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クレオパトラとはどのような人だったのだろう?

いつも読んでくださりありがとうございます。
クレオパトラについてまとめてみます。

私に「私の前世は、クレオパトラだったのです。」とおっしゃるお互いに繋がっていない3人の女性が同時期にいらっしゃったことがあります。
それだけでも、凄い存在感です。

クレオパトラは「世界3大美女」の一人とされ、その他の二人は中国の皇妃楊貴妃と日本の女流歌人小野小町です。

紀元前70年12月 もしくは紀元前69年1月に産まれました。
彼女はエジプト人ではなく、「マケドニア系ギリシャ人」で、古代エジプト・プトレマイオス朝の最後の女王(ファラオ)でした。

クレオパトラは子どもの頃から熱心に勉強し、約70万冊も蔵書していた「アレキサンドリア図書館」に足繁く通って知識を身に付けていました。

彼女は美へのこだわりが強く、装飾品や服装を工夫したりと「自分を魅力的に見せる術に長けていた」そうです。

アイシャドウは、古代エジプトが起源といわれていますが、メイクとして初めて取り入れたのはクレオパトラだといわれています。

クレオパトラはとても賢い女性で、数学・哲学・天文学など、さまざまな学問に精通しており、その知識を駆使して政治を行っていました。

彼女は語学が堪能で、7カ国語以上の言語を話せ、聞き上手で相手の話を引き出す術に長けていました。

彼女の声は甘く楽器のようで、多数の言語を自在に操り、これまでの王たちとは違ってエジプト語も習得していました。

古代エジプトの建物内は薄暗く、顔の造形がぼんやり見える。クレオパトラが美しいといわれたのは、顔の造形ではなかったとも考えられています。

クレオパトラは古代ローマの捕虜となり、自殺しないように監視されていました。しかし、籠に入れて持ち込ませたコブラに噛ませて紀元前30年8月12日に自殺しました。


クレオパトラ7世の結婚と恋愛についての歴史は、彼女の生涯を通じて多くの出会いと別れ、そして彼女の政治的な策略や恋愛によって形成されました。以下にその主要なポイントをまとめます。

紀元前51年:クレオパトラは8歳年下の弟であるプトレマイオス13世と結婚し、共同でエジプトのファラオとして統治を開始しました。
紀元前48年:クレオパトラはジュリアス・シーザーと出会い、恋人関係になりました。彼女の兄弟がアレクサンドリア戦争の間に溺死したとき、彼女は唯一の支配者になりました。
その後、クレオパトラは形式のために別の兄弟、プトレマイオス14世と結婚しなければなりませんでした。
シーザーの死後、彼女は息子カエサリオンと共にエジプトを再び共同統治しました。
紀元前41年:彼女はローマの別の将軍、マーク・アントニウスとトルコで結婚式を挙げました。

これらの結婚と恋愛関係は、クレオパトラの政治的な策略と個人的な魅力を示しています。
彼女は自身の魅力と知識を駆使して、エジプトの権力を維持し、その影響力を拡大することができました。

彼女の生涯は、愛と権力の狭間で繰り広げられたドラマのようでした。
彼女の生涯と恋愛は、古代エジプトの歴史や文化、
そして彼女自身の魅力や才能について学ぶことができます。
彼女の生涯は、彼女の魅力や知識、そして彼女が築き上げた関係によって形成されました。

クレオパトラの生涯と彼女がどのようにしてその地位を築いたかについて、その人物像を理解するのに役立つと思います。

以下にtayoro美術館のエジプトに関するギャラリーを貼りますので
クレオパトラに繋がるイメージを楽しんでみてください。

読んでくださり、ありがとうございます。




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