考察:なぜ私たちは美醜にとらわれるのか

「美醜の囚人」

「客観的な美」など存在しない。なぜならその「美」は社会の側に作られたものだからだ。私たちはしばしば「自分の判断で」美醜を判別していると思い込んでいる。端的に言ってそれは間違いだ。美とは社会的構築物にほかならない。本稿の主題__「なぜ我々は美に囚われるのか」を考えるうえで、まずこれを前提として覚えてもらいたい。というのも、本稿の内容についてさまざまな意見が出ると思うが、その賛否の根底には、この前提の理解の差があろうからだ。

容姿への執着を考えるにあたって、その最初期の形、つまりは私たちが自己という存在を認識するその段階から考え始めよう。私たちが自分の容姿を客観視するとき、それはどのようなときか?鏡や写真を見るときである。このとき「見る自分」と「見られる自分」が誕生する。つまり、主体の分裂が発生するのである。私たちは自らを客観視したいという欲望のもと、こうして自分を他者のように見る。しかし現代では主観の絶対性はゆらいでいる。どれだけ自分を疎外して他者としてみようとも、主観の枠組みからは逃れられない。だから私たちは「自分の主観は本当に正しいのか?」「自分が勝手に美しい/醜いと思っているだけではないか?」という疑念をいだくようになる。したがって私たちは「客観」を他者に求めざるを得ない。

身近な他者はたとえば友人である。友人に「私を醜いと思うか?」と尋ねて同意する人はきっと少ない。それは関係性を壊さないようにするため、人に醜いと軽々しく言ってはいけないという倫理のためである。だから「身近な他者」はたいてい私たちの美しさを肯定する。「そんなことないよ!かわいいよ!」当然私たちは「お世辞で言っているだけなのではないか?」という疑念から逃れられない。したがって「身近な他者」の判断も自分が客観的に見て美しいかを保証しない。

このような疑念は社会のなかでの倫理と人間の本心が乖離していることで強化される。その強化因子として、私たちはまた、悪意のある他者の存在を見過ごすことが出来ない。悪意のある他者は__しばしばその他者も美醜の囚人なのだが__SNSで他者に対して、あるいは現実でもっと親密な関係の人間に対して、平気な顔をして容姿に言及する。彼らは匿名であることや、あるいは容姿の悪口を言っても崩壊しない関係性であるという安心から、息を吐くようにひどいことを口にできるのである。こうした人間の悪影響に対してわざわざ詳しく語る必要もないと思われるが、とくに後者の「親密な関係の他者に対する容姿の言及」は記しておくべきだと思う。なぜなら親密な関係の他者とはしばしばその人にとってもっとも信頼できる他者だからだ。たとえば親にその醜さを指摘されたなら、幼少期の私たちはそれを絶対的な真理として信じ込んでしまうだろう…ボーヴォワールが「第二の性」で語ったように、親は家庭の中で、子供にとって、神様なのであるから。こうした人間の発言はどんなに些細なものでも尾を引くものなのである。ではこうした心無い他者に「醜い」と宣告された私たちはいったいどうすればいいのだろう?社会は私たちに停滞を許さない。「醜い」からといってただ憂鬱に沈むことを許さない。街に出れば大量の広告が私たちに語り掛ける__「可愛いは作れる!」「美しくなれる!」「そのために金を出せ」「消費しろ!」_と。私たちはこうして美の追求に駆り立てられる。そのために「客観的な美とは何か」というのがまた大きな問いとして私たちの前に立ち現れる。美の追求に際する問題は、やはりここに収斂していくのである。

こういうわけで私たちは、「客観的な美」を探し求めるなかで、「身近でない他者」にその判断を求めざるを得ない。一体「身近でない他者」とは何か?それは、美の規範である。美の規範には「メディアによって婉曲的に伝えられる規範」と「数値で表される規範」の2種類がある。たとえばモデル、俳優、アイドルなどがメディアに登場することで植え付けられる規範と、顔面のパーツの配置の「理想的な」比率や大きさに合致しているかどうかで判断される規範のことである。このとき私たちはこれらの「美の規範」を遵守できているかどうかで美しいかどうかを判断するようになる。では、これらの規範は何をもって「客観性」が担保されているのか?前者はどれだけ多くメディアに露出しているか、どれだけ多くの人に支持されているかに、後者はデータとしてのもっともらしさに依拠している。

「メディアによって婉曲的に作られる規範」はまだ「自分が美しいと思う」という判断の余地を残しているように思われるが、これが規範として扱われると「自分の判断」の余地は消滅し「自分はどれだけこの理想の顔に近いのか?」という基準で判断されるようになる。美容整形クリニックでしばしば「この顔にしてください」と人気のタレントの写真が提出されるのはこうした美の規範化の一例である。

