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ダウンタウンブギウギバンドがファイティングしていた日

 僕は1965年1月、川崎で生まれた。当時の日本は高度成長期真っ只中で、製鉄業が幅を利かせ、特に川崎では日本鋼管と新日鉄がしのぎを削っていた。空は灰色で、ばい煙と光化学スモッグが蔓延し、「公害の町」「川崎ぜん息」などと、良い表現など一つも無かった。
 工業地帯では重油を常に燃やしているため、昼の空は灰色、夜の空は赤かった。親は環境を考え、僕が小学校に上がる頃、横浜の田園都市に引っ越した。僕は、そのとき見た夜空がどこまでも黒く、星がまたたいていたので子供ながらに感激したものだった。京浜工業地帯に育った者は、夜空が赤いことが常識だったから・・・。

 その京浜工業地帯の臭いのするアルバムがある。
ダウンタウン “ファイティング” ブギウギバンドの『海賊盤』である。
 1980年末の浅草ロックフェスでダウンタウンブギウギバンドは解散し、名前にファイティングを付け、再出発した。それまでの古いナンバーはすべて封印し、新曲のみで勝負をかける。所属していた東芝EMIとも契約が切れ、レコードは自主制作になった。そのときのアルバムが『海賊盤』である。とてもアイロニーなタイトルだ。
 今と違い、自主制作は大きなハンディである。流通経路が断たれ、制作コストも今と比べ物にならないほどかかる。現在ではCDは素人でも簡単にデジタル処理し、制作することができる。しかし当時はCDすら無く、アナログは専門の工場でプレスを行うため、手軽に作ることはできないし、手間や金銭面など合わせて制作するには相当の覚悟も必要だったろう。しかも、《紅白歌合戦》にまで出場し、「つっぱり」という言葉を認知させ、片や山口百恵のヒット曲を量産していた宇崎竜堂が何もかも捨て、何故、そんな行動にでたのか、みんな不思議がった。

 宇崎は東京、中野生まれ。明大中野高校卒業後、明治大学仏文科に入学し、カントリー&ウェスタンクラブに所属(1年後輩には阿木耀子が在籍していた)。要はボンボンなのである。後にダウンタウンブギウギバンドと名乗るが、リーダーの宇崎は山の手育ちのお坊ちゃんである。いくら悪ぶっても育ちの良さが彼の活動(司会業やプロデュース能力)からも読み取れる。
 宇崎はもともと売れないグループサウンズのバンド「みるく」(松崎しげる在籍)のマネージャーだった。また、片手間で演歌の作詞もやりながら、音楽ビジネスにしがみついていた。本人としては自分が表に立つより、裏方が似合っていると思い込んでいたらしい。そんなガツガツしていないところもボンボンらしい。そして、ひょんなことから本人のレコードデビューの話になり、売れない演歌を2~3枚ほどシングル盤で発表した。そんな生活の安定していない宇崎は何と阿木とは結婚をしていた。売れない弾き語りをしながら、鶴見の壊れかけた団地に住み、先の見えない2人が書き溜めた音楽は、時代に迎合できない若い叫びであった。
 宇崎は気付く。本当にやりたい音楽は、大学時代に米軍キャンプ廻りをしていた時に感動したロックやジャズに触れることだ。そしてそれがダウンタウンブギウギバンドの結成につながっていく。宇崎がファイティングしはじめた時である。
 ダウンタウンブギウギバンドは、当時歌謡曲とロックの中間に位置していた稀有なバンドであった。前述のとおり、ヒット曲もあるし、《欽ドン》にまで出て、コントまで披露している(宇崎竜堂や腰まである長いストレートな髪をぶらぶらさせた千野秀一が半ズボンはいて、「母ちゃん!・・・」って萩本欽一に絡んだとき、僕はひっくり返った)。日本のロックの首領・内田裕也との関係も深く、彼主催のロックコンサートには必ず出演していた。歌う歌も、オリジナルヒット曲から「網走番外地」なんてものまで飛び出すバラエティの広さ。でも、その中途半端な位置が一般人にも、またロックファンにも受け入れられていたとは思えなかった。中途半端な存在の苦しさ。

