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吉田拓郎コンサート2019 Live 73 years 東京国際フォーラム

 2022年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにし、これにより同年6月29日発売のアルバム『ah-面白かった』が最後のCDリリースとなった。また、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も12月16日で終了した。(Wikipediaを抜粋)
これが、世間的に知られる吉田拓郎の最後の姿である。
 しかし、長年の彼のファンである私は一切信用していなかった。その証拠に2023年2月には『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』に出演している。
いくら、拓郎が「引退する」と宣言したとしても信用なんてしてはいけない。彼は素敵な嘘をつき続けて来たのだから。
そして、今年の12月15日に再びラジオ出演が決まった。私はそのうちアルバムの発表でもあるような気がしている。
今日取り上げたブログは拓郎の最後のコンサートツアーのレビュー。私は厳しいファンだから褒めて欲しがる拓郎には嫌われるファンだ。
しかし、そういうファンが最後まで残るんだぜ。
2023年12月


 コンサートツアーも終了したので、今回の吉田拓郎のコンサートについて僕が感じた率直な感想を書こうと思う。しかし僕の感想に真っ向から感情的で否定的なコメントをされる方がたまにいて、そういう方は得てして拓郎に対し盲目的で、「そこに拓郎がいればいい」とか「73歳で歌っていることが奇跡」という感想を持たれ、拓郎をあらゆる美辞麗句で称える事が多い。僕はそういう盲目的なファンは相手にしないのだが、そういう方がもしいるのであれば、このコラムは多分気分が悪くなると思う。そういう方にとって辛らつな内容になっているので、読まないでいただきたいし、わけのわからないレスをしないでいただきたい。
もちろん、「拓郎の歌で勇気をもらった」とか「彼が私の生きる指針となっている」という方々がいらっしゃることは十分理解した上で書いているので、決して非難するわけでなく、あくまでも僕のコンサートの感想であることを付け加えておく。

 僕は6月4日(火)の東京国際フォーラム公演を観覧したが、シンプルに言うと、
1985年の「ONE LAST NIGHT IN つま恋」の雰囲気で、1989年の「BIG EGG公演」を観ている雰囲気だった。(注1)

 今回のコンサートツアーは「最後のコンサートツアー」になるかもしれないと本人の口から出た事が、僕たちファンの緊張感を一気に高めたのだ。拓郎が自身のラジオ番組で話していた「最後」を意識させる物言いを、彼は努めて明るく話していたが、年齢からくる不安という解決の方法が見当たらない絶望的な想いがそこには込められていた。そして、今回のツアーの演奏曲について全曲吉田拓郎作詞作曲の楽曲にすると言った時、僕の緊張はかなり高まった。
 拓郎は本気だ。

 2012年に体調不良から来る不安定なパフォーマンスに対する不安から「全国ツアー撤退」を表明した時と同じくらい、僕の中で大切な物が無くなっていく気がした。だから必ず見届けないと、と思った。
吉田拓郎という巨大なミュージシャンの最後を見届けないと40年以上も彼を追い続けてきた自分に決着がつけられないと感じたのだ。

 コンサートは彼が肺癌の手術から復帰した時のコンサートの1曲目と同じ「今日までそして明日から」の弾き語りで始まった。歌の途中である「私には私の生き方がある・・・」という部分から厳かに歌いだした。
この1曲目で彼のこのコンサートに掛ける想いが伝わった。そして、作詞作曲が吉田拓郎の歌という事は、アップテンポで人気のある「春だったね」や情熱的な「落陽」は無く、拓郎自身の言葉を紡いだ内省的な歌が次々と披露されていった。
 拓郎の今の気持ちを表現した歌たち。それは、拓郎の長い音楽生活の集大成というセットリストでは無かった。その歌たちの内容は人生のアウトロに相応しいもので、60歳以上が大半を占める会場の中では観客の誰もが我が事のように聞き入っている。そこには今までのようにこぶしをあげて盛り上がるという雰囲気のコンサートの姿ではなかった。
そのせいか、最後という前評判の割には客が求める古い代表曲より「今の自分の気持ち」を打ち出す選曲が全体の半分を占めたことで、観客と演者との間に微妙な溝が出来上がっていった気がしたのは僕だけではなかったはずだ。そしてその雰囲気を察知した拓郎自身がコンサートも半ばに差し掛かったところで、彼独特の表現のMC(みんなもやもやしてるよね。でも僕は非常に楽しいよ、というような内容)をしていたし、コンサート終了後の彼のブログにもそれを想起させる内容が記載されていた。
 演者側(拓郎や演奏者)は客席に違和感を持っていたのだ。

