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『聖なる館』 レッド・ツェッペリン


 ジミー・ペイジとリッチー・ブラックモアは1960年代中半のロンドンにおいて超売れ子のスタジオミュージシャンだった。当時流行したリバプールサウンドや、アイドルポップのギターパートのほとんどをこの2人が担当していた。しかし、次第にスタジオのハードワークに耐えられなくなり、リッチーはディープ・パープル結成へ、ジミーは音楽業界から足を洗いアートスクールへ通うようになる。
 ヤードバーズはエリック・クラプトンが抜け、第2のギタリストとしてジェフ・ベックを招きいれた。順調に活動していたかに見えたが、ジェフの尖った行動にメンバー間ではイザコザが絶えず、ベーシストが脱退してしまう。そこへジミーがベースとして加入した。ほどなくして、ジェフは、さっさと自分のグループ結成の為脱退してしまう。
 マネージャーのサイモン・ネピアビルは、ジミーを第3のギタリストとして据えることにした。しかし、既存のヤードバーズのメンバーではバンドのパワーが無く、ニュー・ヤードバーズの構想が練られていった。
 ジミーはスタジオミュージシャン時代に何度も顔をあわせていたジョン・ポール・ジョーンズを誘い、バンド構想を語る。ヴォーカルは、とある田舎町にハイトーンヴォイスを出す、ロバート・プラントに白羽の矢が立てられた。
 ドラムのジョン・ボーナムは、とにかく音がでかいことが有名で、ロバートが連れてきた。1回のリハで、言葉は無用だった。そのニュー・バンドにザ・フーのキース・ムーンがレッド(鉛の)ツェッペリン(飛行船)という名前をつけた。”どうせすぐ落ちるだろう”という意味らしいがそのネーミングの予想は外れ、彼らは空高く舞い上がっていった。
 ニュー・ヤードバーズとも呼ばれたツェッペリンの『Ⅰ』(1968)はブルーズを踏襲したヘビーロック、『Ⅱ』(1968)はツェッペリンの独自性を打ち出し、ニューロックとも呼ばれ、『Ⅲ』(1970)はアコースティックへのアプローチを試みた意欲作。
『Ⅳ』(1971)はそれまでの集大成ともいえる作品で、70年代ロックの方向性を打ち出した作品。
『聖なる館』(1973)はブルーズから劇的にプログレッシブな展開を引き起こすアレンジが施され、4人バンドの限界を超えた作品。
『フィジカル・グラフィティ』(1975)は2枚組に及ぶ大作となり、いつまでもブルーズやロックだけではなく、新たな境地を求め始めた作品。
『プレゼンス』(1976)はロックの基本に立ち返り、ベースはあくまでもシンプルにリズムを刻み、ギターはリフを繰り返す。後期では一番骨太なアルバム。
『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』(1979)はシンセサイザーを多用し、今までに無い音作りを試みた作品。そして、ジョン・ボーナムの死がバンドにピリオドを打つ。もし、ジョン・ボーナムが死んでいなければ、『イン・スルー~』の次の作品こそが新たに生まれ変わったツェッペリンの姿だったのかもしれない。そこには、シンセとハードロック、ブルーズの融合が行なわれツェッペリンの完成形があったのかもしれない。

 僕がツェッペリンのアルバムを1枚選ぶとしたら、『聖なる館』を選ぶ。変化し続けるツェッペリンの中で、異彩を放つ1枚だ。幻想的なサウンドが、神秘的なムードを醸し出しており、変拍子も随所で使われており、プログレッシブ色の強い作品だ。何よりもメンバーが好き勝手にやっている、という感じがアルバム全体に出ているところがいい。セールス的にも1番ノッている時で、みんなが輝いていた時だからだ。

 僕は今でも、ツェッペリン時代のジミーが、世界中のどのギタリストよりも格好良いと思っている。チリチリのロングヘアー、細身の長身の体、ド派手な衣装、股間まで下げたレスポール、しなるように体を曲げて速弾きをする姿に惚れた。ロックスターとはこういうものだ、という典型だ。・・・今のジミーは前述の全て逆と思っていい。笑。
『聖なる館』の頃のジミーを生で観たかった・・・。それを考えるとクラプトンやベックは自己管理しているほうだね。だってステージに立ち続けているってぇのは大きいよ。

2005年11月14日
花形

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