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少女聖典ベスケ・デス・ケベス 第43話を読んで

この作品は私の静寂をざわめきに変え、官能の世界へと私を誘った

私は其のざわめきに抗うことなく筆を走らせ、賢者の時間を取り戻したにすぎない

(参考書籍)
「とんぼの本 これだけは見ておきたい桜」著:栗田勇 久保田淳 戸板康二 宮脇俊三 小林義雄
ISBN9784106019326
新潮社
発行年月日1986年


春を待つ真冬の寒い夕空にも、ひとはけ薄く紅を刷いたように暖かい色が滲みはじめると、そこにはもう春がある。

空にはもう春がある


私の心は騒ぐ。ひそかに抑えていたもの、待ち焦がれていたものが身の内で疼くのを覚える。こうして幾度私は冬に耐え、春を待ったことであろう。しかし、いく度年を重ねてもこの不思議なうずきは、いつも新しいものとして甦るのである。
もうそこまで春がきている。冬の空に私は白昼夢のように桜の空華が渦まくのを凝視する。

いつからであろうか。何時ともなくこの憧憬は私のうちではぐくまれ、育っていったような気がする。子供の頃私は何度か立ちションをしたが、どの場面でも空の下だったような記憶がある。
授業中にトイレに行きたくなって、他のクラスが先に授業が終わり廊下が騒がしくなるのを教室のなかから、なす術もなく聞き流さなければならなかった。
また、青春を謳歌したバイクツーリングのさなかにも、いつも尿意は私を立ちションに誘った。バイクを道路脇に停め、通り過ぎる長距離トラックを背後に怯えながら深夜の国道4号線の歩道でも立ちションをしていた。
明日も分からない日々の中でも、それだけに、尿意の記憶は鮮やかに心に刻まれた。
私は今も、あの長距離トラックの通り過ぎる深夜の国道4号線を瞼に浮かべることができる。

それから会社での繁忙と喧騒にみちた日々の風景のなかにもう立ちションとの出会いはないように思っていたがある日、渋滞する高速道路の車中でふと前方の電光掲示板を見たとき、あの奇妙になつかしい感覚がよみがえって私を羞恥心の向こう側に連れてゆき、車を降りて路側帯のコンクリート壁に惜しげもなく安堵の証を残す行為を憚ることなく一心不乱に行う酩酊感にも似た屈辱を嫌というほど味わった。
背後を低速で通り過ぎるマイカーからの視線を感じる。笑い声が聞こえる。おそらく何人かは私の写真を撮りSNSにアップしたのだろう。
#立ちションなう
#関越道上り
#赤城インター手前
#むっちゃ大量
#車道まで流れてる
#なにコイツ

以来、高速道路の渋滞は、私の黒歴史の中で異形の感情を鮮やかに蘇らせるのである。私のうちに眠っている古代からの血が、尿意にまぎれて、太古の記憶に掻き立てられてるかのようだった。
なにが、どうして、こうしたいらだちに似た、甘く懐かしくもある黒歴史を呼びさますのだろうか。
人は立ちションするときに必ずちんぽをだす。それは私に限らない。誰でも、立ちションといえば、人それぞれのそれを思い浮かべることができるはずである。それはおそらくは若き日の記憶にまつわるものであるが、日常生活とは次元の異なった、鮮やかでいて、しかも消えやすいあくがれにも似た想いなのである。

じつはこの心騒ぐあくがれについて語った人は、はるか昔にまでさかのぼる歴史の中に既にいる。
ちんぽのことしか歌に詠まぬ奇才、陰茎法師(1019~1063年)その人である。
陰茎は世の花鳥風月をちんぽを通じて捉え、それをいくつもの和歌にしたためることに生涯を捧げた。
そして各地のちんぽ歌人の歌を拾い集め、陰茎自ら編纂した本こそがちんぽ今和歌集である。陰茎はちんぽ和歌のムーブメントを知ってもらおうと時の帝にちんぽ今和歌集を献上しようとしたが、怒りにふれ死罪となってしまう。こうして、ちんぽ今和歌集は歴史から姿を消し幻の書となり、陰茎の名前は歴史の中に消えた。私はいまこそ陰茎の偉業を偲び、彼が編纂した歌の数々を改めて世に問いたい。


あしびきの
山のかほりに
混じるらむ
ちんぽのかゆみ
しばしとどめむ  (紀蒸之)

ちんぽの皮は
かぶりにけりな
いたずらに
人の斬るとて
霧と消えまじ  (真性)

半勃ちの
ゆくすゑきめで
庵に入る
わが身ひとつの
ちんぽにあらねど  (勃ち人しらず)

剥けずとも
何を責めるや
我はまた
濡れし艶気に
余る皮なし   (沖叉蔵臨)


私はとりとめもない想いを追っていた筆を休め、空を眺める。


幻想の和歌が聞こえる


目を閉じると、鮮やかな青がうるんだ空の下で、すでに幻想の和歌が今を盛りと響きあっているのが聞こえる。道元は「空華」という仏者の幻想についてこう云っている。空宙に大輪の花開くのは妄想だ、悟りをひらけば華は消えると言われているが、じつは空宇の華もまた実相の表れであり、幻華を除いてどこにでも世界はあるだろうと。
胸さわぐままに、私は幻のちんぽ今和歌集を追って旅に出るだろう。だれでも自分ひとりの「ちんぽ今和歌集」をひそかに持っているはずだ。そこには年ごとにめぐってきた立ちションの記憶が刻まれている。
実はこの話もまた、「少女聖典 ベスケ・デス・ケベス」の第43話から引用している。

少女聖典ベスケ・デス・ケベス第5巻 表紙


著作権等表記

私の心を素直にしたこの作品をどう評価するのか、未だ語りえぬのだが、私はかえってそれで良いと思っている。
この作品には少年時代の、ちんぽの息吹が残されている。主人公がありありと視たちんぽをつらぬくおおいなるものの「めぐり」がいっそう孤独に感じられるからである。

このちんぽの和歌を拾い集めた人はもういない。

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