 宇崎は当時TVK(テレビ神奈川)で《ファイティング80》という番組を持っていた。日本のロック黎明期のバンドが、こぞって出演していた番組である。蒲田の電子工学院ホールで収録されており、電子工学院の生徒がカメラを構えたり、音声を担当したり、と手作りな番組だった。宇崎は分け隔てなく、出演者に接し、非常に安心感のあるホスト役に徹していた。えばらず、新人達の兄貴という立場だったと思う。現にデビュー直後の佐野元春やアナーキー、サザン、シナロケ、RC、JL&C、ARB・・・。憂歌団や渡辺香津美、岡林信康までもが出演していた。高校生や大学生が喜びそうなラインナップを特集し、60分たっぷり見ることができた。しかしその中で、ライブゲストの前後に出てくるダウンタウンファイティングバンドの演奏は、どのバンドよりも尖っており、鬼気迫る宇崎のステージはホスト役の時の顔とは別人だった。
 そこで、演奏していたライブが『海賊盤』として自主制作された。歌詞のきわどさ、ウレ線ではないメロディライン。形式上ではロックとしてカテゴライズされていたが、存在は完璧なパンクである。アルバムタイトルからして皮肉に溢れている。
「住めば都」「鶴見ハートエイク・トゥナイト」「堕天使ロック」「MY BODY」「東京・豚」「シャブシャブ・パーティー」などタイトルを見ただけでも男臭く、やばそうな匂いがする。レコード倫理協会を通して歌うことなんてできないから自主制作なんだと歌を聞きながら思ったものだ。
宇崎はレコード会社に縛られないのなら、場所があればどこででも歌う、と宣言し、10tトレーラーをチャーターして出張ライブも行っていた。トレーラーの横側がガバッと開いて、ドラムやアンプ、キーボードが整然と並べられたステージがそこにあった。僕はこれを桜木町の駅前で目撃したことがあるが、さすがに3曲くらい演奏したところで、警察がやってきてしまった。もっと見たかった・・・。
歌詞も「FUCK」とか「とことんしたいよぉ~」なんてものばっかりだから、不快に思う人もいただろう。

 でも、宇崎は只のバカじゃない。ちゃんとバンドを維持するために「でかい仕事」もしていた。
NHK大河ドラマ《獅子の時代》の音楽監督。大河ドラマ史上初のエレキバンドによるテーマソング
「OUR HISTORY AGAIN」と、タイトルテロップに墨字縦書きで「ダウンタウンファイティングブギウギバンド」と出たときはひっくり返るほど嬉しかった。
しかし、ヒットを生み出さないとバンド維持も苦労するだろう。折角のNHKでのチャンスも、ライブで「FUCK」の連発では“いちげんさん”はひいてしまう。

 当時、宇崎が本当にやりたかったものは何だったのだろう。
バンド活動と平行して宇崎は映画制作や舞台へのアプローチに進み、どんどん「ファイティング」の意味が変わってきたのはファイティングと名を変えてから2年目のことだ。そしてダウンタウンファイティングブギウギバンドは、活動2年半にして解散状態になる。
『海賊盤』に「OUR HISTORY AGAIN」は入っていない。せめてもの宇崎の抵抗だったのか・・・。

 その後、宇崎はソロ、役者、竜堂組など活躍の場を変えていく。
ファイティング時代の研ぎ澄まされた音は誰からも縛られること無く、解き放たれた。あの歌たちはあの時にだけ生きた花であり、音であり、宇崎の叫びであった、と『海賊盤』を聞くたびに思う。
あんなに活き活きと音楽を演奏しているバンドを、僕はいまだかつて見たことが無い。クラプトンも拓郎もディランもU2もみんな、どこかで冷めているし、どこかで計算している。しかし、ファイティング時代の宇崎は笑っていようが、すごんでいようが、「活き活き」という表現がピッタリだった。

 1987年12月。ダウンタウンブギウギバンドは再結成したことがある。同窓会のようなコンサートである。そこにはファイティングの文字は無く、そこには『海賊盤』からの歌も無かった。

 宇崎は50歳をこえ、東京23区を廻るツアー2年連続で行った。慣れた弾き語りと絶妙のトーク、精力的に小さいライブを行っている。井上尭之とのコラボレーションは、良い歳の取り方をしている見本のようだ。ここでも育ちの良さを確認してしまう。アップタウンブギウギバンド・・・。

 東京から自宅へ帰るとき、首都高1号線を走る。多摩川を渡り、川崎に入ると夜空は昔ほどではないが、多少赤い。煙突から火を吹き上げ、空を燃やす。「帰ってきた」といつも思う。その時、口ずさむ歌は決まって「鶴見ハートエイク・トゥナイト」の一節だ。
 僕はダウンタウン生まれ。宇崎の歌う、本当のダウンタウンの歌、彼がダウンタウンで阿木耀子と苦しんでいたときの歌、そしてファイティング時代の歌が素直に入ってくる。

ファイティングしている男は美しい。

2004年12月13日
花形

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