見出し画像

『Communication』 FLYING KIDS

 とにかく時間が無くなった。大学を卒業し就職した時、1日の半分以上が会社の時間になった。音楽に囲まれていた生活がガラリと変わった。バンド活動も無くなり、通勤時にウォークマンで音楽に触れる程度。今から思うとよく途中で破裂しなかったと思う。
それだけ新しい生活に忙殺されていたのだろうし、音楽と同じくらい車も好きだったのでそれにかかわる仕事だからそれなりに集中できていたのかもしれない。
そんな時に会社から帰ってきた観たテレビ番組。
これは何だ?

“平成名物TV イカすバンド天国”。

 三宅悠司と相原勇が司会。村上秀一や吉田健、伊藤銀次、萩原健太らが審査員になってアマチュアバンドの批評をする。勝ち抜いてチャンピオンになるとメジャーデビューの道が開かれるという、わかりやすい番組だった。
この番組はあれよあれよと言う間に大ブームとなり、一大バンドブームが起きた。
 インディーズシーンからメジャーへの可能性が広がったので、アマチュアミュージシャンたちは色めき立った。原宿ホコ天やライブハウスは活況を呈し、番組に出たバンドのステージには黒山の人だかりが出来上がった。
しかし、あの頃のバンド達は今何処へ。
 BEGINは相変わらず独自路線で活躍中だが・・・
たま、ジッタリンジン、KUSUKUSU、ノーマジーン、THE NEWS、マルコシアス・バンプ、人間椅子、
remote、宮尾すすむと日本の社長、ブランキー・ジェットシティー・・・。いっぱいいたなぁ。

 僕は、そんな現象を結構冷ややかな目で見ていた。なぜなら、僕がかつて活動していたバンドはバンドコンテストで数度入賞し、事務所から声をかけられ、それでも地道にライブハウスで客を増やしていたバンドだったので、ポッと出のバンドが売れることに違和感があったのだ。
 一般人から見たらテレビのバンドも僕らのようなバンドも同じようなものなのかもしれないが、当事者からするとテレビのおかげでマイノリティなアマチュア音楽がいきなりメジャー化したことによる勘違い野郎の増殖は耐え難いものがあった。下手くそでビジュアルだけに力を入れて、そんなバンドにファンがついて・・・でも1年も持たない。消費される音楽がそこに出来上がっただけ。
なんだかなぁ。
だからモンキービジネスって言われるんだよ。

 でもそんな中、僕はあるバンドだけは注目していた。FLYING KIDSである。浜崎のシャープなヴォーカル。既成概念に囚われないキーワードをファンクビートに乗せて歌い放つ。
シンプルなリズム(ドラムは確かタムなんて無かったんじゃないか)、ファンキーなベースとギターがバンドのグルーヴを生み出し、“イカ天”の中では突出していた。

 デビュー盤『続いていくのかな』(1990)で登場した時は、詞の世界でも僕たちを驚かせてくれた。例えば「我思うゆえに我あり」などは旧日本語の語感をソウルビートにのせ、力強いメッセージを伝えた。逆にヒット曲「幸せであるように」は、思いっきり素直な歌詞にマーヴィン・ゲイを彷彿とさせる緩やかなソウルミュージックを奏でる。
 ちょっとクセのあるヴォーカルに好き嫌いが出そうだが、別に万人向けでなくてもいいわけだし、もともとロックはマイノリティな音楽だったし、なんて考えながら・・・。

 1992年。“ぴあ”の20周年アニバーサリーフリーコンサートに出演した彼ら。
トリのピンククラウドの前に登場したが、客はFLYING KIDSで大興奮となっており、浜崎のヴォーカルが夕暮れの空に溶けていった。いいバンドだなぁと心から思ったものだ。

 『Communication』(1994)は、そんな彼らの9作目のアルバムである。「セクシー・フレンド・シックスティーンナイン」は三菱FTO(自動車)のCMに起用され、
“かなりキテール・カンジテール”という言葉がちょっとだけ流行った。
今ではラップっぽい歌い方をするシンガーも多くなってきているが、浜崎のそれは最初から格好良かった(よく聴くと、浜崎のヴォーカルってチャーに似てるんだよね)。

 このアルバムでも相変わらずのファンク・ミュージックはノリが良く、充実の域に達している。
惜しまれて解散してしまった彼らだが、僕はこの『Communication』が一番彼ららしいアルバムと言う気がする。
 FLYING KIDSは魅力的なバンドだった。アマチュアっぽい演奏の中に異様に尖った浜崎のヴォーカルがミックスされる。きっと浜崎は上手いプレイヤーをバックに歌っても面白くないのかもしれないな。
ま、そんなことどうでもいいか・・・。

2006年9月15日
花形

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?