他方、この規範の遵守には別の解釈も存在する。それは「この理想の人のように私も多くの人に支持されているか?」という解釈である。このタイプの解釈のもとでは、規範を守るためには人気者にならなければいけない…私たちは自分で自分をプロデュースして人気者にならなければいけない。若者の承認欲求の高さはしばしば大人たちに語られるところであるが、彼らはその承認欲求が若者にとって「客観的な美」を保障するものであるという側面をまったく見落としている。承認欲求はただ単一の存在として近年浮上してきたわけではない__社会的価値と密接に結びついている。そのほとんどは大人たちが作ったものなのだが。従来はテレビや雑誌に出演できる人間はごく一握りであったが、現在はSNSの普及が参入障壁を低くしている。ゆえにTikTokでは美しい少女たちは意味不明のダンスを踊る…美の規範を守るために。このとき「客観的な美しさ」がフォロワー数や高評価の数といった具体的な数値によって可視化されるがゆえに、やはり私たちはこうした数字に支配されざるを得ない。

あるいはこうした承認欲求を満たす職業として地下アイドルやコンセプトカフェの存在があることも忘れてはならない。東京ではある程度の大きさの都市を歩けば必ず客引きをする彼女らを見ることが出来る。彼女らの存在は「人々に夢を与える」と正当化されるがその実態は、大人たちが彼女らの承認欲求を金に換えている、というだけに過ぎない。資本主義社会において、美を追求する人間は消費させられるか、あるいは搾取させられる、といわけである。(かなり悪意のある書き方になっているように思う。しかしながら筆者が『美醜の囚人』を問題視するのは単に彼女ら/彼らが幸せになれないからなので、働いている当人が心の底から満足できていたらそれでいいのではないかとも思う。)



「数値で表される規範」の一例

そして後者の、「数値で表される規範」は…こうした美の規範の中で最も馬鹿げていて、卑劣に機能する。この規範は誰が言い出したかもわからない、根拠も定かでないような比率やパーツの大きさの「理想」を私たちの顔面に押し付けて「この数値に当てはまらないからお前は醜い」と宣言する。「お前は客観的なデータに基づいて醜い」と無惨に言われてしまった私たちは、もうどうすることもできない…一つだけ除いて。それは何か。美容整形である。

(もちろん筆者はこの得体の知れない「数値」を作り出したのは美容整形業界の側であると信じて疑わないが、実際のところはわからない。しかし、こんな数値を持ち出して美容整形業界以外の誰が得をするというのだろう?)

美容整形はこうした美醜に囚われた人たちにとって、長期的に見て悪影響しかもたらさない。振り返ってみれば彼らはもともと、人の命を助けるような医療の人間からは排斥されていた人間である。「病気でもない人にメスを入れるなんて!」と非難されていたのである。そこで彼らは「美容整形によって私たちは容姿に悩む人たちを助けることができる」という正当化を行った。今ではその論理は至る所で通用しているように思うし、だからこそここまで普及してきたと言える。彼らの言い分は一見正しそうに見える。だが、彼らは資本主義経済の中に立たされている。彼らがその中で金を稼ぎ、美容整形を産業として成り立たせ、維持し、発展させるためには、ルッキズムを煽るほかない。電車や駅の中にや雑誌に異常なまでの広告を配置し、彼らは人々に美容整形をするように仕向ける。彼らが生き残るためにはそうぜざるを得ないのである。ゆえに、「短期的に見て美容整形は美醜に囚われた人たちを救済しうるが、長期的に見て美醜に囚われた人たちを増やす」という結論に至る。美容整形が産業として存在している以上は、ルッキズムを加速させるばかりなのである。

さて、こうして「客観的に私は美しいのだろうか?」という不安はここまで展開されたが、ここで私たちは、根本に立ち返らなくてはならない。

そもそも大前提として私たちは、美しくありたかったのだ。

「私は客観的に見て美しいのだろうか?」という不安の裏には「私は、自分が美しいと信じたい」という欲望があったはずなのである。しかしここまでの美醜をめぐる長い旅路を振り返ってみれば、私たちがやってきたことはむしろ「自分が醜いことを証明する」ための執着の旅だったと言えよう。「私」は「自分が美しいことを証明する」ために腐心してきたはずなのに、逆に「自分がが醜いことを証明する」ために腐心していたのである。

もし「私」が素朴に自己を肯定してくれる身近な友人を信じることができていたなら、ここまで深入りすることはなかったはずだ。あるいは、もしどこかの段階で自分に諦めをつけることができたなら…どこかの段階で自分自身をありのままに受け入れることができたなら…ここまで深入りすることはなかったはずだ。実際そうはならなかったのはなぜかというと、「完璧じゃなきゃいけない」という観念に囚われていたからだ。

美醜に囚われた人間にとっては、完璧じゃなきゃ意味がない。100点満点以外に価値はない。99点も0点も変わらない。自分の美の理想像と自分の顔が少しでもちがっていたら、それはもう醜いのだ。周りがどれだけ自分を褒めてくれようと、自分の理想に合ってなきゃ意味がないのだ。

しかし、ここまでの議論をたどっていけばわかるように、その「美の理想像」は、もう自分の中での美的判断の領域をとうに離れて、完全に外部の判断に依拠したものになっている。私たちは私たちの美を追求しているようで、得体の知れない他者の押し付ける美の理想像に囚われている。

