじま)があり、小川の奈良はここからきたらしい。一説にはこの辺り、ナラ(コナラ)の群生地で、このナラをとって「奈良」としたといわれている。
 現在、コナラはざっと見渡して数本程度しかないが、この説がもっともふさわしいと思った。コナラはかつて群生していたが里山的な樹木で木肌がゴツゴツして見栄えがあまりよくないことから薪炭用に数多く伐採され、鎮守の杜に似つかわしい樹木に植え替えられた ように感じる。


復元されたナラの小川

 泉川に近い平安時代の祭祀遺跡の中にナラの小川の流路の一部(幅約3㍍、深さ約40㌢、長さ4㍍)が見つかり、復元された。

平安時代の祭祀遺跡近くを流れるナラの小川
結界を示す朱色のあけ橋

 結界を示す朱色の小さな「あけ橋」を渡った付近から御手洗池から流れるナラの小川と合流する。流路を追跡したところ、参道約1㌖のうち中ほどよりやや上にある太鼓橋「あけ橋」の脇が水源。

「あけ橋」わきのナラの小川の水源は枯渇して湧水がない
ナラの小川の水源の一つ。岩の間から水が湧出する

 あけ橋そばの湧水は枯れているが、近くにある岩からは岩の割れ目から水が湧き出している。岩は後に湧水の場所に付け加えた可能性があるが、湧水だけはホンモノ。飲用の可否は不明だが、清れつな水だ。そのまま瀬見の小川の水源になっている。

 

泉川とナラの小川の合流点。倒れた草は泉川が増水してナラの小川に流れ込んだ流路跡

  

泉川とナラの小川の合流点
泉川の流れ

  
 

     

泉川は高野川の支流。ナラの小川と合流し、舩島の周りを流れている。舩島は旧奈良社跡。社殿のない神社だ。ナラの小川は舩島の周りを流れて、瀬見の小川と合流する。
 泉川はかつてはもっと広い川幅だったという。いまでもカルガモがいたり、小鳥の水飲み場となっている。ウシガエルも生息する。糺の森がうっそうとしていることもあって、森には多くの野鳥が生息。早朝にはその姿も見ることができる。

ナラの小川に囲まれた旧奈良殿神地の舩島


奈良殿神地のいわれ書き

  

瀬見の小川



瀬見の小川のいわれ書き

 瀬見の小川には参道入り口近くにある河合神社の真向かいの井上社の両脇の手水場の湧水が流れ込んでいる。瀬見の小川は1204(元久2)年に選ばれたという新古今和歌集に収録の鴨長明の和歌にも詠まれている。「石川や せみの小河の清ければ 月もながれを尋ねてぞすむ」。これで瀬見の小川が良く知られるようになったという。

唐崎社があった瀬見の小川
平安時代の祭祀遺構

 古社で長い歴史を積み重ねてきただけに、森を含めた境内地を掘り返せばあちこちに遺跡が見つかる。縄文時代から平安時代にかけての遺跡がある。1990(平成2)年から2年間に及ぶ森の発掘調査でナラの小川の流路跡が見つかり、平安時代から鎌倉時代にかけて神社の景観を描いた古い絵図の通りで、これが今の流路になったという。(つづく)

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