 拓郎はこの事を翌日のブログで「1975年のつま恋のステージに立っているような雰囲気だった」という表現を使っていた。
この意味は、1975年に開催された世紀のイベント「吉田拓郎・かぐや姫 イン つま恋1975」の時に5万人以上に膨れ上がった観客を前に「客が攻めてきたらどうしよう」という恐怖心があったことを指しているに違いない。これは拓郎自身が何度もラジオ番組で話していたことでもあるし、客から出る雰囲気が彼をそう思わせたのだろう。

 それよりもそんなことでパフォーマンスの出来が悪くなるということに、どこにも持って行くことができない「もやもや」が私には生じたのだ。そして、その「もやもや」は、今に始まったことではなく、2006年のかぐや姫とのつま恋イベント直後の日本武道館公演でも同様に感じたことで、ズバリ言うと「声が思うように出ないことによる不安定な音程」なのだ。
本人はそれを痛感したためか、後に全国ツアー撤退を発表するに至る(前述)。僕はその当時、このことを相当ブログで糾弾した。
まともに歌うことのパフォーマンスなくして、なにがミュージシャンかと。ファンはもう少し厳しくあたるべきだと。なんでもかんでも「最高でした」はないだろうと。
 もちろん肺癌を克服してステージに戻ってきてくれたことは、泣きたいほど感動したものだが、人前でパフォーマンスするレベルを拓郎自身がどう思っているかを考えているのかと。同世代の小田和正も井上陽水も矢沢永吉もミック・ジャガーだってベストパフォーマンスに向けて日ごろから鍛錬しているのではないのか、と当時書き、歌は芸術であるが、歌うことは体力なのだ。だからしっかりと歌えるようになってから出てきて欲しいと願うばかりと締めたのである。
 最後に、吉田拓郎のコンサートは、そこにエンターテイメントを求めるのではなく、吉田拓郎の生き様を観に行くという行為だと僕は思っている。音楽会ではない。どちらかと言えば講演会に近いのではないかと思う。
 もちろん拓郎の歌の世界はフィクションであるが、自分の史実を元に作られたキルケゴールの如く実存主義の思想がそこに存在する。
そして、拓郎の魂の歌唱は、テクニックではなく
ソウル(本能)である。心の底からのパフォーマンス
である。
とはいえ、「音楽」という括りの中でのことなので、今回の東京国際フォーラムは残念だったというのが僕の結論である。(注2)

 しかし、今回のコンサートではそんな中、嬉しかったこともあった。2006年の日本武道館と違うことは、新曲がセットリストに入っていたこと。そして拓郎自身から「コンサートはどうなるかわからないが、まだまだ音楽は作り続けて行く」と発言されたことである。
 拓郎の言葉からこれからも曲を作り続けるという言質はとれている。本人は天邪鬼だからそんな約束してないよ、なんて後から言い出すかもしれないが、それに対して怒っていては拓郎ファンにはなれない、ということも付け加えておく。

僕たちファンは、「拓郎、また、なんか言ってるよ」でいいのだ。

注1・・・拓郎引退の噂でもちきりだった1985年のつま恋。拓郎自身もコンサート終了後の音楽活動の名言を避けていた。そして1989年の「BIG EGG公演」は拓郎が東京ドームでどんなコンサートを繰り広げるのかという期待に胸を膨らませた5万人の前で発表したばかりのニューアルバム『ひまわり』(1989)を中心にステージは進んだ。今の音を聴かせたい拓郎の想いのズレ。コンサート終盤まで乗り切れない観客の苛立ちが続いた。

注2・・・7月3日、横浜パシフィコでの最終公演でこのツアーは終了した。東京国際フォーラムと最後の横浜公演を観覧した人の意見は・・・「横浜は本当に感動のステージだった。何故拓郎が全曲自分の歌でやりきったかがわかった気がする」「「落陽」をしない拓郎なんて、と東京の時は思っていたが、やらない決意ということも大事だと感じた」などとコメントしていた。

2019年7月14日
花形

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