さらに言えば、上述されたふたつの「美の規範」は必ずしも一致しない。たとえばテレビで引っ張りだこの女優の顔が必ずしも「数値的に」美しい顔とは限らないのである。というのも、「テレビで人気になるような顔」はすなわち「印象に残る顔」であって、なぜ「印象に残る」かと言えばそれは数値の生み出す美の規範から逸脱しているからだ。(たとえば高須クリニックの院長からすれば橋本環奈はパーツのバランスが悪く『美しい顔』ではないという。しかしながら彼女は『千年に一度の美少女』としてメディアにもてはやされた。それは他でもなく彼女の顔が『印象に残る顔』だったからである)
ここから言えば、たとえふたつの「美の規範」のうち一方にもし合致することができたとしても、もう一方の「美の規範」に合致せず、さらにそこに執着したならば「美しく」はなれない!これは美醜の判断基準を他者に任せたがゆえに生じるジレンマなのである。

いちど美醜に囚われてしまえば、そこに幸せになるものなど存在しない。もし「美しいものが勝者であり、醜いものは敗者である」と言うならば、この時点で「勝者」など存在しないのである。

では私たちがこのように美醜に囚われ、完璧主義に囚われ、「醜いことは悪いことである」という価値の転倒を起こし、永久に出られない迷宮に迷い込むのを防ぐには、私たちはなにをするべきなのだろうか?ここまでの議論を振り返ればわかることだが、「人を美醜で判断してはいけない」とか「人を醜いと言ってはいけない」といった倫理コードを適用することは事態を防ぐことに「全く」寄与しない。むしろそれは自体を悪化させる。なぜか?そもそも「身近な他者」の意見を私たちが信用できなかったのはこの倫理コードのせいだからだ。ルッキズムがもうすでに内面化された状態で倫理コードを導入、強化しても、ただ身近な他者の意見への不信感を強化するばかりなのである。そもそも、「他人の容姿を悪くいってはいけない」というのが倫理として機能しているのは、それが侮辱だからである。なぜ侮辱なのかといえば、「容姿がいいこと」は「よいこと」であり「容姿が悪いこと」は「よくないこと」であるからだ。結局のところ、外見至上主義的な思想のうえに立脚している倫理の強化は、外見至上主義の強化にしかならないのである。同様に、ポリコレが私たちにもたらしたように、「メディアに美人を登場させない」といった解決策もまた、無効である。どれだけ表面上取り繕ったとしても、内心にルッキズムが残っていたらそれはルッキズムの強化にしかつながらない。また、こうした美に関する倫理がもっぱら他者に対する向き合い方に限定されていることも懸念の一つとしてある。私たちが他者に対して「醜い」と言ってはいけない一方で自分に対しては「醜い」といってよい、というのは一種の歪みを生んでいる__たとえば自分自身の容姿を卑下するような投稿をSNSに書きこむなどすれば、結局それは悪意をもつ他者がSNSで他者の容姿を攻撃するのと実質変わらない効果をもつようになる。ここまで述べたように美醜に囚われた人間にとって美の判断基準は外部に依存している。だからそれに依拠して自分を醜いと卑下するのは同じ美の規範から逸脱した人間を婉曲的に攻撃しているのと同じなのである。「私の顔のパーツの大きさがこれこれだから、比率がこれこれだから醜い、つらい」と書き込む当人はまったく他者を攻撃する意図も自覚も持たないが、それは遠回しに同じような容姿を持つ他者も「醜い」と非難しているのである。自虐とは被害者の皮をかぶって自分と同じような他者を攻撃することなのだ。現代では「共感されること」が評価のうえで大変な重要性を持っている。そして上記のように自虐が倫理的に許されているから、どいつもこいつも自分の容姿を自虐するような投稿を繰り返す。こうした投稿がまた美醜に囚われる人間を増やし、また彼らがそうした投稿を繰り返す…。美醜への囚われはここでも加速していくのである。しかし自虐を倫理的に否定することは可能だろうか?ここで「自虐をしてはいけない」という倫理コードを新たに設定することは単に美醜の囚人たち__つまり被害者を抑圧するだけであって残酷以外の何物でもないのではないか?嘆くことも許されない世界はディストピア以外の何なのだろうか?私たちはこのジレンマと格闘しなければならない。

結局、私たちは何をすればよいのだろうか?とりあえず今のところは筆者は「ありのままの自分を受け入れなさい」とか「誰に何と言われようと自分は素敵なのだと信じなさい」とかそういう呼びかけしかすることができない。もちろんこれにも問題がある。他でもなく「囚われている」側の人たちがまず受け入れられないだろうからだ。きっと彼らはこう言うだろう…「綺麗事を言うな!」「そんなこと言ったって容姿がいい奴の方が得じゃないか!」…しかしほかに道はあるのだろうか?本文の冒頭を思い返してほしい。「客観的な美」は存在しない。すべての美は社会的構築物なのだ__美醜の囚人はみな「客観的な美」を追い求めている。ならば美醜から解放されるには、この「客観的な美」から脱却するほかにないのではないか?筆者は、「外圧から脱却して美における主体性を取り戻す」という方向でこの解放への道を考えたい。

この文は定期的に加筆・修正する予定である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?