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働くことの意味

最近、個人的に親しくしていた牧師との距離が不自然に遠くなって心が落ち着かなかった。そこで、彼に連絡したら返答があった。

①教団の仕事が多忙になったこと。
②多くの人々と関与して疲れたこと。
③経済的な事情により、アルバイトをしながら牧師をしなければならなくなったこと。

①と②は普通の出来事なので、彼が意気消沈しているのは③の経済的事情なのだと理解できた。

彼は大学卒業後、すぐに神学校へ入学し、卒業と同時に、付き合っていた女性の神学生と結婚した。奥様の父親が開拓伝道者で、「最後の開拓伝道をしたいから、私が開拓した教会の牧師になってくれ」と言われて、そのまま赴任したのである。それ以来、現在に至るまでプロテスタントの某教会の牧師をしている。

元々、彼は宗教改革の系譜につながる伝統的な教会で幼児洗礼を受けていたが、信仰的には死んでおり、教会にも役員の両親が「小遣いをあげるから礼拝に参加してくれた」と頼み込んで渋々、教会に行ったり休んだりしていた。太宰治に傾倒し、私がキリスト者になって再会した時、絶望した顔をしていたのである。だから私は、いつものように伝道したら彼は信仰が回復して、大学を卒業してから牧師の反対を押し切って神学校に入学した。

"しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。"
マタイの福音書 19章30節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

彼が牧師になった時、私は証と伝道に熱心だったが、社会人として生活のために不眠不休で働いていた。障害と難病の故に何度も倒れて、教会の礼拝と祈り会、及び、教会員同士の霊的な交わり、そして奉仕をしていなければ、──即ち、キリストに対する信仰と服従がなければ生きることすら困難な生活の中にいた。

彼は牧師として、順調に赴任した教会の教会員たちから認知され、キリスト教の何らかのセミナーがあれば、多額の費用と時間を割いて継続的に学びをしていた。謝儀も日常生活を送る上で毎月与えられ、何の問題もなかった。生活費、医療費、児童手当、家賃補助、教育費、教会堂など、すべての奉仕と家庭に必要なものを備えられていたのである。

彼と友人だった私は時々、その地方を訪問して、一緒に奉仕をしたものである。

しかし、コロナ禍になって彼の環境は一変する。教会堂に集まることが制約された教会員たちは次々に関係か希薄となり、教会を去って教会員数は激減した。役員会との関係もギクシャクし、何人もの役員が教会を去ってしまう、──そんな不幸も続いた。当然、牧師の謝義も教会は捻出できなくなり、彼はアルバイトをせざるを得なくなった。

彼はそれが初めての社会人経験だった。彼が神学校を志望した時、教会の牧師は彼に「社会人経験のない者が牧師になってはならない」「しっかりと働いて、教会員や未信者の気持ちを味わってからでも神学校入学は遅くない」と大反対したが、彼はそれを拒否して強引に牧師の推薦を受けたから、汗水流して働き給与を得て生活することを知らなかった。

私たちにとって驚愕することだが、牧師たちの中で社会人経験がない方々は非常に数が多い。障害や病気で闘病と療養をしながら奉仕をする方々は尊敬に値するが、さすがに社会人として働いたことがなければ、皆の信頼を勝ち取るのに苦労するであろう。

"彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。"
イザヤ書 53章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

正反対に、主なるイエス・キリストは「悲しみの人で、病を知っていた」御方である。即ち、すべての人々をあわれみ、完全に共感することができたなのだ。

私は難病と障害を抱えながら、社会人経験を耐えて、ついに精神医学や精神保健福祉学などを学べる大卒対象の福祉専門学校に辿り着いた。神学と社会人経験だけでは取得不可能な福祉的視点とアプローチの基礎を形成することが僅かにできたと思う。

福祉専門学校を卒業してから、神からの召命を受けて、福祉分野の仕事を断念するしかなかった。あまりに無謀な決断だったが後悔はしていない。

さて、話を戻すと、彼は今、アルバイトと奉仕をする兼業牧師となっている。私も献身してから神学校に不時着し、卒業して教会スタッフになれるかと思いきや、梯子を外されて無念にも再度、社会復帰しなければならなかったことがある。再度の就活と社会復帰、仕事がどんなに苦しい経験かは当事者にしか理解不能であろう。

彼はまさに社会人経験なしで牧師となったツケが、教会員の減少によって献金が激減してアルバイトをしなければならなくなったのだが、私からすると「健常者で働けるなら働いてあたりまえ」「障害者や病者は働けるまで働くか、無理をせず、倒れないような療養生活を送るのが務め」だと思ってしまう。

既存の諸教会の牧師と奉仕者に限らず、すべての教会が互いに助け合って、互いの召命と賜物を引き出すような、励ましの場になれば良いのに。

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